薫のメモ帳

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『危機の構造』を読む 11

 今回はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

『危機の構造_日本社会崩壊のモデル』を読んで学んだことをメモにしていく。

 

 

17 第5章「危機の構造」を読む_後編

 前回までで、日本人が「戦後の民主化による急性アノミー」と「高度経済成長による構造的アノミー」の板挟みになっていることをみてきた

 今回は日本特有の事情から発生する複合アノミーと原子アノミーについてみていく。

 

 

 著者によると、日本独特の規範構造が複合アノミーをもたらすという。

 この点、複合アノミーとは社会の規範が断片的に構成されている状況で発生するアノミーのことを言う。

 つまり、単純アノミーや急性アノミーは(アノミーの原因になる)「社会規範の変化の程度」に注目している。

 また、構造的アノミーは「社会規範の変化の発生源」に注目している。

 これに対して、複合アノミーは「社会規範の状態」に注目したものといえる。

 

 この点、欧米・アラビアなどの一神教であれば、近代・現代における脱宗教化によって多少相対化されたといえども、それなりにがっちりした一元的な価値体系・規範体系がある。

 それに対して、日本にはそれに相応するものがない。

 そのため、複合アノミーによる分析は現代日本でより重要になると考えられる。

 

 この点、明治の近代化から天皇陛下人間宣言に伴う一連の流れの結果、日本の規範状態は外国から流れ込んだ価値観から発生した規範が断片化されたままの状態で放置されている。

 具体例として、「デモクラシー」についてみてみる。

「デモクラシー」は明治時代以降に日本に導入された。

 そして、この「デモクラシー」の理念はアメリカやヨーロッパで共有されている。

 しかし、「デモクラシー」に対する信頼度・採用している具体的なシステムは各国でバラバラである。

 そして、この具体的なシステムはデモクラシーの理念とその国の実情を踏まえて、それぞれの国に適合するように体系化されている。

 これに対して、日本のデモクラシーは具体的なシステムはあれども、それを支える体系的な規範がない。

「体系的な規範がない」ということは「原則・例外・例外の例外・(以下略)といったバベルの塔のようなものがない」と言い換えてもよい。

 もちろん、このことは日本の通常性である「水」と「空気」の発生源、山本七平氏の書籍で学んだ「一君万民・状況倫理」を考慮すれば当然の結果なのかもしれないが

 そのため、体系的な規範の不在はデモクラシーに限った問題はない。

 

 では、この体系的な規範の不在の問題はなにをもたらすか。

 一つ目は規範的行動による非対称性である。

 これは、非等価交換性と呼んでも差し支えないかもしれない。

 この点、社会・集団を相当期間維持させることのできる規範が構造化されている場合、一定の対称性が保持されている。

 例えば、上下支配関係の親分子分の関係を見てみる。

 子分は親分に対して自分の命でさえ差し出すことの献身性が求められるとする。

 これに対して、親分は何もせず、ただ、子分の上で胡坐をかいていていいわけではない。

 親分も親分として相応の修行とそれに基づく行動が要請される。

 それがなければ、子分が反乱・逃亡を起こすなどして、その社会・集団は崩壊してしまう。

 この親分と子分の義務が「対称性」・「等価交換性」の意味である。

 そして、この例は「権利に対する義務」や「貴族の特権とノーブル・オブリゲーション」などに見られている。

 もちろん、この「対称性」が維持されているかはさておき、これがなければ社会は崩壊してしまう。

 このことはフリーライダーの例を考えれば理解できるだろう。

 

 ところが、規範が断片化されている状況では、人、あるいは、権力者は断片化した規範の中から自分に有利な部分をつまみ食いし、カウンターに対応する部分を放棄するといったことができてしまう。

 この例はフリーライダーもそうだし、堕落したエリート・権力者を見ればイメージできるだろう。

 

 もちろん、体系化された規範は社会を永続させるように構成される。

 よって、体系化された規範があれば、そのような堕落した人間が出現しても適切な対応ができるようになっている。

 しかし、それがなければ適切な対応ができない。

 その結果、「責任(義務)の真空地帯」が発生する。

 もちろん、この責任が果されなければ社会が崩壊するわけだが、前述の規範がない関係で誰がやるべきかが判明せず、責任のなすりつけあいすらできない。

 というのも、なすりつけるためには責任の所在が一定の範囲で判明している必要があるところ、その「一定の範囲」すらない(敢えて言えば「社会全体」になる)からである。

 

 かくして、「この真空化した巨大な責任を自分のできる範囲だけでも負うようにする」という極めて健全な意識で動いたとしても、社会は真空化した巨大な責任のすべてをその人に押し付けることになる

 そこで、人は責任の一端からも防衛的な態度を採るようになる。

 この責任の一端でさえ拒否する態度は健全なものとは言えず、人は「間違った空間」にいるような疎外感を味わうことになる。

 まあ、結果的に、巨大な責任は社会的弱者に押し付けておしまいになるのだろうが。

 

 次に、規範の断片化は「あらゆる事項の規範的一般的正当化」をもたらす。

 ぶっちゃけて言えば、「規範から見てなんでも正当化できる」と言ってもいいかもしれない。

 非対称性・非等価交換性が可能になる理由を考えればすぐわかることである。

 なぜなら、「規範の断片化」は「規範のいいとこどりによるつまみ食い」が可能になるのだから。

 とすると、それ(つまみ食いのいいとこどり)を防止するのが「規範の体系化」なのかもしれない。

 

