今回はこのシリーズの続き。
『危機の構造_日本社会崩壊のモデル』を読んで学んだことをメモにしていく。
16 第5章「危機の構造」を読む_中編
前回は、アノミーの基礎知識と戦後日本に生じた急性アノミーについて確認した。
また、第2章で日本社会に蔓延するアノミーの深刻さを確認した。
ここから、話は日本は構造的アノミーに移る。
ここで一つ疑問を持つかもしれない。
著者(故・小室先生)はアノミーの深刻さを指摘する。
しかし、本書が初めて世に出たのは昭和50年ころ(オリジナルが出た年を基準、上の文庫本は平成3年に文庫化)で現在は2022年であるから、既に約50年が経過している。
その間、「失われた30年」のような停滞や様々な事件(学生運動・オウム真理教事件その他)はあっても、太平洋戦争のような「戦没者約300万・日本の主要都市の壊滅」といった破局はない。
ならば、「戦後日本のアノミーが深刻」という指摘は正しくないのではないか、と。
しかし、戦前の破局たる日本の主要都市が空襲によって壊滅したのはサイパン陥落から敗戦までの約1年間で起きたことであり、また、太平洋戦争における日本の戦没者も敗戦間近に集中している。
そして、この破局の前段階においても一種の停滞期間があった。
とすれば、「破局はまだ来ていない」は正しくても、「破局をもたらす点火がまだない」と考えたほうがいいのかもしれない。
もちろん、「日本社会のアノミーに対する耐性度は戦前ドイツよりも高い」といった仮説を付加することは差し支えないとしても。
ここから話は高度経済成長に移る。
高度経済成長は60年安保によって生じた国民的統合の喪失を回復させるための政治的目標であった。
もちろん、その背後には敗戦直後の日本の経済的困窮という事情があり、その事情があったからこそ高度経済成長は国民のほぼ全員の同意が取り付けられる政治的目標になったわけだが。
そして、この高度経済成長という政治的目標は国民の努力によって達成された。
もっとも、国民は経済成長の恩恵を被る一方で、高度経済成長に伴う副作用に気付くことになる。
当時の社会問題となる公害や人間疎外といった難問は高度経済成長がもたらしたのだから。
もっとも、高度経済成長は止めることはできず、強引に止めれば重大な後遺症をもたらしてしまう。
このことは石油危機等が経済成長の程度をストップさせたにもかかわらず、それによって生じた弊害はストップしなかったことに現れている。
この点、高度経済成長は政治的目標であった。
しかし、現実の高度経済成長という結果は日本社会の作動と日本国民の行動によってはじき出されたアウトプットでもある。
ならば、高度経済成長に伴って現れた弊害も同様であり、政策の所産で片付けるのは妥当でなく、対処療法では効果が薄い。
そこで、高度経済成長を達成させた日本社会の作動過程に目を向ける必要がある。
その際に確認しておくべきことが、第1章でも触れた高度経済成長のインパクトの大きさである。
そして、高度経済成長による生活の変化が大きいならば、高度経済成長それ自体が大きな単純アノミーをもたらすと考える必要がある。
また、高度経済成長は、自動車・カラーテレビといった十数年前には高嶺の花であった商品が得られやすくなるというプラスの面も持つ反面、住宅不足・公害・交通渋滞といったマイナスの面もあった。
とすれば、一方では生活環境が劇的に良くなり、他方では生活環境が劇的に悪くなるわけで、(単なる生活向上と比較して)アノミーによる動揺・心理的不安はさらに増幅されることが予想される。
以上が単純アノミーに関する部分であるが、単純アノミーだけに限定してみてもアノミーの影響は大きいように見える。
次に、構造的アノミーに目を向ける。
まず、前提として確認すべきことは、高度経済成長の結果、経済財の意味が大きく変わる点である。
つまり、高度経済成長以前・生活水準が低い段階では、経済財は「物が欲しい」という物的欲望の達成のために用いられていた。
しかし、高度経済成長以後・生活水準が高い段階になると、経済財は「物が欲しい」からという点だけではなく、「社会的に認められたい」という社会的欲望にも用いられることになる。
つまり、生活水準が低い段階であれば、衣食住の内容において金持ちと貧乏人で大きな差が生じる。
しかし、生活水準が高くなると、食については「スーパーマーケットで買ってきて、簡単な加工をして食べる」というレベルにおいて、貧乏人と金持ちの差が小さくなる。
また、衣についても「注意深く見なければその差が分からない」ということもありうる。
さらに、住居についても衣や食と比較すればまだまだ大きな差があるだろうが、一定程度を超えれば、金をかける方向も「住みやすさ」から「他人に与える印象」にシフトするようになる。
