薫のメモ帳

私が学んだことをメモ帳がわりに

『「空気」の研究』を読む 5

 今回は前回のこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 今回も『「空気」の研究』を読んで学んだことをメモにしていく。

 

 

6 第1章_「空気」の研究_(五)を読む

 第1章の(三)・(四)の内容から「空気」による支配構造をまとめると次のようになる。

 

(「空気」による支配を望む者などが)日本人に対して「ある対象は(絶対)善である」・「ある対象は(絶対)悪である」という2種類の情報(記事)を与える

「物に対する臨在感的把握」という習性を潜在的に持つ日本人がこの2点の情報を受け取ると、絶対化された2つの対象(物神)によって拘束されてしまう

 

 そして、「空気」による支配から逃れる方法は次の2点である。

 

① 我々(日本人)が持っている「物に対する臨在感的把握」について理解する(歴史的に再把握する)こと(「再」がついているのは明治時代の近代化・啓蒙化の流れで把握していたものを放棄してしまったため)

② 対立概念を用いて対象を理解しようとすること

 

 

 さて、このセッション(第1章の「五」)では公害に対する話題からスタートする。

 この点、本書では海軍と公害(に対する対処)を題材に用いることが多いが、それは「(欧州的な意味における)科学的決定」と「日本の空気による決定」の差が分かりやすいからであり、「『空気』による決定」が海軍や公害に対する日本の対応に集中しているからではない。

 本書の目的は「空気」の理解であるから、理解しやすいものを題材に選んでいるだけである。

 

 

 太平洋戦争末期の戦艦大和の出撃に関する決定が実質的に「『空気』による決定」であることは既に述べた。

 しかし、この決定は形式上「科学的決定」とみなされている(だから、「何故、あのような無謀な出撃をしたのか?出撃を決定した根拠は何か?」という質問が出てくるのである)。

 よって、出撃の根拠を提示することができず(根拠となるデータをぶつければ、そのデータに沿った決定でないことが明白になる)、「それについて私は何も弁明しようとは思わない」という回答しか得られないことになる。

「空気」の存在を前提に考えれば、この回答は極めて妥当なものであり、かつ、理解できるだろう。

 

 これに似た話題が本セッションで登場している。

 ここで紹介されているのは『正論』の昭和50年10月号に掲載された『誤ったNO2基準に国際不信広がる_科学的疑惑に回答せよ』という清浦東京工業大学名誉教授の論文である。

 この論文の要旨は、「日本の窒素化合物の規制基準は世界から見てかなり厳しい。そこで、海外の研究者・政府関係者等は日本に対して規制基準の根拠となるデータ・資料を求めているが、日本の関係部署は海外からのこの要請に対して何ら反応がない。日本の環境庁は『日本は公害行政先進国』と称し、『環境白書』では環境科学の国際協力を高らかに謳っているのにもかかわらず」となる。

「空気」を前提すれば「(日本の対応について)さもありなん」となるが、それを知らない人間(海外の関係者)からすれば「なんだ?!」ということになろう。

 

 さて。

 本書では、「海外の要請に対してどう対応すべきか」について著者(山本七平氏)の説明が書かれている。

 それによると、「『国際性を謳い』ながら海外の要請を無視するのは信用を徹底的に喪失するから、さっさと返答するべし。」であり、その返答の内容の要旨は「日本の規制基準は『空気』によって決定されたものである」というものである。

 この場合、海外の関係者から「『空気』とは何ぞや?『KUーKI』で意味が通じるのか?妥当な英訳は何か?」という質問が飛んでくるだろうが、それについては「『プネウマ』(ギリシャ語)・『ルーア』(ヘブライ語)・『アニマ』(ラテン語)に相当するものである」と回答すればよい、というのである。

 

 

