今回はこのシリーズの続き。
『危機の構造_日本社会崩壊のモデル』を読んで学んだことをメモにしていく。
21 第6章「ツケをまわす思想」をまとめる
まず、前章の内容を箇条書きにまとめる。
・ロッキード事件・造船疑獄事件・革新自治体の慢性赤字の問題といった日本の社会病理現象現象の背後には「ツケを回す思想」がある
・アメリカやヨーロッパと異なり、(昭和50年当時の)日本人は自治体の慢性的赤字財政をそれほど深刻には受け止めなかった
・アメリカでは、大恐慌における失業者救済のためのニューディール政策が憲法訴訟に発展したように、財政均衡に対しては厳格な態度をとってきた
・財政均衡に対する厳格な態度の背後にはジャン・カルヴァンの予定説・資本主義・古典経済学・財産権不可侵の原則などといった宗教・原則がある
・アメリカの差別をめぐる戦いは一定のロジック(原則・宗教)によって正当化された「差別主義者」と差別撤廃主義者の間で行われているところ、多くのアメリカの差別撤廃主義者は口先だけではなく行動でも差別を撤廃しようとしてきた
・日本の場合、アメリカのような差別主義者・反福祉論者は存在しないが、差別解消のための行動を起こす差別撤廃主義者も少ない
・日本のような「空気」によって右往左往する社会では、自治体の慢性的赤字の問題と福祉の充実化の成果について一方のみを切り取って称賛・断罪することはあまり意味がない(経済的合理性のみに至高の価値を置き、かつ、経済的合理性を追求する行動以外の人間の行動の価値を否定するならさておいて)
・「自治体の慢性的赤字と福祉の充実」と類似するケースとして国鉄と農業(お米)の問題があった
・現代の日本社会は「ツケを回す思想」で成り立っている面があり、それは功罪両面がある
・この「ツケを回す発想」を支えているものが、日本における「所有」観念と日本の傾ける階層構造である
・近代資本主義の「所有」の特徴として、所有の絶対性・抽象性・一義的明確性がある
・現代日本は地図上は資本主義社会に分類されているが、その「所有」に対する日本人の認識に「所有」の絶対性・抽象性・一義的明確性が極めて弱い
・現代日本の所有の絶対性が相対化されていることが示されている言葉として、「(企業の環境汚染による漁民への損害に対して)企業を破産させてまで賠償しなくてもいいが、所有不動産くらいは手放して賠償せよ」といった資本主義に対して否定的な識者の発言がある
・現代日本の所有が具体化されている例として、いわゆる社用族の振る舞いがある
・現代日本では「やり過ぎ」をアウトにするが、この「やり過ぎ」という基準は一義的・明確ではないことから、現代日本の所有の観念は一義的・明確とはいえない
・現代日本の「所有」観念がアメリカと異なることについては、業績泥棒や窃盗に対する見方の違いに現れている
・日本の階層構造はいわゆる「傾ける階層」となっている
・「傾ける階層」とは、「『形式的・上位制度の上では平等であるべき』と規定されている一方で、実質的・下位制度的には区別(差別)があることによって生じる階層」のことをいう
・制度化された階層の具体例として貴族制度やカースト制がある
・日本では所属する共同体によって階層が決定されるところ、これらは制度的に決まっているわけではない
・「傾ける階層」が存在することによって、社会では「連続的細分化の法則」と「限界差別の法則」が作動する
・連続的細分化の法則とは階層が「傾ける階層」になっていることにより階層の分化が離散的にならずに連続的になること、階層と階層の境界が不明確になることをいう
・階層と階層の境界(身分の境界)が不明確になる結果、「階層ごとの団結」という現象が生じにくくなる
・階層毎の団結が生じにくくなる結果、個人が共同体外において疎外されていると感じる原因になる
・限界差別の法則とは、各人が自分の状態を自己の属する階層の下限に勝手に設定し、自分よりわずかに下の人間を別の階層とみなしてこれを差別してしまう発想をさす
・「傾ける階層」ではその差があいまいであるため、階層の認識が各個人によってばらばらになる
・自分に有利になるように階層の境界を引く結果、各自が自分の所属する階層の境界線を自分の状況のすぐ下に引くことになる
・限界差別の法則が作動する結果、各集団・集団に属する個人は、よりランクの上の集団にはコンプレックスを抱きながら、より下のランクの集団を見下すしていくことになる
・日本の階層は多元的な構造を持っている
・アメリカでは威信と富はプラスの相関があることが多いが、日本では無相関、あるいは、負の相関がみられることもある
・日本では威信・権力だけある人間と富だけある人間がより多く生じることになる
・日本では、威信・権力だけを持っている人間は委託された権力を自分のために流用するようになる
・日本では、富だけを持っている人間は限界差別によって生じる不安から脱却するため上の階層にしがみつくことになる