本書では「以上はアメリカの話で、近い将来日本もこうなる」と書いてあったが、現在の日本を見れば、こうなっていることは間違いない。
これが「経済財が物的欲望だけではなく社会的欲望のために用いられる」という意味である。
そして、このような状況で重要になるのはいわゆる「デモンストレーション効果」である。
これは「他人が買ったから自分も買う」といった現象のことであり、周囲を見ればピンとくるのではないかと考えられる。
その結果、経済学の「効用関数は所与のものである」いう従来の考え方では成立しづらくなる。
つまり、効用関数はコミュニケーションによって適宜修正されると考える必要が生じることになる。
なぜなら、消費者は商品それ自体ではなく、商品のイメージを消費するようになるから。
その結果、経済学は従来の理論に対する修正を迫られることとなり、イメージの創出過程とイメージによる効用決定過程を考慮・分析できるような理論を作る必要が生じることとなった。
つまり、デモンストレーション効果やラチェット効果といったこれまでは理論に対する修正因子とみられていた要素が、決定的な効果を発揮するようになったということになる。
高度経済成長が理論に対する修正を迫る一方、高度経済成長に伴う副作用についても明らかになり、国民の関心も高まっている。
副作用として生じた具体的な問題を挙げると、公害・都市問題・過疎問題・大学問題などがこれにあたる。
これらの問題は高度経済成長と関連がある。
しかし、これらの問題は、日本の社会構造の根本に由来する重大な問題でもある。
それゆえ、経済学だけでこの問題を分析しても有益な分析結果は得られない。
より正確に述べるなら、従前の経済理論で分析しても問題の核心に迫れない。
というのも、例えば、大都市への人口集中問題を従前の経済理論で扱えば、次のようなプロセスを経て、「何もせずに放っておけばいい」という結論になってしまうからである。
・これまでは人々に「農村の便益よりも都市の便益の方がよい」という判断があったため、農村から都市への人口移動が起こった
・その結果、都市に人口が集中して過密化の問題が生じ、大都市周辺の生活環境は悪化した
・しかし、過密化の問題の発生によって人々の評価関数は変わり、判断も変わる
・だから、評価関数が変わった結果、人々が問題があると判断すれば、人々は都市から離れ、その結果、過密化も緩和される
・逆に、過密化が維持されるなら、人々はその環境でも都市の方が農村よりもマシと考えたことになり、問題として考える必要がないことになる
・以上より、人々の意思を尊重して放置するのがよく、国家による介入は必要ない
夜警国家・消極国家ならばともかく、福祉国家・積極国家になったのであれば、このような判断は大雑把すぎて使えない。
そこで、より精密な理論が必要となるのである。
また、欧米であれば古典的資本主義社会との乖離がまだ少ないため、デモンストレーション効果の導入といった修正理論の適用だけで分析可能かもしれない。
しかし、日本の社会構造が欧米と異なることは第4章で確認した。
そこで、日本独特の事情を考慮する必要がある。
もっとも、修正した理論の適用と日本独特の事情の加味を同時に行うと混乱する。
そこで、両者を意識的に分けながら、日本についてみる。
この点、アメリカにおいてデモンストレーション効果はゼロ次の同次性を持つと言われている。
ざっくりと言い換えると、「アメリカでは、商品の価格は全部同じような感じで増えているので、デモンストレーション効果によって企業や消費者の行動は大きく変わらない」となる。
この背景には「自分より上位を見た場合の変化」と「自分より下位を見た場合の変化」がキャンセルされてしまうという事情がある。
しかし、日本では共同体化された機能体(企業)が入り組んだ社会であり、この点でアメリカやヨーロッパと異なる。
そして、日本人は共同体化された企業に人格的にも束縛されている関係で、共同体からの「最低でもこの水準の消費を維持しろ」という要求を達成することが不可欠になる。
なぜなら、この要求が達成できずに共同体から放逐されたら明日の生存が危うくなるからである。
また、共同体外への無関心の結果、自分よりも消費水準の低い人たちは目に入らない。
さらに、マスコミが「より高水準の消費」について繰り返し宣伝するため、日本人はこれが上位の水準の目標となる。
よって、アメリカなどと異なり、日本におけるデモンストレーション効果は非対称なものとなり、その形は下に歯止めがある一方で上については限界がない形を採る。
そして、日本のデモンストレーション効果は消費水準の一方的上昇という結果をもたらすことになる。
その結果、日本社会では消費水準が上昇し続けることになる。
