薫のメモ帳

私が学んだことをメモ帳がわりに

『痛快!憲法学』を読む 6

 今回は前回のこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 

5 第5章 民主主義と資本主義は双子だった

 これまでの章で大事なことを一行で書くと次のようになる。

 

第1章_憲法は慣習法であり、簡単に死ぬ

第2章_憲法は国家権力に対する命令書である

第3章_憲法と民主主義は無関係である

第4章_民主主義はキリスト教の聖書を背景に成立した

 

 そして、第5章。

 本章を一言でまとめると、「(キリスト教の)予定説は民主主義と資本主義を同時に生みだした」になる。

 

 第4章は、ジャン・カルヴァンが予定説を発見するまでの歴史的経緯と予定説の中身が書かれている。

 それに対して、第5章では予定説から民主主義と資本主義に進化していく過程が書かれている。

 

 

 

 この点、予定説とは「人間の運命は全知全能である神によって事前に決められており、人間はその通りに動く」という考え方である。

 これは突き詰めると、「人間は神によって作られた道具であり、奴隷に過ぎない」ということにもなる。

 

 では、この予定説を信じた人間たち、または、予定説に大きな影響を受けている新教徒(プロテスタントピューリタンユグノーなど)が世界や社会を見るとどうなるか。

 まず、権力者が色あせて見えてくるはずである。

(全知全能の)神に比べれば人間は神の奴隷に過ぎないところ、絶対的な権力を振るう権力者たる国王も人間であり、神の奴隷に過ぎないのだから。

 この権力者も同じ人間に過ぎない、この発想が民主主義の前提にある「平等」の概念(神の前の平等)を導くことになる。

 これが民主主義を生み出す第一歩となった。

 

 他方、昔から続いていたという理由で大事にされていた伝統主義も色あせて見える。

 伝統主義も神の奴隷たる人間が勝手に大事にしているにすぎず、神による裏付け(聖書による裏付け)があるわけでもないのだから。

 

 さらに、新教徒たちは「神の御心は分からないが、神の御心に沿うことを真剣に行うことによって自分が救われる(可能性が高まる)」と考える人たちでもある。

 となれば、色あせた世界を見て「何をやっても意味がない」と無気力になるのではなく、「神の御心に沿うよう世界を作り直す」と考える方に向く。

 その結果、神の国」を作るための革命が起こる。

 

 こうして起きた事件の一つが1579年から始まるネーデルランド(オランダ)のスペインからの独立であろう。

 当時、スペインは新大陸アメリカに広大な植民地を持っていた。

 また、その頃行われたレパントの海戦ではカトリックの盟主として海軍を率いてオスマン帝国オスマン=トルコ)の海軍を破った。

 そのため、当時のスペインは「太陽の沈まぬ国」と言われており、いわば絶頂期にあった。

 そのスペインに対して新教徒が多かったオランダはスペインに反旗を翻したのである。

 

 そして、さらに有名な事件が1642年に始まったピューリタン革命である。

 この事件(革命)でピューリタン側が勝利し、当時の国王チャールズ一世は処刑されてしまう。

 

 さて、このピューリタン革命、革新的な方向に一気に突っ走れば、アメリカ合衆国のような民主主義国家ができていたかもしれない。

 実際、イギリスをアメリカ合衆国のような民主主義国家にしようと思った一派(「水平派」)は存在した。

 しかし、伝統主義によって生きていた人間たちは「身分によって持っている権利は違う(特権)」という世界を生きており、水平派の発想は先進的過ぎた。

 そのため、水平派の主張は通らなかった。

 この水平派の思想が世界に結実するためにはアメリカ合衆国の独立やフランス革命などを待たなければならなかった。

 しかし、このとき生じた「平等」という概念と「人間ならば(身分によらず)等しく与えられる権利(人権)」という概念は発生するのである。

 

 なお、イギリスではピューリタン革命の後、処刑されたチャールズ一世の息子であるチャールズ二世が即位し、王政復古が実現するものの、再び革命が起き、革命後に即位した国王たちには「権利の章典」という縛りが課せられた。

 革命の精神は継続する一方、古来の議会や「マグナ・カルタ」によって生じた憲法立憲主義)の種もここで花が開いていくのである。

 

  

 さて。

 予定説は「平等」という発想と「革命」という手段を生んだが、同時にもう一つの思想を生んだ。

 それは「資本主義」という思想である。

 

 この点、資本主義というと資本(富)が集中すれば生まれる思想だと思われがちである。

 しかし、歴史を調べればわかるが、そうとは限らない。

 

 例えば、中国は万里の長城は作られるわ、大運河が建設されるわ、資本が集中して色々なものが作られた。

 宋の時代の経済力は世界一であった。

 商業・産業・文化、どれも繁栄を極めた。

 しかし、資本主義という発想は生まれなかった。

 

