今回はこのシリーズの続き。
『日本人のためのイスラム原論』を読んで学んだことをメモにしていく。
23 「第3章_欧米とイスラム_なぜ、かくも対立するのか_第2節を読む」(前編)
今回から第3章の第2節に移る。
この節が本書の最終節である。
第2節のタイトルは「苦悩する現代イスラム_なぜイスラムは近代化できないのか」。
これまでイスラム教の教義、イスラム教社会の栄光の歴史についてみてきた。
ここからは現代においてイスラム教やイスラム教社会が抱えている問題点、近代化に挑むイスラム教社会の苦悩についてみていく。
本節は学問的な話から始まる。
つまり、「日本人のイスラム教やイスラム教社会に対する理解と誤解」を題材とした帰納法の有用性とその限界に関する話から始まる。
本書で小室先生は次のように言う。
戦前の日本にとってイスラム教社会は遠い世界であったが、現在はそんなことはない。
サウジアラビアなどに行く日本人もいれば、そのような人たちが書いた旅行記や滞在記も書店でみるようになった。
しかし、だからと言って、日本人のイスラム教社会に対する理解が深まったわけではない。
何故なら、イスラム教社会に滞在し、また、イスラム教徒と付き合ったところで、帰納法の限界を超えることができないからである、と。
この点、論理学において、「帰納法」とは個々の事例から一般的な法則を推測する手段を指す。
もう少し難しく言えば、「帰納法」とは特殊命題から全称命題を導く手段を指す。
例えば、あるイスラム教徒Aの生活を見ていたら、1日に5回の礼拝を行うことがわかった。
さらに、イスラム教徒B・C・D・Eの生活を見ていても、1日に5回の礼拝を行っていた。
この「A~Eのイスラム教徒が1日に5回の礼拝をおこなう」というそれぞれの事実は個別の事例であり、「特殊命題」にあたる。
そして、これらの事実から「すべてのイスラム教徒は1日に5回の礼拝を行う」という法則を推測すること、この方法が帰納法となる。
この「すべてのイスラム教徒は1日に5回の礼拝を行う」は全称命題である。
この帰納法と呼ばれる手段は日常生活においてみんな行っている。
ただ、帰納法による証明はいわゆる「数学的帰納法」を除いて反論不可能な真実を導くことができない。
このことを示す例として、ブラック・スワンの例が挙げられる。
つまり、ヨーロッパでは白鳥(スワン)について観察した結果、全部の白鳥が白かった。
その結果、ヨーロッパでは「総てのスワンは白い」と考えられていた。
しかし、1967年、オーストラリアに黒い白鳥(ブラックスワン)が発見され、「総てのスワンは白い」は間違いであることが示された。
このように、帰納法によって推測された全称命題はたった一つの反証でつぶすことができる。
そして、その反証が未来において登場する可能性は否定できない。
このことから、帰納法は常に間違いである可能性を孕んでいることになる。
つまり、イスラム教徒やイスラム教社会における滞在記・旅行記を観察し、そこから推論を立てる場合、それは帰納法による推論になる。
そのため、これらの推論は常に間違いである可能性を孕んでいる、ということになる。
本書で、帰納法によって作られたものが誤謬の塊だった例として人類学の例が挙げられている。
つまり、人類学がヨーロッパで作られたとき、その基礎資料になったのが世界中から集められた見聞記・旅行記であった。
当然だが、探検家・宣教師・商人が作ったこれらの見聞記・旅行記は貴重な記録であるし、内容の信用性に耐えられるもの極めて多い。
でも、信用できるこれらの記録は特殊命題をに過ぎない。
よって、帰納法の限界を超えられないことになる。
このことに気付いたマリノフスキーとラドクリフ・ブラウンという2人の人類学者が帰納法による研究方法から科学的調査・研究方法に切り替えた。
その結果、人類学が飛躍的に発展することになる。
なお、この結果を見ると、帰納法が役に立たないものに見える。
