今回はこれまでの続き。
今回も山本七平氏の書籍から学んだことをメモにする。
7 「第7章 『芸』の絶対化と量」を読む
本章に関連する敗因21か条はこちら。
(以下、敗因21か条より引用)
一、精兵主義の軍隊に精兵がいなかった事。然るに作戦その他で兵に要求される事は、総て精兵でなければできない仕事ばかりだった。武器も与えずに。米国は物量に物言わせ、未訓練兵でもできる作戦をやってきた。
二、物量、物資、資源、総て米国に比べ問題にならなかった
(引用終了)
本章を一言でまとめれば、「『質』と『量』を同一視した悲劇」になるだろう。
まず、本章は「日本兵の強さ」に関する発言を紹介することから始まる。
曰く、「資源も物量も(米国に対して)乏しい状況で日本はあれだけ頑張れたのだから、日本軍は強い」と。
また、この「日本兵の強さ」には具体的事実による裏付けがあり、説得力がある。
そのことを踏まえて「その『強さ』とは何か?」と話が続く。
本章では、次のように言う。
「この『日本軍の強さ』は『零細企業・中小企業の強み』である」と。
抽象化すれば、「芸・秘術を極めたものの強み」と言うべきか。
零細企業等では資本その他の制約条件が強く、かつ、それを変更するのは容易ではない。
そのため、勝つためには自分の持っている技術を精錬化して「秘術」とし、それを用いて戦わざるを得ない。
結果、この秘術はその制約条件下であれば、また、相手が同じ制約条件下であれば無類の強さを発揮することになるし、事実強さを発揮した。
ところで、日本は「『制約条件』を固定し、その中でレベルを競う」ということを長らくやってきた。
現代においてそれが色濃く表れているのが「受験」の世界である。
さらに言えば、「資格試験」もそうなのかもしれない。
その結果、「秘術を極めた者は、制約条件が変わったとしても同様の絶対性を発揮する」という錯覚を持つようになった。
極端に言えば、「一芸に秀でた者は万能である」ということである。
もちろん、あることに秀でている人間が別のことに秀でている可能性はある。
例えば、将棋プロの島朗先生が書いた『純粋なるもの』に書かれていたエピソード(手元に本がないので若干不明確な点はご容赦いただきたい)に「将棋のプロの先生がある人からあるボードゲームのルールを教えてもらったところ、その直後にその先生は教えてくれた相手をそのボードゲームで負かしてしまった」というものがある。
こういうことがある以上、「可能性がない」ということはない。
しかし、「全部の場合に成立することはない」ということも明らかであろう。
マックス・ウェーバーは「最高の官僚は最悪の政治家である」と述べたが、このことからも明らかである。
さて、この「秘術(芸)絶対化」の錯覚を抱くことでどんな問題が発生するか。
本章では、その結果生じる問題点を次のように列挙している。
一、交代要員がおらず、質にばらつきが生じてしまう
二、秘術を直ちに身に着けることができないため、補充が効かない
三、高度な技術が発展した場合に、秘術は転用できない
四、外部条件の変更如何によっては秘術を活かせなくなり、その場合、自信の喪失につながる
五、秘術の精錬化に集中することにより、前提をいじることで目的を達成する発想に及ばなくなる
なお、「秘術の精錬化に熱中すること」、これは欠点しかもたらさないものではない。
何故なら、この熱中こそ明治の近代化と戦後の高度経済成長の奇跡をもたらしたと言いうるからである。
ならば、「芸に熱中する一方で冷静な視点を持つ」ことでこの悲劇は回避できるのかもしれない。
あるいは、「役割分担」によってこの悲劇が回避できるのかもしれない。
もっとも、冷静な視点を持てば熱中できなくなるわけで、その辺の塩梅はよくわからないが。
さて。
「私にもこの錯覚はあったなあ」としきりに反省する次第である。
この点、私は自分に対しては冷めた目で見ており、「私は受験で成功したがそれだけだ。この点を他の部分に転用できる可能性は全くない」とこの錯覚の逆の発想を持っていた。
もちろん、東大(理系)に受かった際の経験は、司法試験の際に転用でき、その他色々な場所で転用しているので、この発想は間違っていたわけだが。
他方、私は他人に対して「その人はある分野で私よりも優れた結果を出しているのだから、私がコミットしている分野にその人がコミットすれば私よりもはるかに優れた結果を容易に出すであろう」と想像することに限りがなかった。
今思えば愚かなことを考えていたものである。
まあ、信仰から脱却できただけよいこととしよう。
信仰を相対化するのは大変だから。