今回はこのシリーズの続き。
『危機の構造_日本社会崩壊のモデル』を読んで学んだことをメモにしていく。
24 第7章「社会科学の解体」を読む_後編
前回までで、社会科学的思考法や社会科学的実践を行う際に踏まえるべき前提、日本において社会科学的実践が行われていないがために生じた悲劇と茶番、日本の社会科学の危機的状況についてみてきた。
今回は危機的な現状に対してどう立ち向かうか、また、立ち向かうために必要な前提についてみていくことになる。
前回、政治と経済が密接にかかわっている現代社会では政治学と経済学の両方からの分析をしなければ有益な分析結果は得られない旨確認した。
もっとも、これは政治学と経済学に限った話ではない。
すべての学問について言えることである。
ならば、各学問(自然科学も含まれる)が各学部・学科に閉じこもっている場合ではない、ということが言える。
いわゆる「学際協力」が重要になる、ということになる。
もっとも、この学際協力は容易ではない。
本書によると、学際協力のための試みの大半がむなしく失敗しているとのことである。
そこで、学際協力の試みが失敗した原因の分析とその原因を除去する手段の追求が問題となる。
ここで、日本の美しき伝統による諸々、例えば、「失敗したのは能力がないからだ。反省せよ」と迫ることや「何者か誰かが学際協力を阻止している。云々」といった手段が意味をなさないことは言うまでもないだろう。
この点、原因分析の前に、学問、特に、現代科学の方法論について確認する。
簡単に言えば、「何をすれば『現代の学問』になるのか」という部分の確認である。
まず、学問(科学)の理想状態は次のメカニズムが回転していく状態を指す。
1、モデル・理論を作り、一定の過去の状態から未来の結果を予測する
2、実験を行い、作ったモデル・理論の精度を検証する
3、実験の結果を元に従来のモデル・理論を修正し、一定の過去の状態から未来を予測する
4、実験を行い、修正されたモデル・精度を検証する
(以下エンドレス)
簡単に言えば、学問の理想状態は①理論の構築と②実験による理論の検証の相互循環ということになる。
しかし、これは理想に過ぎず、理論と実験の相互循環という理想状態の実現は極めて困難である。
さらに言えば、精密な理論の構築それ自体、あるいは、実験それ自体も簡単ではない。
このことは社会科学でも自然科学でも変わらない。
この結果、現実の科学においては、①理論なき実証、②実証なき理論、③実証と理論の分離といったものが少なくない。
これらは「現状が理想への中途段階」と見れば必ず生じる現象である。
よって、この状態はやむを得ないものとしか言いようがなく、これ自体を口実に研究者や学者を非難するのは明らかに妥当性を欠くであろう。
しかし、学問毎にこの中途過程の①・②・③のバランスが異なる。
つまり、ある学問は理論に特化し、別の学問では実験に特化しているといったことがある。
この不均衡・偏向が学際協力を困難にしている原因になっている。
この点、この不均衡は研究者個人の関心と研究目的にも左右される。
例えば、理論研究者は理論好きで「実証なき理論」に偏るだろうし、逆に、実証研究者は「理論なき実証」に偏るだろう。
しかし、概ねは各学問の伝統・研究状況・発達段階(歴史)による。
その結果、同じ学問でも時間が違えば、あるいは同じ時点でも学問が違えば、不均衡・偏向の程度は異なることになる。
このことはそれぞれの学問が護送船団方式のような形で横並びで発達することがないことを考慮すれば当然の結果であり、特段不思議なことでもなければ非難すべきことでもない。
もし、このことを非難するならば、「自然界に重力があるのはけしからん」というようなものである。
無意味・不合理・不当というしかない。
しかし、この状態に加えて、学者・研究者が自分の所属する学問・学科の偏向状態を科学の準理想状態と誤解することで話がややこしくなる。
こうなると、現時点における自分の所属する学問・学科の「理論と実証のアンバランス(偏向)」を「科学の理想状態に対する中途過程」ではなく「現状における科学の理想状態」と誤認してしまうのである。
その結果、自分が専攻しない学問・学科の偏向(当然、これは自分が専攻する学問・学科の偏向とは異なる)に対してとんでもない劣ったと評価してしまうことになる。
この誤認と誤認に基づく評価が学際交流・学科間交流を妨げる原因になっている。
なんか盲目的予定調和説とオーバーラップしている感じがするが、それはさておき。
このような例は現実においていくらでも例を探し出すことができるが、本書の具体例をみていく。