・日本では、威信・権力を持つ側の人間が「ツケを回す側」の役割を、富だけ持っている人間が「ツケを回される側」の役割を果たし、その結果、「ツケを回す発想」を作動させていくことになる
22 第7章「社会科学の解体」を読む_前編
本書もこれで最終章である。
そして、本章は学問に関するお話が中心になる。
「そもそも『学問』とは何か」という点から見た場合、本章は有益である。
まあ、小手先の学問的成果だけをかっさらおうとする人間にとっては本章は無用の長物であろうが。
本章は「社会科学的思考法」の定義から話が始まる。
そして、「社会科学的思考法」をイメージするため、その対極にある苦労人の説教話を例に出して話が進む。
この点、「苦労人の説教話」には「現状の世間の状態は苦労人の認識した内容と同一であり、かつ、その認識した世間の状態は『善』である」という前提がある。
もし、これらがなければ、苦労人の説教話から説得力が消えるだろう。
また、これらがなければ、聴いた人間からの質問・反論に対して、「自分がお前に対して1時間も費やして話をしたのに、その態度はなんだ」といった態度批判で返すこともないだろう。
当否はさておき、苦労人の説教話の背景に「社会を(自然のような)所与とみる心的傾向」があることは否定できない(他の仮定としては、「苦労話を使って相手を破滅に追いやる意図がある」とか「全く何も考えていない」といった可能性もあるが、それはあまり多くはないだろう)。
この「社会を所与とみる心的傾向」は苦労人に限った話ではない。
いわゆる前近代的社会に住む人間にもこの心的傾向はある。
この心的傾向がいいか悪いかはわからない。
しかし、このような心的傾向でいる限り、社会科学的思考法を行使する意思は生じえないことになる。
何故なら、このような心的傾向を前提にするなら、社会を批判・分析することは無益であり、その手段となる社会科学的思考法などドブに金を捨てるようなリソースの無駄遣いにしかなりえないからである。
そして、前近代の人間にとって「社会は、そこで、人は生まれ、黙って生活し、そして死んでいくべき自然現象の一部」だったのであったのだから、「社会を分析・批判しよう」などとは思いにもよらないことであったということになる。
以上を踏まえると、社会科学的思考法にはある一つの前提があることになる。
それは、「社会組織や社会構造は、過去の所属集団の構成員たちの行為による結果である」ということである。
そう考えるからこそ、「社会組織や社会構造も所属集団の構成員たちの意図に応じて改変・制御することができる」と考えることになる。
前述の苦労人にこのような発想がないことは明らかである。
そして、この二つの発想は近代思想の大前提ということになる。
以上の大前提、「社会は人間が作ったものだから、人間は社会を変えられる可能性がある」という観点は極めて重要である。
この点、近代以前であれば、「社会は不変である。よって、個人は『不変である社会』に適合することが大事」という苦労人の説教話が絶対的真理になる。
これに対して、近代以降になると「社会は変化しうる。よって、人間は必要に応じて社会を制御し、あるいは変革する必要がある」になってしまい、苦労人の説教話が相対化される。
もちろん、相対化されるだけで、完全否定されるわけではないとしても。
「社会が変化しうる」ことの立証は歴史を見ればわかるだろう。
これまで様々な社会が滅び、再生してきたのだから。
もっとも、「変化しうる」といってもその手段が明確なわけではない。
そこで、「どうやったら社会を変化しうるのか」ということが次の重要な問題となる。
この点、「社会を変化させる手段」としての一つの重要な方針が「人間・集団の行動法則(社会科学的法則)を解明する。その解明したルールを足掛かりに社会を変革する」になる。
しかし、この方針は自明ではない。
それが証拠に、次の二つの質問が浮かびあがってくる。
第一の疑問は「社会科学的法則が分からなくても、自分や集団の目的・意図に適合するような社会を強引にデザインすればいいではないか」という点。
第二の疑問は「そもそも人間・集団の行動法則(社会科学的法則)など存在するのか」という点である。
いずれも当然に生じうる疑問である。
ここで、本書に記載されていることではないが、イメージしやすくするため自然科学における具体例に置き換えてみる。
例えば、「鳥は空を飛んでいるが、人は空を飛べない」という過去の一般的事実がある。
これを所与の前提として「人が空を飛べないことを前提に生きる」のが近代以前の思考法となる。
これに対して、「(そのままでは人は飛べないが、)補助道具を使えば人間でも空を飛べる可能性がある」と考えるのが、近代以降の思考法となる。
そして、空を飛ぶ手段として採用する指針が「自然科学法則を解明し、その法則を利用する」となる。
これに対する第一の疑問は「別に法則なんか解明しなくてもいいじゃん」であり、第二の疑問が「自然科学法則など存在するのか?」になる。