しかし、自然科学において帰納法は重要な役割を演じている。
例えば、ケプラーの法則も火星の観測記録から帰納的に導き出されたものである。
このように、帰納法なくして科学の発展はあり得ない。
また、医学や生物学では帰納法がなければ何もできない。
例えば、「すべての哺乳動物は心臓を持つ」という全称命題を証明するため、過去から未来までの人類を含む地球上の全哺乳動物をひとつ残らず解剖することは不可能である。
よって、科学的にみても帰納法は極めて重要な証明手段なのである。
もっとも、帰納法には限界があること、無条件に信用できないということは忘れてはならない。
でないと、ときに大きな判断ミスをすることになる。
その具体例になっているのが、いわゆる「ブラックスワン理論」である。
まあ、こんなことを言っても、「『無条件に信じる』か『全く信じない』かのどっちなのか、はっきりしてくれ」などと言いだす人間には難しいかもしれないが。
本書では、イスラム教における誤解として次の例を挙げている。
「トルコ・サウジアラビア・エジプトなどのイスラム教社会の市場に行っても、商人は我々が異邦人と見れば値段を吹っかけてくる。
彼らには商道徳もなければ、定価販売という概念もない。
これだから、イスラム教社会はいつまでも近代化できない」
この人の記述はどこまで信用できるだろうか。
この点、「イスラム教社会の市場には定価販売と言う概念がない」という部分は事実であるから正しい。
しかし、「これだから、イスラム教社会は近代化できない」の部分は二重の意味で間違っている。
というのも、「定価販売の概念がないのはイスラム教社会に限った話ではない」し、「資本主義が勃興したヨーロッパ社会でも近代以前に定価販売の概念がなかったから」である。
つまり、イスラム教社会が資本主義になれない理由は定価販売ではなく、別のところにある。
では、イスラム教社会が近代資本主義社会になれないのはなぜか。
この点について、イスラム教社会の旅行記・滞在記から帰納法を用いて推論してもわからない。
そこで、社会科学の方法論、具体的には、マックス・ウェーバーらが築き上げた資本主義研究が重要になる。
もっとも、マックス・ウェーバーの資本主義研究については既に以下のメモでも述べているので、重複する部分については簡単に説明するにとどめる。
マックス・ウェーバーの疑問は「なぜ、これまで大資本を作り上げた場所の多くでは資本主義にならず、ヨーロッパだけで資本主義が生まれたのか」である。
この点、大資本を作り上げた場所においてイスラム帝国が含まれている。
アラビア商人は紅海・インド洋を使って交易を行い、膨大な富を築き上げていた。
例えば、アッバース朝の首都、バグダッドでは世界交通の中心にして経済は繁栄を極めていた。
また、為替・約束手形・切手などもあった。
さらに、東に向かえばシルクロードを経て中国へ、ティグリス川を下ればペルシャ湾に出て、インドや東シナ海へ行くことができた。
また、ティグリス川を遡ることでシリアに行き、地中海・紅海・エジプトに通じることもできた。
さらに言えば、アッバース朝以外にもイスラム諸国では色々な帝国が興り、経済が発展していた。
しかし、イスラム帝国から資本主義が興ることはなかった。
もちろん、中国も中世ヨーロッパからも。
つまり、古代のメソポタミア・エジプト・ギリシャ・ローマ、中国、中世ヨーロッパの大富豪、イスラム帝国が築き上げたのは「前期的資本」に過ぎず、「前期的資本」から資本主義に移行するには別の触媒が必要だったことになる。
では、資本主義に移行するための触媒は何か。
この触媒が「キリスト教の『資本主義に徹底的に反対する思想』である」と喝破したのが、かのマックス・ウェーバーである。
つまり、「金儲けを全否定する思想」がない地方には資本主義が発生しないことになる。
これは驚天動地の発想である。
