今回はこのシリーズの続き。
『日本人のためのイスラム原論』を読んで学んだことをメモにしていく。
26 「第3章_欧米とイスラム_なぜ、かくも対立するのか_第2節を読む」(完結編)
前回までで「イスラム教と近代(資本主義・民主主義)との相性の悪さ」をみてきた。
もちろん、「近代がキリスト教を前提としていること」・「キリスト教とイスラム教の違いが大きいこと」を考えれば、当然の結果とも言いうるが。
話はここから現代に移る。
欧米列強の反撃に対して、当時のイスラム教社会は近代とイスラム教との相性の悪さに気付かなかった。
欧米列強の反撃の強さ、「まずは対処療法でなんとかする」という発想からすればやむを得ない面があるとしても。
そこで、近代化、つまり、西欧化の道を選ぶことになる。
トルコもイランもエジプトも。
この辺は、アヘン戦争・アロー戦争で完敗した中国、不平等条約を押し付けられた日本も同様である。
しかし、イスラム教社会で近代化を試みてもイスラム教がその障壁になってしまう。
また、資本主義の流入は貧富の格差を引き起こす。
このことは、第一次世界大戦前夜の近代資本主義が膨大な貧富の差を産み出した結果、ロシア革命が起きたこと、また、ソビエト連邦崩壊後の自由主義とグローバリズムの暴走が巻き起こした世界の惨状を見れば明らかである。
なお、この辺の事情は次のメモにまとめた通りである。
これを見て、敬虔なイスラム教徒はこう思うだろう。
「昔はよかった」と。
・・・さすがに、これではまとめすぎたので、丁寧に書くか。
「イスラム教社会のよさは『究極的にはカリフも物乞いも同じ人間である』ことにあったのではないか。それなのにこの不平等が促進されている現状はなんだ。この社会状況で生活していて、(宗教的)救済が得られるはずがなかろう。また、この社会でいくら成功したところで、現世での幸福すらもたらすことはないだろう」と。
この考えがイスラム教徒の間で共有され、イスラム復興運動につながることになる。
つまり、キリスト教の歴史のなかでたとえるならば、イスラム復興運動は「聖書に戻れ!」と叫んだマルティン・ルターやジャン・カルヴァンの「宗教改革」に類似するものになる。
そして、この復興運動の具体例が「イラン革命」である。
このことは、イラン革命の主導者がホメイニ師であったことにも表れている。
なお、ホメイニ師の「師」という敬称を見ると、聖職者をイメージするかもしれないが、イスラム教には僧や聖職者はいない。
では、このホメイニ師は何者かというとイスラム法学者(ウラマー)である。
ホメイニ師はしばしば「アヤトラ・ホメイニ」とも言われるが、アヤトラというのはウラマーの中の高位の学者の呼び名なのである。
さて、この「宗教改革」というべきイスラム復興運動はイスラム圏全域に広がった(もっとも、本書は約20年前である、現在がどうかはよくわからない)。
このことは、イスラム復興運動に共感する人間が多く、また、イスラム教と近代の間の大きな矛盾に気付いたということでもある。
では、この復興運動に対してアメリカとヨーロッパはどう応えたか。
アメリカとヨーロッパの態度を端的に示したのが、「イスラム・ファンダメンタリズム」という言葉である。
日本語に訳せば「イスラム原理主義」になる言葉、これが何を意味するかを知るためには、キリスト教のファンダメンタリズムについて理解しなければならない。
そこで、話はキリスト教のファンダメンタリズムに移る。
なお、キリスト教のファンダメンタリズムについては、次のメモで触れられている。
この点、「キリスト教におけるファンダメンタリズム」とは何か。
キリスト教におけるファンダメンタリズムとは、「聖書に書かれた事実は、『例外なく』現実に起きた事実であり、真理である」という考え方を指す。
だから、ファンダメンタリズムを信奉するファンダメンタリストは「聖書に書かれた事件は、『例外なく』現実で起きたことである」と考えることになる。
重要なことは「例外なく」の部分である。
「多くの部分が真実である」という程度ではファンダメンタリズムとは到底言えない。