また、水準を維持できなくなることは企業という共同体からの放逐を意味し、生存の危機をもたらすから、日本では消費水準の維持・向上が社会的義務に転化し、その遂行が求められる。
その義務の遂行のため、日本人は必死に所得を増やし続けなければならず、それは働き続けることにつながる。
この労働はアノミーと企業の共同体化の下では無限の滅私奉公に転化することになる。
この点、労働と労働力が分離されているアメリカ・ヨーロッパであれば、労働力は商品である。
だから、レジャーが上級財となれば、レジャーから離れるといった選択も可能である。
しかし、日本では労働者は企業共同体に束縛されているため、レジャーが上級財となったとしてもレジャーをやめられるかどうかは企業共同体の意向(組織的要請)によって決まり、自分で自由に選択することができない。
これでは、レジャーが労働になってもおかしくはない。
このように、日本の労働者が企業の機能的要請に対して滅私奉公の精神で労働する結果、エコノミック・アニマルになっていく。
この日本の労働者がいわゆるヨーロッパやアメリカの労働者と違うことは明らかである。
ところで、「消費水準の上昇とその上昇した消費水準の達成」はさらなる消費水準の上昇とその達成要求を生むだけであり、労働者個人の満足度には貢献しない。
また、「下限に歯止めがあり、かつ、下が見えない」という非対称性は、消費水準が達成できなかった場合や消費水準のボーダーが上昇した場合に上だけが見えることになる関係で痛烈な痛みを伴うことなる。
そして、「さらなる消費水準の上昇の達成」が単純アノミーの引き金になる。
かくして、アノミーは日本の社会で構造化され、拡大再生産されていくことになる。
つまり、「消費水準の上昇とその達成」という新環境への対応・新規範の受容という困難な作業は総ての人に、しかも、繰り返し何度でも行われ、アノミーが拡大していくのである。
これが日本の構造的アノミーの正体である。
そして、前回までの結論と今回の結論を組み合わせることで、我々はさらなる危機的状況にあることに気付く。
つまり、高度経済成長によって生じる単純アノミーの繰り返しは戦後に端を発した急性アノミーからの脱出から始まった。
とすれば、日本人は高度経済成長による単純アノミーの繰り返し(構造的アノミー)と戦後の急性アノミーの板挟みになっていることになる。
つまり、「消費水準の上昇とその上昇水準の達成」という過程からの離脱(企業共同体からの放逐を含む)は経済的・生活的な問題だけにとどまらないことになる。
そして、高度経済成長が行き詰まった場合、経済的な問題以外の問題を噴出させることになる。
ところで、デュルケムはアノミーの帰結として自殺と破壊衝動を挙げた。
自殺はそれ自体その周囲にとって大きな悲劇であることに間違いはないが、加害者と被害者を生まない分まだマシとも言いうる。
しかし、破壊衝動となれば、犯罪になるため発生する害悪は大きくなる。
著者はいう。
第2章で述べた通り、大学紛争の当事者・赤軍のハイジャッカー・京浜安保で爆破事件を仕掛けた人間たちは「小市民的過程を育ったまじめな青年たち」であった、と。
そのまじめな人間たちが「ナチスや軍国主義者も企てなかった」行為に駆り立てるとはなんという社会であろう、と。
今回はここまで。
ところで。
私は「これらの社会的背景は当事者を免責させるものではない」ということをメモに書いていた。
これはある種の注意書きとして、という意味でもあるが、私はこの点を否定する気はさらさらない。
しかし、その一方で思うことがある。
なんというクソ社会だ、と。
もちろん、この傾向が50年で変わってない点も含めて。
それと、約17年前だったと記憶しているが、小室先生の弟子筋にあたる宮台先生が次のような趣旨のことを丸激・トーク・オン・デマンドで述べていた。
(該当する番組へのリンクは次の通り、もっとも、現在、動画は公開されていない)。
(以下、述べられていたことを再現、細かい部分に違いがあるかもしれないが趣旨はこの通りなのでその点容赦、なお、本文中「ボク」とあるのは発言者である宮台先生のことである)
現実がこんなにつまらないのは、ボクがダメだからだろうというようにずっと思っていたんですよ。
ただ、いろいろ勉強したり、いろんな経験を積んだりして、現実がつまらないのは本当につまらないからだとだんだん確信をもてるようになったので、(中略)自分をダメだと思わなくなった。
(再現終了)
私もこれと似た部分があり、最近になってようやく「自分がダメだ」と考える感情がだいぶ緩和された(もっとも、いつぶり返すか分かったものではないが)。
もちろん、つまらない、と、クソという部分は違うかもしれないが。