 この点、日本において「規範的一般的正当化」によって正当化される事情は共同体化された機能体の事情、つまり、組織の機能的要請と共同体の主観的事情の両方に基づく。

 機能体的要請だけであれば、ある程度客観化されているので外部の人間でも理解・了解できる可能性もある。

 しかし、それに機能体の属する共同体のの事情が付加されることで、外部の人間の理解・了解可能性がぐっと下がる。

 たとえるなら、異教徒から見てある宗教の目的を理解・了解することができても、目的を達成する手段たる儀式については理解・了解できないと考えて、結果として相容れなくなるようなものである。

 その結果、その正当化されたものは共同体化された機能体の内部では宗教的真理にすらなる一方、外部から見ればとんでもないデタラメに見えることになる。

 この集団相互のギャップは盲目的予定調和説と相まって、宗教的対立に発展するような極めて大きいものになる。

 

 この点、この問題が純然たる宗教団体同士の話であれば、相互尊重かつ相互不可侵という協定でも組めばそれなりにうまくいくだろう。

 しかし、日本の場合はこうはいかない。

 というのも、これらの集団は社会の存続のために相互に密接に連携して行動しなければならない機能体だからである。

 となれば、機能体が共同して動こうとする際に、相手は自分の理解しがたい規範を押し付けてくるようになるし、場合によっては自分の主張が相手方にとって同様に見えることもある。

 この例は太平洋戦争における陸海軍の対立、大学紛争における内ゲバなど、日本において枚挙にいとまがない。

 

 かくして、人は「この世界に自分の場所はない」、「そもそもこの世界といったものが存在しない」という強いストレスと疎外感を味わうことになる。

 これが断片化した規範がもたらすディスコミュニケーションが複合アノミーの正体である。

 

 

 以上、日本の規範の断片化がもたらす複合アノミーがもたらす悲劇についてみてきた。

 話はここに所有権の曖昧さがもたらす原子アノミー(アトミスティック・アノミーに進む。

 このアノミーも日本独特の事情が加味された結果生じたものといえる。

 

 本書や『経済学をめぐる巨匠たち』でも見たとおり、資本主義を自称する現代日本において所有の概念は資本主義の所有とは程遠い

(詳細は川島武宜教授の研究についてメモをまとめた次の記事参照)。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 具体例を挙げれば、「役得」・「社用族」といった言葉に現れている。

 欧米人から見れば、このような人物は「資本家たる株主の金をみさかいもなく私用に流用する人物」であり到底信用できないとなるが、日本では必ずしもそう思われているわけではない。

 ここにあるのは「みんなの物」という発想(「みんなの物」=民法上の共有ではない)であって、「権利」という利用範囲が一義的に明確化された発想ではない。

 もちろん、それがいいことか悪いことかはさておいて。

 

 この所有概念の曖昧さは共同体化された機能体(企業・組織その他)においてどのように働くだろうか。

 この点、これまで日本の急性アノミー・構造的アノミーについてみてきた。

 その上に、前述の複合アノミーが加わると、人は共同体化された機能体しか安住の地がなくなることになる。

 そして、日本社会と比較してこの規模の極めて小さい共同体化された機能体を単位として、内外が峻別される。

 ここに所有概念の曖昧さが加わると、意識における「自分と組織の同一化」が生じる。

 さらに、盲目的予定調和説とそれに伴う技術信仰、複合アノミーによる本来一部でしか成立しない正当化が一般的にも正当化されるようになることで、グループ外とのコミュニケーションは絶望的になる。

 

 この点、規範には例外や許容範囲が存在する。

 例えば、正当防衛であれば殺意をもって人を殺害しても無罪(刑法36条1項)であり、損害賠償責任を負わない(民法720条1項)。

 これを経済的に見れば「お目こぼし」といってもいいものかもしれない。

 しかし、このお目こぼしが体系化された規範ではなく、断片化された規範群によって確立された場合、例外・お目こぼしに関する相互理解は極めて困難になる。

 相互理解が困難になれば、人は所属する共同体化された組織を基準として「例外・お目こぼし」の基準を対外的な組織に対しても全体に押し広げ、その基準で外側の組織のお目こぼしについてあてはめをすることになる。

 果てには、共同体の内外の峻別・盲目的予定調和説・規範の非対称性が加われば、「例外・おめこぼし」の規範が「内側は甘く、外側は厳しく」に転化してもおかしくない。

 かくして、内側から見れば「これくらいなら大丈夫」と見られている行為が外側から見れば「とんでもないこと」に見えることが頻発するようになる。

 このとき、いわゆる「内側」は社会と比較しても極めて小さいことを考えておかなければならない。

 そして、この断片だった規範が粉末化していく過程を「原子アノミー」という。

 

 

 当然だが、この原子アノミーは対等な組織間だけではなく、上下関係の組織の間や組織内の上下関係にも生じる。

 お互いにこのような状況で相互連携しなくてはならなくなった場合、お互いにどう振る舞うか。

 下の組織は上の組織の規範が理解できずに反発し、上の組織は断固下の組織を屈服させるように動くであろう。

 そして、複雑な現代社会において組織の連携が要請される場面は大量にあるうえ、ある組織は別の組織の上である一方で別の組織の下にあることが少なくないから、上への反発と下への屈服をめぐる争いが無数に発生することになる。

 これで組織の連携を目指すのは無理というほかはなく、社会は解体せざるを得ない。

 そして、著者はファシズムの本質は集団の機能的要請によって行動する点に注目し、この無限の上下間闘争現象を「セルローズ・ファシズム」と定義している

 

 

 以上が本章のお話。

 本書の記載は少し抽象的すぎないかと考えないではないが、逆に、それゆえ分かりやすい面もあった。

 しかし、これらの背後に崎門学派・聖徳太子唯識論哲学などの亡霊が見える。

 となると、本書にある危機の構造は日本の伝統に由来しているのかもしれないなあ。