例えば、福音書には、イエス・キリストが奇蹟を起こして病人を治した旨の記載がたくさんある。
このことから、ファンダメンタリストは「これらの治療の事実」を現実で起きた事実とみる。
また、福音書には、イエス・キリストは病人の治療の際に「汝の信仰、汝を癒せり」と仰った旨の記載がある。
このことから、ファンダメンタリストは「病を治療するためには信仰があればよく、医者も薬もいらない」と考える。
まあ、イエス・キリストは「信仰があったから癒せた」と述べているにすぎず、「信仰がなければ、癒せなかった」と述べているわけではないので、後者については論理的には「あれ?」ということになるが。
現在、このキリスト教におけるファンダメンタリストはアメリカにたくさんいる。
その中には高名な科学者でさえいる。
日本人がその点に大きな戸惑いを感じるということは上のメモで見てきたとおりである。
ただ、聖書の記述と近代科学の不整合を説明することは極めて容易である。
ファンダメンタリストではない私でも答えられる。
回答の内容を述べれば、次のとおりである。
「(自然科学法則の一例たる)万有引力の法則を作ったのは(全知全能の)神である。
我々人間が自然科学の法則に逆らうことができなくても、(全知全能の)神ならば法則を一時的に変更・停止することが可能である。
イエス・キリスト(神)が水上を歩いたときも、イエス・キリスト(神)が万有引力の法則などの法則を一時的にストップさせたと考えれば、自然科学と矛盾することはない」
この点、自然科学には帰納法の限界がある、ということは言及した。
だから、例外的な現象の存在の可能性を叩き潰すことができない。
また、自然科学は「作用している法則の内容」について説明できても、「その法則が形成された原因」について必ずしも答えられるとは限らない。
そのため、その答えられない部分を聖書で補完することは十分可能、ということになる(この内容は「『空気』の研究」のメモでも触れた)。
もちろん、その補完内容に納得するか・同意するかは別として。
なお、このファンダメンタリストの中で最も有名なものが「クリスチャン・サイエンス」という集団を作ったメアリー・ベイカー・エディという女性である。
エディ女史は19世紀後半から20世紀初頭に大活躍した人物である(なお、エディ女史はカーネギーの次の本にも登場しており、本を読んでいた私は大いに驚いた記憶がある)
エディ女史の元にはたくさんの信者が集まった。
というのも、エディ女史のところに担ぎ込まれてきた重病人に対して、エディ女史が「汝は癒されたり」と述べると、この重病人がたちまち元気となってしまったからである。
かくして、エディ女史の教団はたちまち膨れ上がった。
なお、エディ女史は近代医学のすべてを否定している。
この背後には、「イエス・キリストは医者の助けも薬の力も借りることなく病気を治している。つまり、人間の信仰には病をいやす力がある。よって、医学なんて要らない」というキリスト教のファンダメンタリズムがある。
また、クリスチャン・サイエンスの教義には「実在するのは神だけである。神は善であるからこの世に悪は存在しない。ゆえに、病気・老衰・苦痛も実在しない」というものがある。
ここまでくるとあれだが、この教義は仏教の思想に類似してくる。
というのも、釈迦は「すべて外界のものは人間の心(煩悩)が作り出したものである」・「生老病死の苦しみも煩悩が生み出したのだから、煩悩から脱却すれば苦しみもなくなる」と説いたからである。
これらのエディ女史の主張に対して、日本人やアンチ・ファンダメンタリストは「誰かの死体」をエディ女史の目前に突きつけ、「ここにある死体の存在や『死ぬ人が存在すること』をアンタはどう説明するんだ」と詰問することをイメージするかもしれない。
ただ、この初歩中の初歩の質問にサラッと答えられないようでは、ファンダメンタリスト失格である。
エディ女史であれば、穏やかに、かつ、直ちに、次のように答えるであろう。
「あなたはここにある物を『死体』と称し、『人の死』について自明の如く主張しておりますが、その存在を証明してください。というのも、バイブルでは『人の死』は仮のものと述べております。あんたが自明視している『人の死』はあんたが勝手にそう見ているだけであって、本当は死んじゃいません」と。
