今回はこのシリーズの続き。
『危機の構造_日本社会崩壊のモデル』を読んで学んだことをメモにしていく。
23 第7章「社会科学の解体」を読む_中編
前回は、学問の歴史を通じて「社会科学的法則は存在する」ことを確認した。
このことは社会科学的実践・思考法を身につけるために絶対に押さえておくべきことである。
ただ、押さえるべきことは他にもある。
次に押さえなければならないことは「社会に対して個人は極めて弱い存在である」ということである。
この点、前回のメモで心理学と精神分析学による研究の結果として「『個人の自由意志による行動』なるものが存在しない」ことを示した。
とすれば、社会における個人・集団の現実的な行動の結果が、個人の自由意志や集団の意図・目的といったものから乖離したものとなってもおかしくないことになる。
この点、マルクスは「人間の意識がその存在を規定するのではなくて、逆に、人間の社会的存在がその意識を規定するのである」ということを『経済学批判』にて述べている。
そして、このことを方法論的にまとめあげたのがデュルケームである。
この点、デュルケームは「社会的事実」という概念を設定し、この概念を用いることで社会学を確実な方法論的基礎のある学問までもっていった。
ここで、社会的事実とは、人間の外部にあって人間の行動を規定する一方、人間の行動によって規定されない事実をさす。
そして、この社会的事実が社会において大きな意味を持つと「仮定」するのであれば、社会現象・社会科学的法則の研究において重要なものは人間の行動や自由意志ではなく社会的事実ということになる。
もちろん、古典経済学派と同様、この仮定は仮説に過ぎない。
しかし、このような仮定を設定して研究を進めることによって社会分析は有効に機能するようになった。
では、社会分析の役割・目的は何か。
最も大事な役割・目的は「スケープゴート主義からの脱却」である。
これまで、スケープゴート主義が科学的思考から離れていること、そうであるにもかかわらず、この発想が多くの人間を縛り付けていることを示してきた。
とすれば、科学的社会分析の真の効用・目的はこのスケープ・ゴート主義の呪縛から我々の思考を解き放つことそれ自体にあるといってよい。
この点、エネルギー保存則(熱力学第一法則)と熱力学第二法則が支配する自然現象と異なり、社会現象では一方的な因果関係のみによって生じる現象が少なく、相互連関によって無限に波及していく現象が多い。
そのため、社会現象は直感的な推論に頼っても「意図せざる結果」となることが少なくない。
とすれば、この「意図せざる結果」の分析が社会科学におけるより重要な任務になる。
そして、「意図せざる結果」の原因は「相互連関による無限の波及」にある。
そこで、社会科学的分析において相互連関分析といった手段が重要になる。
この点、相互連関分析による具体的な成果の第一号が経済学の一般均衡理論である。
この一般均衡理論によって経済学は飛躍的発展を遂げることになった。
この辺のことは『経済学をめぐる巨匠たち』で見てきたとおりである(該当するメモは次の通り)。
この点、経済学の前提と現代社会の乖離によって経済学の有用性が下がった点はこれまでに述べた通りである。
また、他の社会科学では経済学において設定した大胆な仮定は作りづらい。
つまり、古典経済学派は「資本主義体制であれば、国家や民族の性質によらずに成立する法則がある」などといった個性完全無視の前提を置いた。
しかし、政治や心理といった分野であれば、社会システム(社会構造)の要素が重要な役割を演じることが予想されるのでそうもいかない。
そこで、他の社会科学においても一般均衡理論のような分析が必要であるが、それだけでは足らず、社会構造と社会における機能体の連関分析(相互作用の分析)も重要になると考えられる。
以上、抽象的な話が続いた。
ここから話題を具体的な日本の社会問題に移す。
本書で取り上げられている話題は大学入試の弊害を緩和するための制度改革である。
この点、著者によると中教審関係者も政府関係者も社会科学的思考法の前提を踏まえていないという。
その結果、彼らの改革案は実現不可能か、目的を達成できない、という。
例えば、従前の大学入試の弊害を緩和させる目的で「内申書の追加・一斉入試」といった手段を提案するかもしれない。
しかし、これらの小手先の方法では大学入試の弊害が緩和できない。
それどころか、このレベルの改革はこれまで何度も行われ、かつ、総てが失敗したという。
つまり、「入試を廃止し、別の有益な方向に青少年のエネルギーをもっていく」という意図でなされた関係者の改革は簡単に裏切られ、入試はより厳しい形で復活した。
このような失敗の悲劇、いや、茶番を繰り返している原因は、社会科学的思考の大前提の欠落、つまり、「入試制度といった社会制度は社会構造の中にあるので、社会構造と社会制度の相互作用を忘れた改革は無意味である」という点を理解できないことにある。
ここで、日本の大学入試制度についてみていく。
現代日本において(大学)入試制度は大学への入学の可否だけを決しているのではない。
現代日本の「傾ける階層」を構成するための機能を、日本人の身分を決めるための機能を有しているのである。
また、入試制度の公正・公平さについて日本人は信仰に近いものを持っている(これは最近騒がせた医学部の女性などに対する配点の問題でも顕在化した)。
それゆえ、対処療法的改革は意味をなさない。
このことを示す例となるのが、高等文官試験(その後の旧・司法試験)をそのままにしていたために卒業生を社会に生かせなかった東北帝国大学の法文学部の設立に関する失敗談がある。
あるいは、東京都の学校群制度の改革も同様である。
この教育制度改革も組織的・構造的配慮を欠いたため、都立特権校を私立特権校に変えただけ、貧乏人が(公立から私立に特権校が変わった結果)特権校に入りづらくなり、結果、一流大学に入りづらくなっただけで終わった。