当時において社会科学で進んでいる学問は経済学と心理学である。
ならば、経済学と心理学がタッグを組めば最高になるではないかとも考えられる。
しかし、経済学は理論特化、心理学は実証特化となっていて、学問の偏向の向きが全然違う。
その結果、両者の相互理解は絶望的になっている(いた)。
以下、経済学と心理学の(当時の)状況について単純化してみてみる。
まず、経済学の先端性の裏付けとなっているのは理論である。
つまり、いわゆる一般均衡理論とその周辺の理論は理論それ自体として最高であり、この点においては理論物理学にも負けないレベルであった。
しかし、実証に関してはそれほど進んでいない。
つまり、パラメータの操作などによって実証できるものは一部、パラメータとして操作できるのも一部といった状態である。
さらに言えば、経済理論には抽象的なモデルとして存在するものも少なくない。
この状況を裏付ける発言がヒックス教授(ヒックス教授については次のリンク参照)が「わたくしは、これ(私による註釈、限界代替率逓減の法則のこと)が内省的に、あるいは経験から確証できるとは思わない」という発言である。
次に、心理学についてみてみる。
心理学が最先端であることを裏付けているのは実証である。
その実証の緻密さは物理学には及ばないとしても社会科学の中では類を絶している。
しかし、心理学者は実証と結びつかない理論を重視しない。
このことは、「実験と結びつかない理論を許せば、心理学者と同数の理論が発生し、科学としての客観性は失われるだろう」というワトソンが行動主義心理学を提唱した際のテーマにも現れている。
この辺は客観的な物(商品や貨幣)の動きを対象とする経済学と比べるとやむを得ない気がする。
この前提を踏まえて心理学者から経済学者を見た場合、「経済学者は壮大な一般均衡理論を作っているが、これは砂上の楼閣を熱心に作っているようなものだ」とみて、実証に基礎を置かない理論作りを非学問的行為と見るだろう。
それどころか、このような砂上の楼閣によってノーベル賞をとったとなれば、怒髪天をつくといったことにもなりうるかもしれない。
もっとも、経済学者に対して親切に「現実離れした理論作りはやめて、もっと実証に重点を置いたらどうか」などといってもおそらく無駄であろう。
というのも、経済学は(心理学者がいうところの)熱心な砂上の楼閣づくりによって大きな発展を遂げたのだから。
本書で書かれていない個人的な感想を追加するなら、もし、経済学が心理学のような実証特化の方向に舵を切れば、急性アノミーその他により経済学は崩壊するのではないかとも考えられる。
もちろん、以上の話は単純化した場合の話である。
当然だが、心理学にも理論はあるし、経済学にも実証はある。
そして、それらのレベルが低いわけでもない。
ならば、そこからてこ入れにすればなんとかなるのではないかとも考えられなくもない。
しかし、それは非常に難しい。
というのも、両者の間には自然科学でいうところの「理論研究室」と「実験研究室」の不協和音といったようなものがあるからである。
つまり、少し前に「理論と実験の相互循環」が科学の理想状態であると述べた。
しかし、この理想状態に対しては二つの見方がある。
つまり、「理論の確立が目的で、実証は理論の価値を支える手段」という発想と、「現実の詳細な解明(実証の緻密か・広範囲化)が目的で、理論は実証を説明するための手段」という発想である。
経済学や理論研究者は前者の立場を、心理学と実験研究室は取る傾向が強くなる。
その結果、経済学者は実証結果それ自体に価値を置かない。
このことは、経済学者が現実の効用関数の調査・実験に関心を持たないという事実からもわかる。
他方、心理学者はその逆の傾向があり理論それ自体に価値を置かない。
つまり、実証結果を一般化できるならまあ聴いてやろうという感じである。
この発想の違いはいくらでもあるだろう。
例えば、法学における実務家と学者の関係もこんなものである。
あるいは、自然科学における理学と工学や農学の間も似たり寄ったりなのかもしれない。
しかし、研究対象において一方向のみに特化しているというのは興味深い感じがする。
閑話休題。
そして、この発想の違いが学際協力を困難にすることになる。
だって、双方にとって一方の目的は相手の手段に過ぎないのだから。
ある宗教を熱心に進行している人間に対して、「お前の信仰(目的)は私の利益に寄与する(手段になる)、だから力を貸せ」というようなものである。
反発が先に来ても不思議ではない。