「空気」の支配の前提には「感情移入」や「臨在感的把握」がある。

 これらのものは人間ならば持っているものであり、日本人固有のものではない。

 日本と欧米の違いは「『空気』の決定を許容するか、しないか」に過ぎない。

 また、古代の文献を見ると、現代日本でいうところの「空気」に相当するものがよく出てくる。

 つまり、プネウマ・ルーア・アニマの原意は「風・空気」であるところ、古代人たちはこれを息・呼吸・気・精・魂・精神・非物質的存在・精神的対象等に対しても利用した。

 この点を考慮しつつ、文献を読むと日本の「空気」の意味にも使われている。

 

 古代人の文献では、人が宗教的な熱狂状態、いわば、エクスタシーに陥る、あるいは、ブームによって集団的に異常な状態になることは、この空気(プネウマ)の沸騰状態によるものとされている。

 このように、日本の「空気」を意識しながらプネウマに関する古代人の記述を見ると、昔の話とは思えなくなる、らしい。

 つまり、古代人も日本の「空気」のようなものの存在は知っていたことになる。

 ならば、古代人の流れを汲む欧米人も知っているだろう。

 よって、「日本の公害基準はプネウマが決めたものだ」と返答すれば、海外の関係者はこの決定が「宗教的決定」であることも含めて理解することができるだろう。

 同時に、前回述べた北条誠氏の記事「自動車魔女裁判」が欧米の異端審問と類似のものとなったとしてもおかしくないことになる。

 

 

 この点、古代人は「プネウマ(『空気』)に相当する実態のつかめない奇妙なものが自分たちを拘束し、自由を失い、そのまま破滅を導く決定をしてしまう」という奇妙な事実を事実として存在することを認めた。

 つまり、古代人は「プネウマ(『空気』、あるいは、霊)の支配」の存在を認めた上で、どう対処すべきかを考えた。

 これに対して、明治時代の啓蒙主義者たちは、「霊(『空気』)の支配」があると考えることは無知かつ野蛮なことと考え「霊(『空気』)の支配」を無視することが現実的・科学的だと考えた。

 具体的には、「霊(『空気』)の支配」を拒否・罵倒・笑殺すればいいと考えた。

 しかし、主観的に無視したとしても客観的に存在するものは存在する。

 それどころか、無視してしまったがために存在する「空気」の暴走を制御する手段を失ってしまった。

 それゆえ、確固たる「『空気』の支配」を確立し、それにより、大和民族を破滅の淵に追いやってしまったのである。

 

 そして、この「『空気』に対するコントロール」という点から見れば、戦前と戦後で変りはない。

 それゆえ、再び「空気」が暴走すれば大和民族はまた同じ運命に遭うかもしれない。

 

 

 以上が、本セッションのメモの内容である。

 非常にわかりやすかった。

 また、自分自身、思い当たる面もあり、より詳細に理解することができた。

 

 ところで、このセッションを読んでいて、ふと、石原莞爾の「それなら、ペルリ(私による註、黒船を率いて浦賀にやってきて日本に開国を要求したマシュー・ペリーのこと)をあの世から連れてきて、この法廷(私による註、極東国際軍事法廷のこと)で裁けばよい。もともと日本は鎖国していて、朝鮮も満州も不要であった。日本に略奪的な帝国主義を教えたのはアメリカ等の国だ」という言葉を思い出した。

(上記言葉はウィキペディアの次の文章からの引用)

 

ja.wikipedia.org

 

 当然だが、開国後の日本の決定に関してマシュー・ペリーは関係ない。

 もちろん、日本の近代化にも。

 しかし、「欧米列強の世界侵略がなければ」という感想は抱かざるを得ない。

 この感想が喩え無意味、不毛であるとしても。

 

 また、本書の記載に従えば、日本の「『空気』の支配」の猛威は「明治時代の啓蒙家たちによる啓蒙の副作用」ということになる。

 当時の世界情勢に照らして日本の近代化は至上命題であり、かつ、時間的余裕がないことも明らかであった。

 そのため、この点をとやかく言うことは無意味にして不毛である。

 だが、それでももやもやした感想を持つことは否定することはできない。

 これを否定したら前に進めないだろうから。