今日はこのシリーズの続き。
『数学嫌いな人のための数学』を読んで学んだことをメモにする。
18 第4章の第2節を読む(前編)
今回から第2節についてみていく。
第2節のタイトルは「数学を除くあらゆる科学は不完全である_帰納法」。
このセッションでは自然科学にも触れられている。
前回、背理法という数学の証明技術についてみてきた。
そして、数学の証明を踏まえて近代科学の論証を見ていくと、近代科学の限界を知ることができる。
もちろん、この近代科学の中には物理学を含む自然科学も含まれる。
例えば、数学には帰納法という証明方法がある。
高校の数学で習う「数学的帰納法」がそれである。
そして、近代科学はこの帰納法を用いて大きな発展を遂げてきた。
そこで、この帰納法について見ていく。
なお、この点については次の読書メモで言及している。
この点、帰納法とは「特殊命題」として得られた命題を「全称命題」として扱う推論技術である。
つまり、宗教の教義(ドグマ)と異なり、人間の体験は全部が特殊命題である。
例えば、「カラスは黒い」という命題を考える。
体験としてみた場合、これは「私が見てきたカラスは全部黒い」になる。
この場合、総てのカラスのうち「私が見てきた」カラスに限定されているため、これは特殊命題である。
というのも、その人間が「過去・現在・未来にわたるすべてのカラスを見る」ことは不可能だからである。
以上より、「体験から得られた命題は特殊命題である」ということが理解できると考えられる。
帰納法とはこの体験上得られた特殊命題を全称命題として変換する推論方法である。
つまり、「二等辺三角形の二つの角は等しい」という命題は総ての二等辺三角形について述べている全称命題であるが、これと同様である。
そして、この帰納法的論証は数学を除けば完全ではない。
もちろん、「必ずしも真ではない」というだけで「必ずしも偽(間違い)でもない」が。
著者によると、この点の理解が肝要である、という。
例えば、ある人間が「私たち人類が見てきたカラスは全部黒い」と主張しても、これまでの人類は未来のカラス、未知の土地のカラスを見ていない以上、これは特殊命題であって、全称命題ではない。
よって、これを全称命題の如く扱えば、それは必ずしも正しいとは限らなくなる。
また、将来、「黒くないカラス」が出現した瞬間、この主張は誤りとして葬り去られることになる。
ちなみに、この点で有名な題材がブラックスワンの問題である。
16世紀のヨーロッパの人間はこれまでの観察の結果、「白鳥は白い」という結論を出していた。
そして、「黒い白鳥を探す」という言葉が一種の無駄を示す言葉として用いられていた。
ところが、1697年、コクチョウの発見により「黒い白鳥」が発見され、従来の説がひっくり返ることになる。
以上、帰納法は「多くの部分(一部)で正しいから、全体でも正しくいかもしれない」とまでしか言えないものを、「多くの部分(一部)で正しいから、全体でも正しい」に変換してしまう推論である。
これを見ると、帰納法は無茶苦茶な推論・すり替えと考えるかもしれない。
ところがどっこい、この無茶苦茶なすり替えの生産性は非常に高かった。
それゆえ、現在でも近代科学で用いられているし、この帰納法によって近代科学は飛躍的な発展を遂げてきた。
しかし、生産性が高いことは完全に正しいことを意味するわけではない。
この点は理解しておく必要がある。
本書では具体例として人類学を取り上げている。
過去の人類学は、現地の駐在員・宣教師、あるいは、探検家の未開地における見聞を資料として築いていた。
つまり、帰納法によって作り上げられていたのである。
その後、マリノフスキーというポーランド生まれのイギリスの社会人類学者がフィールドワークを行ったこと、ラドクリフ・ブラウンというイギリスの社会人類学者がデュルケームの社会学の方法を人類学に導入して方法論を確立し、飛躍的に発展させていくことになる。
本書はここから「科学における実験」についての話になる。
科学は「実験(実証)」と「理論(論証)」の統合によって得られる。
例えば、物理学では実験と理論構築が手を携えて進歩していった。
このことから、社会科学でも物理学で行われたような実験と理論を方法論として導入しようとした。
この動きが顕著に表れたのが心理学である。
まず、行動心理学という分野では従来の内観法という手段をやめ、実験だけによる研究方法のみを手段として限定した。
そして、この手法が全心理学に広まっていくことになる。
もっとも、人間のような複雑な行動を実験するのは困難である。
そこで、心理学の実験対象は人間から犬・猫になり、さらには、ネズミのような下等動物の行動の研究に移らざるを得なくなった。
本書では、パブロフの実験がその具体例として示されている。
パブロフの実験から犬のヨダレを流す行動が生理行動ではないことが示され、生理学から独立した科学としての心理学が確立することになる。
ところで、真摯に実験に取り組む場合も数学的思考法は不可欠である。