しかし、この発想が「キリスト教社会に資本主義が興り、逆に、オリエント・古代エジプト・古代ギリシャ・古代ローマ・中世ヨーロッパ・イスラム帝国・中国に資本主義が興らなかった」という事実を説明することになる。
まず、前提として、キリスト教に金儲けを全否定する思想があり、逆にイスラム教にその思想がないことを確認する。
この点、キリスト教では元来、公然と資本主義に反対する経済思想を掲げていた。
「貪欲こそが人間の大罪である」と教えていた。
(以下、「エペソ人への手紙」の第5章第5節から引用、引用元のサイトは次の通り)
あなたがたは、よく知っておかねばならない。
すべて不品行な者、汚れたことをする者、貪欲な者、すなわち、偶像を礼拝する者は、キリストと神との国をつぐことができない。
(引用終了)
事実、中世のヨーロッパでは、キリスト教会は金を貸して利子を取ることを禁止していた。
まあ、堕落から利子を取る例外があまたあったことも否定できないが。
この点、イスラム教社会でも「利子を取るのを禁止しているではないか」と言うかもしれない。
事実、クルアーンにも次のような記載がある。
(以下、クルアーンの第2章第275節から引用、各文ごとに改行、強調は私の手による、引用元は次のリンクから)
利息を貪る者は、悪魔にとりつかれて倒れたものがするような起き方しか出来ないであろう。
それはかれらが「商売は利息をとるようなものだ。」と言うからである。
しかしアッラーは、商売を許し、利息(高利)を禁じておられる。
それで主から訓戒が下った後、止める者は、過去のことは許されよう。
かれのことは、アッラー(の御手の中)にある。
だが(その非を)繰り返す者は、業火の住人で、かれらは永遠にその中に住むのである。
(引用終了)
このように見ると、イスラム教もキリスト教と同様、利子を禁止しているように見える。
しかし、「規範の有無」について大きく違うイスラム教とキリスト教では、その「禁止」の意味が違うことになる。
この点、イスラム教社会にはヨーロッパにおける銀行はない。
クルアーンが利子を取ることを禁止しているからである。
しかし、投資信託銀行のようなものがある。
その投資信託銀行のようなところでは、世界中の様々な企業にオイル・マネーが貸し出されている。
この点、「規範」があるイスラム教社会において「規範」=「法」は厳格である。
しかし、その反面、合法的な例外がいくらでも存在する。
例えば、銀行が預金者から預かったお金を企業に貸して、利息を取ればそれは違法になる。
しかし、銀行が仲介役になって、出資者の金を企業にまわして、そこから投資利益を得るのは合法である。
つまり、資金提供者がリスクを負い、その報酬としてリターンを得る、いわゆる株式投資のような形は合法とされている。
結果を見れば同様であるが、そこには合法・違法の境界が明確に存在する。
このように、イスラム法は利子を禁止していても法に抵触しなければ自由である、と言える。
また、歴史を見れば、イスラム教社会を経済活動を禁止していないことは明らかである。
経済活動を禁止していたら、何故、バグダッドやイスタンブールの繁栄があるのだろうか。
さらに、イスラム教は砂漠にあるメディナ・メッカなどの都市から興った宗教である。
その都市から興った宗教が経済活動を禁止するはずがない。
この点、イスラム教は「砂漠の宗教」と言われるが、砂漠それ自体から興った宗教ではない。
もっと言えば、クルアーンではアッラーは商売上手を誇っているのである。
ならば、これ以上の言葉は必要ないだろう。
(以下、クルアーンの第2章第245節から引用、各文ごとに改行、引用元は次のリンクから)
アッラーによい貸付をする者は、誰であるのか。
かれはそれを倍加され、また数倍にもなされるではないか。
アッラーは、乏しくもまた豊かにも自由自在に与えられる。
あなたがたはかれの御許に帰されるのである。
(引用終了)
これに対して、本来のキリスト教には規範がない。
