今回はこのシリーズの続き。
『危機の構造_日本社会崩壊のモデル』を読んで学んだことをメモにしていく。
9 第3章「歴史と日本人思考」を読む_中編
ここまで、日本の社会科学的実践の欠落について歴史を振り返ってみてきた。
話はここから「情報処理」に移る。
というのも、現代社会では、あるいは、現代社会でなくても「情報を制する者は世界を制する」と言えるし、石油危機においても具体的な石油不足の効果よりも「石油がなくなる」という情報の効果の方が大きかったように見えるからである。
この「情報を制する」ために必要な行為が情報処理である。
その中に情報収集や情報操作がある。
本書によると、日本は情報処理が下手らしい。
このことを戦前における日本の情報処理の観点から見ていく。
この点、情報処理の具体的活動として暗号解読・スパイ活動がある。
太平洋戦争においてアメリカに暗号を解読されて、ミッドウェー海戦の敗北や海軍甲事件(アメリカのヴェンジェンス作戦)を招いたことはよく知られている。
しかし、ここではその点ではなく「情報操作」に関する日本政府・日本海軍のミスを見てみる。
具体例となるのは、戦艦大和である。
前章でも述べた通り、大艦巨砲主義が崩壊したのはパールハーバーへの奇襲攻撃やマレー沖海戦の後であり、航空機だけで戦艦を沈没させたケースはまだなかった。
つまり、太平洋戦争の開戦以前の段階ではまだ大艦巨砲主義を完全に否定するデータはなく、「近いうちに大艦巨砲主義が崩壊するだろう」とまでしか言えなかった。
とすれば、1941年の段階で日本海軍が採用していた「大戦艦と航空機を併有するという戦略」は一定の合理性があったとと言える。
ところで、太平洋戦争前夜、列強は競って新戦艦を建造していたところ、新戦艦の主砲口径はイギリスが14インチ、ドイツ・フランス・イタリアが15インチ、アメリカが16インチであった。
そして、実際に海上で戦いが行われてみれば、大艦巨砲は強かった。
その結果、イギリスはドイツの大戦艦に振り回されることになった。
以上の太平洋戦争前夜の状況を考慮すれば、主砲口径18インチの戦艦大和・戦艦武蔵の建造は不合理ではなく、また、使い方次第では十分活躍したであろう。
もっとも、ここでは戦力についてではなく、情報操作の観点からみてみる。
前章で、帝国海軍の軍官僚たちはパールハーバーへの奇襲攻撃それ自体の検討は精密に行ったが、それ以外の要素、例えば、パールハーバーへの奇襲攻撃がもたらす講和への影響はほとんど考えていなかったという話をした。
このことは、戦艦大和を用いた情報操作についても同様だったらしい。
つまり、戦艦に関する技術面については精密に検討された。
また、戦術・戦闘に関わる情報の秘密管理も厳重に行った。
しかし、戦艦大和を使った情報操作、あるいは、情報操作を行う効果について全く考えていなかったようなのである。
情報操作というと堅苦しく聴こえるが、ぶっちゃけて言えば、「ガセ情報をばらまく」だけである。
この点、秘密建造を続けていた関係で、戦艦大和についての情報はアメリカはつかみ切れなかった。
そのため、アメリカは戦艦大和の主砲口径を14インチではなく16インチであると推定したらしい。
これを見て、「18インチの戦艦大和の主砲を16インチと誤解してくれたならしめたものだ」と判断するかもしれないが、それは甘い。
ここで「戦艦大和の主砲は14インチである」とこちらから情報を出せばどうなっただろう。
「14インチ」という数値はイギリスの主砲の大きさであり、また、軍縮会議で日本が主張した主砲口径の上限である。
そうだとすれば、この情報は相当の真実性を持って相手方に受け止められたであろう。
その結果、ガセ情報をばらまかない場合と比べて誤解の程度が2インチから4インチにずれ、さらに得をすることになる。
さらに、機密漏洩防止のコストと比較すれば、情報操作のコストは少ない。
にもかかわらず、帝国海軍の当事者は機密漏洩には綿密な努力を払いつつ、情報操作は全く考えなかったらしい。
さらに、大鑑巨砲主義の思想が残っている状況であれば、抑止力として戦艦大和を用いることができた。
誰が18インチ新戦艦のいる海域に14インチの戦艦で戦闘を挑むであろうか。
しかし、このような使い方を考えた形跡は残念ながらないらしい。