本書では「さて、読者の皆さん、この反問にどう答えますか?」と結んでいる。
まあ、私は実りがないので議論を切り上げ、距離を開けようとする。
日本人なら私の反応を普通の反応と考えるだろう。
もっとも、常に距離を開けられるかどうかはさておいて。
なお、このファンダメンタリズムの存在を一躍有名にした事件がかの「モンキー・トライアル」である。
つまり、ある高校の教師が進化論を子供たちに教えたところ、その教師の父母の怒りを買って解雇されたので、この解雇が不当解雇だとして裁判に訴えたのがそもそもの始まりである。
もちろん、「人間は神が作った」と述べている聖書の記述に反する進化論の内容(人間はサルから進化した)を教えたことが子供の父母の怒りを買ったわけである。
ちなみに、このモンキー・トライアルが最初に起きたのが1920年代。
なお、この手の裁判はしばしば起こり、1980年代には学校教育で進化論を教えるべきかということで大論争となった。
80年代というとベトナム戦争で敗れ、いわゆるリベラルの権威が失墜した後のお話である(この辺は上のメモ参照)。
以上がファンダメンタリズムに関する話である。
ところで、アメリカの、特に、いわゆるリベラルサイドの連中がイラン革命を見たとき、「ああ、これも一種のファンダメンタリズムなのだな」と即断した。
ちなみに、イラン革命が起きたときのアメリカの大統領は民主党(リベラル)のジミー・カーターである。
そして、カーター大統領はファンダメンタリズムに対する偏見を前提とするような言動をイラン革命に対してとっている。
そして、欧米のメディアもそれに追随した。
ところで、イスラム教や仏教と異なり、キリスト教には規範や戒律がない。
キリスト教で問題になるのは信仰だけである。
他方、イスラム教では規範があり、信仰だけではなく外面的な行為が要求されている。
だから、イスラム教ではキリスト教のようなファンダメンタリストのようなものは出てこない、ということになる。
個人的には、この評価については少々違和感がある(「ファンダメンタリズム」の範囲が狭い)が。
ただ、キリスト教のファンダメンタリストが過去の聖書に固執するように、イスラム復興運動がイスラム教とクルアーンに固執したようには見えたかもしれない。
そのため、「近代から過去に逆行しようとする集団」という扱いをしてしまうこと、それ自体は無理からぬこと、とは言えるかもしれない。
もっとも、そのような扱いをすることがイスラム教を激怒させることは間違いない。
ところで、著者(小室直樹先生)によると、イスラム教社会は「近代化とイスラム教の矛盾」と「十字軍コンプレックス」に苦しんでいる、という。
また、ヨーロッパとアメリカは苦悩しているイスラム教社会に対して手を差し伸べるどころか傷口に塩を塗り込んでいる、という。
その具体例となるのが、平成2年に起きた湾岸戦争である。
この際、アメリカはサウジアラビアに進駐したわけだが、イスラム教徒に対してこの進駐は十字軍によるエルサレム陥落以上のショックをもたらした。
というのも、エルサレムもイスラム教の聖都ではあるが、サウジアラビアにあるメッカやメディナはより重要な聖都になるからである。
ちなみに、このサウジアラビアへの進駐を決めたのがジョージ・ハーバート・ウォーカー・ブッシュ大統領(アフガン侵攻を決めたブッシュ大統領のお父さん)である。
他の例として、アフガニスタンへの侵攻を決めたジョージ・ウォーカー・ブッシュの「十字軍」失言もある。
これでは、アメリカのアフガニスタン侵攻の意図はイスラム教のせん滅にあると言われても抗弁できなかろう。
まあ、キリスト教徒の前科を見れば、そのような意図が本当にあったのではないか、とも考えられるか。
なお、本書の最後に著者(小室先生)は「キリスト教社会とイスラム教社会の対立は根深く、到底収束しえない」と述べる。
本書を見れば、非常に納得である。
以上、最後まで本書を読んだ。
次回、本書を通じて考えたことと感想を述べて、本書のメモを終了する。