このような失敗例は日本において無数に転がっているだろう。
このことから、社会構造や構造機能の相互連関分析を欠いた制度改革は無意味であることが分かる。
さらに、大学入試に関する問題は、教育問題であり、社会問題であり、経済問題であり、政治問題でもある。
ならば、政治・経済・社会に対する波及効果と相互作用を考慮しなければ、意図せざる結果を招いて失敗する。
もっとも、自己または自分の所属する集団の利権拡大の意図で改革を利用しているにすぎず、社会問題の解決は重要ではない、とでも考えるなら別として。
そして、自己・所属集団の利権拡大を意図とせず、社会問題の解決・緩和を意図とする制度改革を行うならば、次のことを抑えなければならないことが分かる。
まず、単一の制度のみを変更させるのではなく、関連する制度の変更も行う必要があること。
また、制度の変更によって生じる社会現象をある程度的確に予測し、それが良い方向に向かう可能性があることが事前にわかっていなければならない。
そこで、制度変更による日本の社会構造の変化と社会構造と社会組織の相互作用に対する分析を行う必要がある。
例えば、入試制度をいじるなら、大学入試ランキングといった疑似制度・大学の教育システムといった上位システムが制度の変更によってどうなるか、あるいは、入試制度の変更にあわせてどう変更すべきかといった分析も必要となる。
さらに、制度変更による副作用についても分析して、場合によっては必要な手当てを施すことも重要になる。
何が起こるかを100%で予測することは不可能であるとしても。
以上、大学の入試問題を例にして社会科学的分析法を適用していく手順についてみた。
この点、官製の改革案にケチをつけ、あるいは、「絶対反対」を叫ぶだけでは官製の改革案を阻止することはできない。
よって、こちらから学問的な裏付けのある有益な対案を出して、官製の改革案を蹴散らしていく必要がある。
ゲバ棒は機動隊によって蹴散らされても、学問の力は政府の権力をはねのけることができるのだから。
以上、「社会科学的思考法(実践)それ自体」と「日本で社会科学的思考法を生かしていく方法」についてみてきた。
ここから日本の社会科学の現状をみていく。
著者によると、当時の日本の社会科学は破産寸前である(あった)という。
つまり、当時の日本の社会科学は「日本の破局を救済するために利用可能」であるどころか、日本の社会科学それ自体が崩壊に危機にさらされているという。
まず、経済学の状況を確認する。
高度経済成長をけん引するために極めて重要な役割を演じた経済学が、石油危機のころから役に立たないとの批判の集中砲火を浴び、没落したことは第4章で確認した。
本書の時点で経済学自体が解体の傾向を示しているという。
その原因はいわゆるラディカル・エコノミックスの隆盛、そして、過去の経済学者がラディカル・エコノミックスに転向してしまったことにあるという。
本書では、宇沢弘文教授(現段階では故人、この方が丸激で話をしたものして次のリンクがある)は日本最高の経済学者であるが、旧来の古典派、つまり、新古典派に反旗を翻すようになった。
このように新古典派から離脱した元古典派の経済学者は少なくない。
このように、六十年代に隆盛を極めた近代経済学は急速に崩壊してしまった。
もちろん、近代経済学が廃れたからといってマルクス経済学が代わりの役割を果たすわけでもない。
というのも、マルキストの予想を超えて日本社会が激変してしまった関係で、彼らの理論その他が旧式になってしまったからである。
さらに、「ブルジョワ社会科学」も飛躍的に発展している。
この点、マルクスはブルジョワ社会科学(この中には古典派経済学も含まれる)を学び、吸収し、その上で批判を展開したのだが、このような努力は日本のマルキストに見られなかった。
これでは、旧式化してもやむを得ないともいえる。
ところで、19世紀以前の近代資本主義社会と異なり、現代社会は「政治経済学」という形で政治と経済をセットにして分析しなければならない時代になった。
この辺のことは第4章で確認したとおりである。
それに対して、経済学の不振は前述の通り。
では、日本の政治学についてはどうか。
本書によると、「日本の政治学は既に消滅した」というレベルらしい。
このことはいわゆる政治学者が最新の政治的重大事件に対して発言しえないことからも明らかである、らしい。
この点、戦後から高度経済成長以前の時代は、丸山真男といった超有名な政治学者がいた。
彼の発言は重かった。
また、戦後、政治学者たちは廃墟のなかから出発し、斬新な方法と鋭い問題意識をもって現実を分析し、戦後独自の政治学を作り上げた。
さらに、彼ら政治学者は様々な分野に関心を持ち、心理学・社会学・統計学などの隣接分野においても業績を上げていった。
しかし、高度経済成長による日本社会の激変を経て、政治学者は意欲と能力を喪失する。
その結果、日本社会に対する発言力を失うとともに、社会科学の進歩から取り残されてしまった、とのことである。
もちろん、ニクソン・ショック、石油危機、ロッキード事件など現代日本において政治的な事件は転がっていて、政治学的方法による分析の機会がないわけではない。
しかし、本書によると体系的な政治分析はなされていないらしい。
著者は「戦前の天皇制・官僚機構の分析の際に鋭い切れ味を示した日本政治学はどこへ行ったのか」と嘆いている。
以上、日本における社会科学的実践が欠落して悲劇や茶番を繰り返していること、日本の社会科学が危機的状況にあることについて確認した。
では、どうすればいいのか。
社会科学を再生させていくためには、学問や科学それ自体について理解すること、また、それぞれの学問の特徴を理解した上で対処していく必要がある。
そこで、それらの手段を次回以降にみて、本書の精読を終えたい。