その結果、神から「貪欲はいけない」と言われたら、合法的な例外が存在しないことになる。
もちろん、中世ヨーロッパでは教会自体が堕落していたので、教会自ら利子を取ることをしていた。
それゆえ、中世ヨーロッパにおいても、メディチ家などの大富豪が出現してもそこから資本主義が興ることがなかった。
しかし、ヨーロッパで原点回帰運動たる宗教改革の嵐が吹き荒れる。
宗教改革の結果として新たに出現したプロテスタントにとって聖書は絶対である。
特に、カルヴァン派では利子を取ることは絶対に禁止していた。
カルヴァンは「どんな形であれ利子を取って救済されることはあり得ない」と徹底的に信者を締め上げた。
ところが、資本主義はこのプロテスタントから興ることになる。
「なんという矛盾」と感じることになるとしても。
では、何故、利子などの経済活動を徹底的に否定したプロテスタンティズムが資本主義の触媒になったのか。
この点については、これまでのメモと重複する部分が多くなるのでかいつまんで説明する。
つまり、予定説を信じたプロテスタントたちは「自分が本当に救済されるのかわからない」という不安に襲われる。
この不安を少しでも解消するために、熱心なプロテスタントほど徹底的に聖書にすがりついた。
というのも、予定説に従えば、「神に選ばれた人ならば、神の御心のままに動く可能性が高い」ということは言えるのだから。
もちろん、「神の御心のままに動くからといって100%救済されるわけではない」としても。
その結果、カルヴァン派の人々は聖書によって自分自身を徹底的に規律することになる。
そして、その徹底的な規律が「エトスの変換」をもたらし、中世の伝統主義を押しのけた。
この中世の伝統主義を押しのけるためのエネルギーとして機能したのが、修道院にあった「行動的禁欲」である。
行動的禁欲は「一切の欲望を排して、救済のために行動し続けること」であり、いわゆる「祈り、かつ、働け」である。
さらに、「世俗の仕事こそ神からプロテスタントに与えられた使命である」という天職(コーリング・ベルーフェ)の思想が強調された。
その結果、行動的禁欲は天職の邁進に向けられる。
かくして、聖書から「労働は救済である」という思想が導き出された。
この聖書がもたらした「労働は救済である」という思想。
そして、聖書がもたらしたもう一つの思想が「隣人愛」を基礎とする「利潤の徹底」である。
この点、キリスト教では「隣人愛」がドグマになっている。
ちなみに、商売による利潤の禁止を説く理由はこの「隣人愛」が理由になっている。
つまり、利潤を得ることは隣人の富を貪ることを意味するから。
もっとも、プロテスタンティズムでは「貪欲を動機とする利潤」のみを否定した。
というのも、キリスト教では内心の信仰が重要であり、行動や結果は重要ではないから。
そのことは、パウロの「信仰のみ!」という言葉にも表れている。
そして、プロテスタンティズムによるエトスの変換が起きた結果、プロテスタントは次のように考えて、利潤を追求することになる。
「隣人が必要としているものを提供することは『隣人愛』の実践である。
また、隣人が必要なものを提供する際に、値段を吹っかけたり、あるいは、値切ったりすることなく、『等価交換』という形で提供し、その際に適正な利潤を得ることは貪欲の罪にあたらないどころか、倫理的に見て善行になる。
その結果、「等価交換」という形で得られた利潤は隣人愛の実践の具体的な成果となる。
もちろん、この利潤は投機的な行為による利潤・高利貸が行った暴利と異なることは言うまでもない、と」
かくして利潤は正当化された。
また、得られた利潤が隣人愛の成果とみなされることから、利潤追求の徹底化・合理化がなされることになる。
このようにしてプロテスタントの中から資本主義が興ることになる。
以上がこれまで何度かみてきたマックス・ウェーバー研究の成果である。
次回は、これを踏まえつつ、イスラム教社会の近代化・資本主義の可能性についてみていく。