つまり、現実を見ているだけで実験的結果が得られる人間は直観の極めて優れた人間だけである。
例えば、現実では「八百屋お七の話から、丙午の女は縁起が悪い」と言われている。
これは現実の観察した結果そのものである。
しかし、このような観察結果は実験とは言えない。
実験と言いえるためには変数の分離といった精密化・精錬化か必要になる。
つまり、刺激(S)という「一定の入力」があったときに反射という「一定の出力」(R)が得られたとする。
このとき、行動関数となる「f(S)=R」における「f」を具体的に特定するのが実験である。
つまり、入力・刺激のSによって出力・反射のRがどうなるかという因果関係の解明が実験の目的である。
そして、その際に必要な手法が後述の変数分離である。
ただ、このような実験で得られた有用な結果は全部「特殊命題」に過ぎない。
このことは自然科学の実験(物理実験・化学実験)でも変わらない。
例えば、ピザの斜塔の上から何回も物体を落とす。
その結果、物体は毎回同じような経過をたどって落下した。
しかし、帰納法によってこの結果から全称命題として「物体は落ちる」と結論付けても正しいとは限らない。
これはこれまで述べてきたとおりである。
そのため、自然科学などの実験から得られた帰納法による証明方法のことを「不完全帰納法」という。
ところで、このように見ていくと、自然科学的証明は怪しいと思うかもしれない。
また、科学者としては「これまでこの実験は何度も行われてきたのだから正しい」と反論するかもしれない。
確かに、この科学者の反論は説得的である。
また、現実においてこれは悪魔の証明を強いるものであることを考慮すれば、これをもって「証明された」と考えるべきとも考えられる。
しかし、論理的には正しくない。
「例外的な場合があったがたまたま実験時から外れていた」という可能性を排除できないからである。
そのため、既に実験によって確認されたことが、未来において実験によって否定されるということはよくあることである。
本書では、熱素の例が取り上げられている。
つまり、18世紀において科学者の中では「熱素」という熱を与える物質が存在すると信じられていた。
しかし、19世紀にクラウジウスの実験により「熱素」の存在が否定されることになる。
また、万有引力の法則についても、これに反するのではないかを確かめる実験は今でも(頻度は稀であろうが)行われている、らしい。
以上が自然科学における不完全帰納法の説明である。
この点は必ずしもピンと来ないかもしれない。
しかし、この不完全帰納法を逆用して議論を展開する人々がアメリカにいる。
これについて「変数分離」のコラムを見た後にみていく。
本書はここでコラムになり、「変数分離」について説明している。
変数分離とは「ある結果」に対して「様々な原因」が考えられる場合に、「ある原因のみを変えて残りの原因を固定して実験を行う」ということを繰り返して、原因を特定する方法である。
本書では、「患者がバタバタ死ぬ病院」という結果の原因を変数分離を用いて特定する過程が具体例として取り上げられている。
あるとき、ある病院で患者がバタバタ死んだ。
そこで、病院の環境(立地など)に問題があるのではないか、と考え、その病院に患者を別の病院に転院させた。
しかし、患者は死に続ける。
このことから、病院の環境が原因とは言えないことが分かった。
そこで、投薬を変更したが、患者は死に続けた。
よって、薬に原因がないことが分かった。
そこで、医療補助者を全員入れ替えたが、患者は死に続けた。
よって、医療補助者に原因がないことが分かった。
そんな中、医者が死んだところ、患者の死亡がぴたりと止まった。
そこで、医者の腕がヤブだったことが原因であると判明した。
病院で人が死ぬケースを題材にして、かつ、それを現実の問題と考えると(例えば、疫病の問題はこれにあたる)、感情的に耐えられるか問題がないとは言えない。
しかし、変数分離の方法は上の方法に集約される。
つまり、原因を特定するために、1つの原因にかかわる要素を変更して、残りの原因にかかわる要素は変更せずに実験を繰り返す。
そして、実験結果の変更の有無から原因を特定する。
これが変数分離の方法である。
以上、変数分離について見てきたところで、ファンダメンタリストの科学批判についてみてみる。
これについては、こちらの読書メモで述べている。
この点、「ファンダメンタリスト」とは聖書(福音書)に書かれていることを、例外なく、つまり、文字通り、そのまま真実であると信じる(考える)人である。
日本人でこのファンダメンタリストになる人はあまりいない。
つまり、通常の日本人は奇蹟に関する聖書の記載を「事実」の記載ではなく、なんらかのたとえ話と考えてしまうからである。
その結果、日本人から見て、「ファンダメンタリスト」を特殊な人のように考えてしまう。
しかし、ファンダメンタリストはアメリカでは普通にいるし、また、社会的に尊敬されているファンダメンタリストもいれば、業績を上げている自然科学者のファンダメンタリストもいる。