自然科学についてみていくと、第二の疑問は「度重なる実験を行った結果、自然には万有引力の法則が成立する現象を多数確認できる。よって、過去の事実関係(歴史)を前提とすれば万有引力の法則は存在する。」になるだろう。
また、第一の疑問に対しては、「念じて空を飛べるなら、そのまま何もせずに飛んでみい、まあ、概ね失敗するだろう」という反論を突きつければいいということになる。
「汝の信仰、病を癒せり」で有名なクリスチャン・サイエンスの立場にでも立たない限りこれで終わりである。
そして、自然科学法則を解明して、その法則を利用(逆用)して人は飛行機などを使って空を飛べるようになった。
めでたしめでたし。
この点、自然科学と社会科学は同じではない。
本書に書かれている大きな違いとして「自由意志の存在(自然科学にはなく、社会科学にはある)」があり、書かれていない違いとして「実験の現実的可能性(自然科学では実験が可能だが、社会科学では人体実験になりやすく困難)」がある。
それゆえ、社会科学法則の有無に対する疑問は当然の疑問である。
この法則の有無に対する疑問は、最初に経済学、古典経済学派に投げかけられた。
そこで、古典経済学における法則の有無をめぐる論争を見ていく。
つまり、イギリスの古典経済学派は「資本主義社会一般に成立する抽象的法則」の発見を目的としていた。
途方もない目的である。
そして、この目的の背後には「個別の資本主義国の歴史的・文化的差異は無視してよい」という前提がある。
この前提の結果、労働価値説・差額地代説・比較生産費諸説といった法則が発見され、古典経済学派は「これらの法則はいかなる資本主義社会でも通用する(原則である)」とまで主張したのである。
当然だが、これに対して異論が巻き起こった。
そして、異論を述べる側の要旨が「経済現象に一般法則など存在しない」になる。
この点、自然科学であれば「実験」で蹴りがつく(場合が多い)。
しかし、社会科学では「実験」を行うことは人や集団をモルモットにすることを意味するため、極めて困難である。
だから、自然科学のような解決は困難であり、現在においても完全な回答を得ることができないわけである。
まあ、自然科学でも「未来においても現在と同一の法則が成立する」ということを完全に証明することは不可能であり、その意味で「完全な回答」はないのだが。
しかし、完全な回答がなくても「今のところ、一方よりも他方の方が正しい」ということは言いうる。
自然科学において「過去においては万有引力の法則は成立したし、その前提が崩れぬ限り未来においても万有引力の法則は成立する」と言えるように。
その観点から見た場合、古典経済学派とその反対派の争いはどうなったか。
歴史を見ればわかる通り、古典経済学派は大恐慌まで全盛を極め、現在においてもケインズ派と張り合っている。
現在でもたびたびの批判はあれども、学会の潮流は一般法則の解明に向かっている。
とすれば、歴史の審判がどちらに微笑んだかの勝敗は明らかと言っていいだろう。
なお、古典経済学派を批判した歴史的偉人としてケインズの他にマルクスがいる。
しかし、マルクスのしたことは古典経済学派の連中より過激である。
というのは、古典経済学派の一般化は資本主義経済に限られていたのに対して、マルクスはそれを社会一般まで拡張しようとしたから、である。
具体例としては、産業予備軍説・疎外の理論などがある。
マルクスにとっては歴史から得られる社会科学的法則の発見・解明の方が大事だったのかもしれない。
なお、この辺は次の読書メモで学んだこととも関連している。
かくして、社会科学的法則(個人・集団における法則)の存在がより認知され、経済学から社会学・人類学・心理学といった別の分野に拡散し・再編されていくことになった。
その結果、「自由意志」についても研究が進み、「人間には『自由意志』が存在するから、社会科学は成立しないのではないか?」という疑問に対しても体系的な回答が得られるようになった。
本書による(学問的)回答は次のとおりである。
まず、行動主義心理学の展開により、「人間の自由意志」という概念が方法論的に否定されていくことになる。
次に、行動を決定する際の重要な要素が「意志」から条件反射・社会的慣習に変化していった。
このことは、我々の日常生活において「習慣・反射に流されてしまった結果、自分の意図が達成できない」という頻繁に起きる現象を見ればイメージしやすいと考えられる。
さらに、精神分析学の分析結果を組み合わせることで、自由意志と我々が考えているものは個人の複数あるコンプレックスの相互作用の結果に過ぎないことが多いことも判明され、それらの相互作用の法則もある程度発見されるようになった。
以上を見ていくと、「人間には自由意志があるから、社会科学的法則は『一切』存在しない」という極論は採用しがたいことになる。
そして、自由意志という前提がなければ、社会科学を自然科学に引き付けて考えていいことも。
そして、この理解が社会科学的思考法(実践)を始めるうえで極めて重要な大前提となる。
以上、第7章のきりがいいところまで進んだ。
これ以降は次回に。