この経済学と心理学における実証的研究思考の差異は、それぞれの学問の実験計画法においても、方法論においても大きな違いを生んだ。
実証を理論の手段と考える経済学ではデータ処理法に関するものが乏しい。
逆に、実証にこそ価値を置く心理学ではデータの処理については厳格である。
このような態度の違いがあれば、一方が「他方とは到底協力できない」と言い放ったとしても無理からぬ気がする。
以上、経済学と心理学のディスコミュニケーションについてみてきた。
原因を突き詰めれば、それぞれが科学の理想状態からほど遠い状態にある理論特化・実証特化を理想的科学的方法と誤解しているから、ということになる。
現実では「価格は需要と供給の両方によって作られる」のに対して、「価格は供給が作る」と考えた古典派と「価格は需要が作る」と考えるケインズ派の関係に似ているのかもしれない。
そして、その辺の誤解を解くことができれば、経済学と心理学は協働できるのかもしれない。
もっとも、盲目的予定調和説・技術信仰の強い日本でその誤解が解けるかは非常に怪しいが。
では、それ以外の社会科学ではどうだろうか。
そこで、次に政治学にスポットをあてる。
本書によると、(当時の)政治学は理論も実証も操作(理論による実証の予測)も何ら存在しないらしい。
「政治学は、アリストテレス以降進歩していない」らしいのである。
この点、アメリカでは、政治学の高度化のためのいろいろな理論研究・実証研究は始まっているらしい。
しかし、日本では理論研究自体がタブーというような状況だったらしい(もちろん、当時の話であって現在はわからない)。
本書によると、日本の政治学者が重視するのは自身の感覚・問題意識、そして作文能力とのことである。
これでは、経済学者や心理学者と政治学者のコミュニケーションは知性主義者と反知性主義者の会話になりかねないだろう。
つまり、経済学者や心理学者は政治学者と評論家との区別が分からず、他方、政治学者は経済学者や心理学者を社会の問題意識を忘れた些末主義者と見ることになりかねない。
以上を見ると、状況は絶望的と言うしかない。
よって、「社会科学的実践によって得られた成果を社会に還元し、社会問題による悲劇を減少させる」といった話は夢物語に見えてくる。
本書には書かれていないが、「そんなに絶望的ならば、『あとは野となれ山となれ』でいいではないか、それで問題あるのか」という声まで聴こえてくる。
しかし、「『あとは野となれ山となれ』はよくない。それは子々孫々のためにならない」と決意するならば(しないならば別である)、この絶望的な状況に立ち向かうしかない。
では、どうするべきか。
最初になすべきことは「『あとは野となれ山となれ』を選択しない」という決意、、、というのは冗談としても(本書にも記載がない)、「科学的方法論に対する真の理解」になる。
例えば、心理学者と経済学者の対立は「科学的方法論を理解した上での相互承認」によって解決する。
ここで大事なのは「理解」と「承認」の二つであり、単なる承認だけではダメかもしれない。
次に、政治学と経済学・心理学の対立についてはどうか。
この点、上記理解と承認の二点が重要であることは間違いない。
しかし、さらに必要なことがある。
つまり、政治学側に必要なことは、「経済学・心理学といった学問発展の歴史の理解」と「『過度の単純化という犠牲を代償にしなければ学問の発展はない』ということの理解」となる。
例えば、経済学だってワルラスの一般均衡論が発表された当初は机上の空論と考えられていた。
しかし、ヒックス・サミュエルソンによって方法論が整理され、実証・政策立案の武器になった。
他方、心理学は実験に夢中になり、その結果、「心理学はとは、白ネズミの直系の子孫である人々のことをいう」などと言われた。
しかし、そこで得られた実験結果が「科学」となり、社会に反映されることとなった。
この点の理解がカギになるだろう。
逆に、経済学側・心理学側から見て大事なことは、「今の政治学は昔の経済学・心理学のような状態だったのだから、その理論・実験に不備があってもしょうがない」と割り切ること、であろうか。
これらがうまくいけばなんとかなるかもしれない。
しかし、本書によると、これらの山積した問題に対する手当はなされていないとのことである。
以上で本章は終了である。
今回の話、私自身が似た経験をしていることもあって、それぞれの立場の研究者の心理的状況・解決の糸口のイメージがつかみやすかった。
この本も似た経験をする前に読んでおけばよかったなあ、と考える次第である。
まあ、経験する前に読んでもピンとこなかっただろうが。