なお、この考え方は「太平洋戦争を綱渡りで切り抜ける手段」を検討した次のリンク先のレポートでも利用されている。
以上、戦前の日本海軍・日本政府の情報操作能力の欠如について戦艦大和の例から述べた。
なお、山本七平の『私の中の日本軍』にも「情報操作」によるミスに関する話は登場する。
この本の記載はジャーナリズムの検討をしている分より詳細である。
ところで、この状況は戦後になっても改善されていないらしい。
例えば、本書では「みにくい日本人」に関する例を出している。
もっとも、この問題は日本人側のみの問題だけではなく、「日本人の行動様式と相手の行動様式のギャップの問題」という可能性もある。
もし、ギャップの問題であれば、社会科学的実践と分析結果に基づく情報操作(状況説明)が必要になるだろう。
にもかかわらず、この問題を「日本人の心構えの問題」として考え、「日本人の誠心誠意」でなんとかしようとしても、ギャップが埋まる保証はなく誤解の拡大再生産を招くこともある。
ちょうど、戦争中、国民一丸で努力したにもかかわらず、その努力が徒労に終わったように。
以上、情報処理のうちの情報操作についてみてきた。
次に、情報処理のうちの重要なものである学習についてみていく。
この学習のステップは次の形式になる。
①、「過去の事例」・「過去の事例から得られた経験則」・「学問的理論」に関する情報を取得する
②、①の情報に基づいて行動指針を決定する
③、作成した行動指針に基づいて行動し、行動過程・行動結果の情報を取得する
④、③の情報を①の情報群に加え、行動指針・経験則・学問的理論を修正する
(以下、③と④を繰り返す)
簡単にイメージするなら、「ある行動をした」→「一定の成果を得た一方、ミスした」→「ミスに基づいて行動を修正した」→「一定の成果を得て、前回のミスは回避したが、予見できなかった別のミスをした」→「行動を修正した」→(エンドレス)というだけであり、我々がなんとなくやっていることである。
もちろん、修正の方法が行き当たりばったりになるとただのランダムウォークとなりかねないので、学問的理論や経験則で学習効果の効率を高めるわけだが。
このステップを踏むことで、過去の事例を未来に活かすことができる。
逆に言えば、このステップを踏む意思がなければ、あるいは、踏み方が不十分であれば、過去の事例を未来に活かしきれないことになる。
以上のステップを心理学との関連において「学習」と言い、これを実行する能力のことを「学習能力」という。
さて、歴史を眺めていれば、「破局的場面に至る直前には、なんらかの兆候がある」という法則に気付くであろう。
ならば、上記学習ステップを繰り返せば、そして、学習能力が高ければ、「破局的場面に至る直前に発生する兆候的事実」が判明する可能性が高くなる(無論、完全に防げるわけではない)。
この学習能力の観点から戦前の日本を見てみる。
具体的な事件は「ノモンハン事件」である。
このノモンハン事件、関東軍は大敗したと言われるが、一部の兵団が壊滅的打撃を受けたのであって、関東軍の主力は無事であった。
また、ソ連の戦車部隊に対して日本の歩兵部隊その他は善戦したと言われる。
ただ、ここで見るべきは、ノモンハン事件の勝敗や日本軍の損害ではない。
ノモンハン事件から何を学習しえたか、である。
ノモンハン事件が示した兆候のうち重要なことは次のとおりである。
1、歩兵は戦車に勝てない
2、軽火力・軽装甲の戦車は重火力・重装甲の戦車に勝てない
3、対戦車火器の開発が急務である
さらに、日本の当時の経済状況の前提として「日本は資源が乏しい」という事実がある。
とすれば、この事件が示した兆候は「資源や金がない我が国は、経済大国に対して戦争を仕掛けることができない」ということになる。
このことは、ノモンハン事件で示された日本の戦闘機・パイロットの技術の高さや日本軍の兵隊の勇敢さとは無関係である。
また、このことが軍備の無価値を意味するわけではないことも当然である。
当然(という書き方をするのもあれだが)、この点は学ばれなかった。
結果、太平洋戦争では圧倒的な経済力を持つ米軍に完敗することになるのである。
なお、太平洋戦争が物量だけの負けではないことはいわゆる「敗因21か条」からも分かる(この辺をまとめたメモは次の記事)。
