今日はこのシリーズの続き。
『数学嫌いな人のための数学』を読んで学んだことをメモにする。
19 第4章の第2節を読む(後編)
前回は、帰納法による証明方法とその限界、不完全帰納法による近代科学とファンダメンタリズムを比較することで、様々なものをみてきた。
今回はこの続きである。
このことは「不完全」帰納法という言葉からもわかる通りである。
そして、完全な帰納法として存在するのが、数学による帰納法、つまり、数学的帰納法である。
本書はここでコラムに移り、「和の公式」を数学的帰納法を用いて証明している。
ただ、ここでは数学的帰納法の説明をしておく。
数学的帰納法とは、「すべての自然数に対して~である」という命題に対して次の2点を証明することで、命題が全称命題として真であることを証明する手段である。
(1) n=1の場合に命題が成立することを示す
(2) n=kの場合に命題が成立する仮定した場合に、n=k+1の場合に命題が成立することを証明する
この点、(1)と(2)が成立するとどうなるか。
まず、(1)によって、n=1の場合に命題が成立する。
次に、(1)と(2)によって、k=1を代入することで、n=2の場合にも命題が成立する。
(2)の前提にある仮定の(1)が正しければ、(2)の結論も正しくなるからである。
n=2の場合に成立するので、k=2を代入することで、n=3の場合にも命題が成立する。
n=3の場合に成立するので、k=3を代入することで、n=4の場合にも命題が成立する。
以下、無限に繰り返すことで、nがすべての自然数において成立する。
数学的帰納法と他の帰納法の違いは、「論証・実証を無限に続けられるか否か」であろうか。
近代科学の帰納法においては、実験(実証)を無限回数繰り返すことは不可能である。
それに対して、数学の場合、観念的ではあるものの論証を無限回繰り返すことは可能である。
それゆえ、数学的帰納法は全称命題の証明が可能になる。
このように、数学的帰納法の命題の完全な証明を達成できる。
これに対して、不完全帰納法は正しい命題を証明できるかは分からない。
そのため、帰納法は法則の正しさの証明よりも説得の技術として利用されることがある。
そして、帰納法を頼るがために帰納法的説得の技術には当然に限界がある。
ここでは、その帰納法的説得についてみていく。
当然だが、もしもすべての項目を列挙することができれば、当該命題の成立は証明できる。
これは数学的帰納法が完全な帰納法であることからも明白である。
例えば、ユダヤ教やイスラム教の食物規定では、「食べていい食物」と「食べてはいけない食物」を正確に定義し、それらをすべて列挙している。
そのため、啓典が正しいならば、総てを列挙しているこれらの食物規定は正しいと言える。
もっとも、近代科学で見られるように、多くの場合の帰納法は総てが列挙されることはない(未来・未知の物まで列挙できないからである)。
その結果、これらの帰納法は不完全帰納法となり、それによる論証・説得も限界がある。
本書では、その例として「標本の観察に基づく一般化」(帰納法的証明・説得)がある。
例えば、樽の中のコーヒー豆があり、これらのコーヒー豆が良質か否かを知りたいと考える。
そのため、樽の中のコーヒー豆を攪拌し、その中からランダムにコーヒー豆を取り出してみたところ、取り出したコーヒー豆は全部良質であった。
では、樽の中のコーヒー豆の全部は良質であると結論を出す。
これが「標本の観察に基づく一般化」の典型例である。
そして、この過程を見ればわかる通り、この一般化には帰納法が用いられている。
標本の観察に基づく一般化における前提と結論の関係は次のようになる。
前提、母集団(全部)から抽出した標本(サンプル)の結果はAであった。
結論、母集団(全部)にあるすべての個々の結果はAである。
前提と結論は同一律ではリンクさせられない。
よって、標本の観察に基づく一般化は不完全帰納法となり、限界があることになる。
では、標本の観察に基づく一般化にはどんな限界があるか。
まず、標本の個数、サンプルサイズの大きさの問題がある。
つまり、標本の個数が多ければその証明の信頼性が上がる。
他方、標本の個数が少なければ証明の信頼が下がる。
というのも、標本の個数が低ければ、「その結果はたまたまではないか」といいうるからである。
そして、この信頼のできる一般化を行うためには不十分な場合のことを「一挙に結論へと飛躍する虚偽」と言われている。
さて、このことを説得の観点から見てみる。
確かに、この点だけを見れば、標本による観察法はとんでもないまやかしと思えるであろう。
しかし、この手法は強力な説得力を得ることがある。
そして、歴史を見ていくと、当局やマスコミはこのような説明・宣伝をして大成果を挙げた例も少なくない。
本書では、戦前日本の特高警察による共産主義者の人間像を作り上げた宣伝の例、共産主義者による「日本の労働者」の人間像を作り上げて宣伝した例が形成されている。
では、「一挙に結論へと飛躍する虚偽」を回避するためにはどうすればいいか。
まず、サンプル数の大きさが問題になることは間違いない。
ただ、もう一つ重要な視点として、「サンプルの偏り」の問題点がある。
この点、標本の観察による一般化という手法は全数調査はコストなどの条件から不可能である。
だから、母集団(全体)から標本(サンプル)を選ぶ必要があるが、選んだ結果が全体をそのまま縮小化したようになることが重要になる。
このことを「標本が全体を代表する」という。
このことを前述のコーヒー豆の例を用いて考える。
樽の中にあるコーヒー豆の品質が良質であるという命題を証明する。