その意味で、アメリカではファンダメンタリストの主張は社会的に大きな影響力を持っている。
ところで、ファンダメンタリストの「聖書に書かれた奇蹟は例外なく現実に起きた事実である」ということに主張に対して、科学者や日本教徒のような常識人が「これらのことは自然科学の法則に反する」と反論・批判することもある。
しかし、ファンダメンタリストはその反論・批判が来ても平然としている。
この平然さを支えている根拠が「自然科学の法則といえども、不完全帰納法に過ぎない」というものである。
例えば、「イエスが水上を歩きたもうた(つまり、徒歩で水の上に浮かびたもうた)」という福音書の記載を考える。
これが自然科学の法則に抵触することは明らかである。
しかし、このように疑問を出したところで、ファンダメンタリストは驚かない。
一般に、重力(万有引力の法則)が存在するとしても、その例外がないことまでは証明されていない。
そこで、「イエスが水上を歩きたもうたとき、一時的に重力が働かなかったと断言できない」と主張すれば、不完全帰納法を理解している科学者からそれ以上の反論を受けることがないからである。
このように科学者の反論を退けられることから、ファンダメンタリストの主張は一定の説得力を持つ。
さらに、「神(イエス)が物理法則を作った」というドグマ(ドグマは全称命題である)を加えることで、さらに積極的な主張に変換できる。
曰く、「自然法則といっても作ったのは神であるから、神がその法則を変更し、あるいは、一時的に解除することはできる。その結果として人間が水の上を歩いたとしても少しも不思議ではない」と。
なお、彼らの主張を少し細かめに主張していけば、次のようになる。
「自然科学の法則の前提となる実験結果は過去と現在の自然科学者たちが行ったことであって、個々の人々がその実験をやったわけではない。言い換えれば、他人のやった実験結果を各人が信じているに過ぎない。また、歴史上、自然科学の法則が後の実験によって破れた例はたくさんある。これらのことを考慮すれば、『自然法則を正しい』と考えることは、究極的には個々の人々が『私は自然科学者を信じます』というのと同じである。ファンダメンタリストたる私は自然科学者たちの出した結果を間違っているとまでは言わないけれども、自然科学者たちよりも絶対神と聖書を信仰します。」
日本教徒から見た場合、「これは信仰告白に過ぎないのではないか」ということになる。
だから、というべきか、これを理論的に反論することは不可能である。
自然科学によって導かれた諸法則が不完全帰納法であることは事実であり、それを超えることは現実的に不可能なのだから。
本書では、クリスチャン・サイエンスのメアリー・ベイカー・エディ女史の話が紹介されている。
本書では、エディ女史のエピソードとして次の話が紹介されている。
エディ女史のところに重病人がやってくる。
それに対して、エディ女史が一言「汝は癒されり」と宣言すると、この重病人が回復し、喜んで帰る。
だから、福音書の記載に従って、「汝の信仰、汝を癒せり!」と宣言し、それを実践している。
また、イエスが病人が治し給えたとき、医者・病院・近代医学を用いず病人を癒した。
そこで、近代科学による病院や医者を用いないでイエスのなしたままに実践することを旨としているらしい。
ところで、エディ女史の方法はてきめんであった。
そこで、クリスチャン・サイエンスはアメリカに広がっていく。
ここでも自然科学の拠って立つ不完全帰納法の限界を見事についている。
つまり、近代医学は近代科学の前提に立つ以上、不完全帰納法によらざるを得ない。
また、実験を頻繁に行うこともできない(人体実験になる以上、頻繁にやるわけにはいかない)。
よって、真面目な医者であれば、この前提・限界をよく知っている。
本書では、ここで「科学」と「宗教」の違いについてクリスチャン・サイエンスの例を引き出して説明している。
宗教的な教義は全称命題である。
それに対して、自然科学の諸法則は特殊命題であって、推論によって全称命題にしているに過ぎない。
本書では、「人は死ぬ」という命題を具体例にしている。
クリスチャン・サイエンスは「人の死」を否定する。
その根拠がキリスト教の「イエスの贖罪により人間の原罪が消えた」という教えからである。
これはドグマを根拠としているので、「聖書が絶対的に正しい」と考える以上は全称命題である。
これに対して、「現実の人の死をどう考えるのだ?」と反論をするのは科学による批判と同様意味がない。
「あの人も死んだ。この人も死んだ。(以下略)しかし、つまり、個々の人が死んだだけで、それらは特殊命題に過ぎない。」と返されて終わる。
まさに、信仰恐るべし、というべきか。
また、この不完全帰納法によって立つ近代科学はそれゆえのメリットもあるが、信仰を覆すパワー(不合理性)はない、というべきか。
以上、帰納法の限界とファンダメンタリストの主張を論理的観点から見てきた。
私は部外者だから、という点も軽視できないが、非常に勉強になった。
次回はこの節の後半について見ていく。