ちなみに、陸軍は「ノモンハン事件から学ばなかった」と述べたが、この兆候は既にあった。
それは第一次世界大戦である。
ノモンハン事件に現れた兆候は既に第一次世界大戦でも見られていた。
専門家の中では第一次世界大戦がもたらした兆候を認識している者はそれなりにいたようである。
しかし、この兆候が意味する内容は広く共有されなかったようである。
ここから話を戦後の石油危機に移す。
ノモンハン事件の損害が全体から見て大きくなかったように、石油危機の損害も大きくなかった。
しかし、その兆候が示したもの、つまり、「日本はアラブ諸国の意向一つで石油が止まり、経済の根底を崩されかねない」ということは重要である。
というのも、今回は大した損害にならかったとしても、次が大損害にならない保証はないからである。
ならば、この点に関する長期的な対策が必須ということになる。
この長期的対策を考えていくためには新聞・ジャーナリズムは大事ということになる。
そして、主権者たる一般の日本人の忘れっぽさを考慮すれば、「社会の木鐸」として何度でも注意喚起する必要があるということになる。
まあ、こんなことをやれば国民から嫌われるので、やりたくないかもしれないが。
なお、本書に書いていないことを補足しておく。
この点、「別に、一般の国民に注意喚起する必要はない。政治家や官僚が注意すれば十分」という意見がありうる。
しかし、国民の選挙で選ばれる代議士が、どうして国民が忘れたことに意を払うだろうか。
また、共同体化されてしまった機能体たる官僚集団が国民(共同体)と異なる評価関数で動いてもおかしくない。
つまり、デモクラシーの体制を採用するならば、国民が忘れたら意味がない、ということになる。
もちろん、「国民がデモクラシーを放棄します」と確固たる意志において宣言し、立憲民主主義憲法を放棄すれば別であるが。
次に、石油危機は、社会問題を論じる際の日本人の視野の狭さ・射程の狭さを示したと言える。
このことは、戦前の平沼内閣が示した外交的無知・社会科学無知が今なお継続していることを示している。
最も欠けている社会科学的無知を端的に示せば、社会科学の超基本である「すべてはすべてに波及する」であり、「小さなトリガーが相互作用と連鎖反応によってとんでもない結果を引き起こす」になるだろう。
例えば、日本人が防衛問題を論じる場合、日本に対する軍事的侵攻について述べる。
しかし、今回の石油危機は、外国が日本に対して攻撃したわけでもなければ、ABCD包囲網のような経済封鎖から生じたものでもない。
日本と無関係な中東で起きた戦争に由来する。
ならば、日本の防衛を万全にしようと考えるなら、一定の世界的平和が必須ということになる。
何故なら、日本はアメリカ・ソ連・中国と異なり、自国だけで経済が完結しない国だからである。
また、明治時代以降の近代化や高度経済成長、及び、世界に対するエネルギー依存を考慮すれば、江戸時代以前のシステムに日本を戻すことは容易ではないと考えられるからである。
この点は、明治の近代化が「外国の脅威→近代的軍隊の維持→近代的軍隊を維持するために必要な技術力・経済力を確保」という流れでなされた点を考慮すれば明らかである。
以上の点を理解するには、以前の大英帝国を見ていくといいかもしれない。
この点、大英帝国は世界中に植民地を持っていた。
よって、大英帝国の通商ルートは全世界に張り巡らされていたことになる。
その結果、大英帝国に対する通商破壊は極めて効果的であった。
他方、大英帝国側も通商ルートを守るためにはなんでもやった。
この点については、ベトナムにおけるアメリカ、ハンガリーやチェコにおけるソ連と大差ない。
通商ルートはイギリスのレーベンスラウムであり、これを守らなければ大国イギリスが維持できなかったのであるから、
例えば、大宰相ディズレーリ―のスエズ運河の買収もこの行為に含まれる。
ディズレーリ―が、エジプトの財政破綻を奇貨とし、イギリス政府を担保にして資金を集めてスエズ運河の株を買収して、スエズ運河を開通させるために多年の努力を費やしたレセップスの成果を横取りしたのは有名な話である。
ところで、イギリスが通商ルートを死守するために採用した基本的指針は「二国標準主義」であった。
つまり、イギリスは世界第二位・第三位の国の保有する二国の海軍力以上の海軍を持ち、それで通商ルートを確保しようという考え方である。