そのためには、コーヒー豆が偏らないようによくかき混ぜることが重要になる。
でないと、偏って良質な豆場から抽出する可能性があるから(もちろん、逆の可能性もある)
これは、意図的に表面だけ良質の豆をばらまいておくといった悪だくみができることをも意味するが。
そして、このような悪だくみによって「偏った統計による虚偽」が出来上がる。
これも「一挙に結論へと飛躍する虚偽」の具体例である。
本書では、宗教・人種に対する偏見が具体例として取り上げられている。
このように、帰納法は説得としての技術としても用いられている。
このことはアメリカとヨーロッパでは論理は神に対する説得の技術として、中国では論理が君主に対する説得の技術であったことから考えればイメージしやすいであろう。
ここから話は権威主義に移る。
この点、サモンの『論理学』という論理学の著名な教科書がある。
この教科書では、帰納法による論証法のなかで「権威」について取り上げている。
以下、本書では「権威」による論証についてある疑問が提示されている。
つまり、「権威主義」に対していいイメージを持つ人が少ない。
これを前提とすれば、「権威による証明」もよろしくないという結論となろう。
ところが、「権威主義」に対していいイメージを持たない人でも権威によって証明された命題を信じることは少なくない。
こはいかに、と。
つまり、人々は自分の主張の正しさを説明する際に権威を用いることが少なくない。
そして、権威のあるものとしては人物・組織・書物などがある。
著者は権威を持つ者の具体例として、日本のマスコミ、「東大」、「岩波」、「朝日」を取り上げることがある。
今から見ると過去の時代の状況が把握できて興味深い。
ところで、権威とは正当性を担保するものである。
本書では、イエスの例が示されている。
つまり、「人々はイエスの山上の垂訓に驚嘆した。イエスが律法学者と異なり権威あるもののように語ったから」と。
ここにはファンダメンタリストと近代科学者の違いが見て取れるがそれはさておき。
また、権威を持って語ることができるのは預言者だけである。
だから、それ以外の人間には権威はない。
せいぜい「権威があるように振る舞えるだけ」である。
よって、律法学者も専門知識とその知識を用いることに長けているとしても、ただの人間、権威はなく「権威があるように振る舞えるだけ」に過ぎない。
そんななか、イエスは権威あるものの如く語り、多くの人々を驚かせた。
彼は預言者、または、神ではないのか、と。
この点、二ケア信条・カルケドン信条を持つキリスト教では「イエスが神である」と回答することになる。
ところが、それはイエスが十字架に架けられて250年以上経過した後のこと。
当時のユダヤの人々はそう考えてはいないから、驚くのも無理はない。
ところで、先ほど述べた通り、ユダヤの人々は権威は神にあり、権威によって語れるのは預言者であった。
これは預言者が神のラウドスピーカーであることから考えれば妥当である。
(この辺は次の読書メモで言及している)
この考えはキリスト教にも引き継がれた。
つまり、キリスト教の権威は全知全能の絶対神キリストに由来する。
そして、その権威がローマ教皇に伝承されている。
この伝承によって成立した組織がカトリック教会である。
それゆえ、ローマ教皇とカトリック教会の権威は神から由来した者であり、その秩序は権威主義となる。
そして、ローマ教皇の権威が西ヨーロッパを支配することになる。
事実、中世のカトリック教会は庶民の生活を管理し、あらゆることに関与した。
言い換えれば、カトリック教会の権威がなければ、人は産まれることも、結婚することも、死ぬこともできない状況にあったのである。
ここで本書は、「しかし」と話が続く。
中世ヨーロッパのキリスト教はある種とんでもない欠点があった。
これについては次の読書メモで述べてきたとおりである。
つまり、中世カトリック教会は聖書を信者に読ませなかった。
キリスト教はバイブルを啓典とする啓典宗教なのに、である。
これはイスラム教でクルアーンを信者に読ませること、ユダヤ教がモーセ五書を信者に読ませることを重視することを考慮すればよくわかる。
まあ、日本教ではこのような習慣がないため、ピンと来ないかもしれないが。
こうなった原因として、キリスト教が認定した聖書が確立したのが4世紀末であるところ、その聖書がギリシャ語で書いており、中世ヨーロッパの公用語たるラテン語で書かれていなかったからである。
また、ラテン語訳の聖書は5世紀初頭になされたが、そのラテン語すら読めない人が多かったからである。
また、もう一つの原因として、聖書を読むことで「カトリック教会がキリスト教の教義を離れていることが判明してしまうから」である。
さらに、「聖書にはカトリック教会に権威が与えられた伝承がないから」ということもあるかもしれない。
つまり、聖書を信者に読ませたらカトリック教会とローマ教皇の権威が吹き飛んでしまうから、というわけである。
それゆえ、カトリック教会の腐敗、これに対する、宗教改革や対抗宗教改革といったものが生まれたことは歴史が教えるとおりである。
もっとも、聖書に由来するプロテスタントの権威もまた存在する。
さらに、近代に成立した絶対君主も。
こうやってみると、「神に起因する権威」が欧米における権威の模型であり、現代に存在する権威と共通する部分がある。
本書はこのようにして本節を閉じている。
うーん。
帰納法の限界についてはなんとなくでしか知らなかったが、本書をちゃんと読むことで完璧に理解できた。
これを20年近く前に読んでいればよかった、そういう感想を抱かずにはいられない。
まあ、知っていたところで同じ失敗をするとしても。