もっとも、この二国標準主義でも通商ルートの確保が容易でなかった。
さて、以上の英国の歴史を前提に日本を見てみる。
日本の通商ルートは大英帝国同様世界中にある。
一方、日本は二国標準主義を採用できない。
このことは憲法9条を持ち出すまでもなく、現在の国際情勢と日本の経済力を見れば明らかである。
では、どうするのか。
一つは、「後は野となれ山となれ」がある。
また、「アメリカに完全に隷属する」という手段もあっただろう。
しかし、後者の手段は、当時のバックス・アメリカーナであればさておき、変質したバックス・アメリカーナ(グローバリズム)の下で使うのは危険すぎる。
そこで、平和主義の理念を具体化し、世界中から戦争の芽を摘むという方法がある。
もっとも、これを実行するには全世界に情報網を築き、社会科学的実践によって状況を見極めて機敏に行動するということが必要となるところ、これは日本の最も不得意とすることである。
著者は本書でこの策を提案して、新聞に対して国民に不断の注意喚起を行うよう述べている。
ただ、私の個人的意見としては「それ、無理」になるのではないかと考えられる。
ここから話は国防に関する話題に移る。
この点、国防というと外国からの軍事的侵攻に対処することと思われがちである。
そして、この点を軽視してはいけない点は現在のウクライナ情勢を見ても明らかではある。
しかし、それだけしか考えないのは視野が狭い。
というのも、軍事的成果のみを考慮すればいい時代は第二次世界大戦以前のことであり、第二次世界大戦後は状況が変わってしまったからである。
例えば、ナポレオン帝政の栄光は多くの戦勝に支えられたが、ワーテルロー(ウォータールー)の敗戦によって崩れた。
ビスマルクのドイツ帝国はケーニヒグレーツ(対オーストリア)とセダン(対ナポレオン三世)の大勝によって成立し、第一次世界大戦によって崩壊した。
さらに、ナチス・ドイツはヨーロッパ各地を征服したが、ソ連とのモスクワ攻防戦・スターリングラードの敗戦によって形勢が逆転・崩壊した。
ナチス・ドイツの場合、この戦いの結果がひっくり返っていたから第二次世界大戦の結果は変わっていた可能性があり、その意味で戦争の結果は重大であった。
しかし、第二次世界大戦以降、冷戦体制の中で風向きが変わる。
まず、スエズ動乱(第二次中東戦争)はエジプトの連戦連敗、イスラエルとイギリスの圧勝にもかかわらず、ナセル大統領の立場は維持された。
セダンの敗戦によって雲散霧消したナポレオン三世のケースとは雲泥の差である。
しかも、スエズ動乱はイギリス・イスラエルに激怒したアメリカがエジプト側に回ったことでエジプトが政治的に勝利することになる(この激怒の背後にはハンガリー動乱があるが、詳細は割愛)。
また、他にも第三次中東戦争(6日間戦争)におけるイスラエル側の軍事的成果もイスラエルの戦争目的に寄与しなかった。
さらに、朝鮮戦争・ベトナム戦争は軍事的侵攻によって政治目的を達成できずに終了する始末である。
もちろん、朝鮮戦争やベトナム戦争でアメリカが勝つことだけを本気で考えたならば、日本に放った原爆を再び使えばよかった。
しかし、実際には核は使われなかった。
現に、朝鮮戦争で満州に原爆を使うことを主張したダグラス・マッカーサーはトルーマン大統領にクビにされてしまった。
無論、核不使用の背景には報復や人道的な問題といった要素があった(これらの事実は逆に広島・長崎への原爆の違法性を推認させるが、これ以上は割愛)だろうが、他に重要な要素として戦争という手段が政治目的達成に寄与しなくなったということもある。
このように考えれば、国防を軍事侵攻だけから見るのは狭すぎることが分かる。
もちろん、このことが「軍事侵攻を考えなくて良い」ことではない。
しかし、これから述べる国際情勢を考慮すれば、当時の日本に対する軍事侵攻の蓋然性は極めて低くなっている(当時の時点で低いに過ぎず、将来においても低い保証はない点に留意)。
ならば、日本の経済の死命を制する資源の問題にリソースを重点的に配分すべき、というのが、著者の主張である。
話はここから当時の国際情勢下における日本に対する軍事侵攻の可能性に移るわけだが、かなりメモの量が多くなった。
そこで、今回はこの辺にして、第三章の残りは次回に回す。