 あるいは、イスラム帝国時代のアラビア。

 当時のアラブ世界は世界一の経済力・文化力を持っていた。

 しかし、資本主義は生まれなかった。 

 

 資本主義が生まれた原因を研究したのはドイツの社会学マックス・ウェーバーであるところ、彼は資本主義の発生原因について次の趣旨のことを述べた。

「近代資本主義が発生するためには資本全否定の思想が必要である」と。

 この資本全否定の思想、これを持っていたものがキリスト教であった。

 

 

 キリスト教は聖書(バイブル)で「同胞に対する高利貸しのような振る舞い」を禁止している。

 この点、「同胞」というところがみそで、「異教徒」からならいくらでもふんだくって構わないのだが。

 ちなみに、儒教にはこのような規則(同胞に対する高利貸のような振る舞いの禁止)はない。

 

 もっとも、社会を発展させるためには利潤追求は必要である。

 だから、時代が進むにつれ、中世ヨーロッパでもメディチ家フッガー家のような富豪が現れた。

 しかし、それでも資本主義は現れなかった。

 資本主義を生じさせたのはカトリックからではなく新教からである。

 

 どういうことか。

 新教・カルヴァンにおいては、キリスト教を本来の姿に戻すという原点がある。

 だから、新教徒はバイブルに従って、富を嫌い、贅沢を嫌った。

 だから、支出が減る。

 

 他方において、キリスト教には「労働は救済である」という思想がある。

 つまり、キリスト教の発想は「祈れ。そして、働け。」である。

 これは所謂「行動的禁欲」と言われているものである。

 このような思想は仏教にはない。

 また、中世ヨーロッパの人々も生活のために必要な分は稼いでも、それ以上に働くことはなかった。

 まあ、一般人はそんなもんだろう。

 

 しかし、新教徒は「ひたすら神の御心に沿うように行動することで、自分が救済される確率を少しでも高めようとする人々」である。

 そのため、新教を信じる人たちはキリスト教の教えに従い、神が決めた休日(安息日)以外は必死に働いた。

 予定説を前提にすれば、自分の仕事も神が決定し、自分に与えてくれたものになるので、天職(コーリング)として必死に働く。

 また、予定説を前提とすれば、自分が何を成し遂げたとしても救済される保証がないのだから、ゴールはない。

 だから、救済されるか分からないという不安から逃れる観点からも、神の御心に沿おうという意思からも、無限に働く。

 

 つまり、新教の人たちは贅沢・富を嫌って支出が減ったものの、必死に働くので収入は増える。

 よって、残高は増える。

 でも、その富を贅沢には使えないので、仕事のために使う。

 とすると、さらに収入は増え、残高は増える。

 これが予定説を信じることによって金持ちになるメカニズムである。

 

 

 また、労働はキリスト教の隣人愛の実践にもつながった。

 労働によって他人のニーズを満たせば隣人愛の実践になるからである。

 ここで、隣人愛を実践したレベルを測る指標となったのが労働に対する対価、つまり、「利潤」である。

 もちろん、高利貸のように暴利を貪ることはできないが、適切な対価であればよい。

 この「適切な対価」の設定が定価販売制度として普及することとなった。

 

 この定価販売制度を用いた労働によって得られた「利潤」は救済の可能性を知るための指標になる。

 そこで、新教は自己の救済の可能性を高めるために「隣人愛の実践としての労働」をどんどん行い、利潤の追求を行った。

 ここで初めて「目的は利潤」という考えが発生し、資本主義の精神が出てくるのである。

 そして、「目的は利潤」という発想が出現したことにより、「目的に対する手段の合理化」という発想が生まれる。

 つまり、「ただやみくもに労働する」という発想から「利潤を増やすために合理的な労働をする」という発想になる。

 だから、利潤が目的になれば、方法も伝統主義によって縛られることもない。

 合理化・機械化・大型化できるならば、どんどんやることが「正しい」ということになる。

 あるいは、利潤が目的ならば、より効率化できる業種があるならば、転職・転業もありである。

 さらに、利潤が目的となると、経営も効率化する必要が出てくる。

 その結果、近代的な簿記システムや数値的・客観的に事業の成果を把握するためのシステムが出現する。

 

 

 以上、「予定説から民主主義と資本主義を生み出すまで」について本章で書かれた内容を見てきた。

 こう見ると、「キリスト教」という前提がなければ、民主主義も資本主義も生まれないのだなあ、ということが分かる。

 そして、キリスト教の前提を採用する」という共同体的自己決定がないと、民主主義も資本主義も作動しないのだなあ、と思われる(キリスト教国家であれば、これが当然の前提だからこのような共同体的自己決定は要らないが)。

 では、キリスト教が前提にない日本でそれが可能なのか。

 

 さらに言えば、資本主義と民主主義を成り立たせている背景にはキリスト教ユダヤ教イスラム教)の根幹にある「契約絶対」という思想が背景にある

 だから、これについても理解する必要がある。

 ということで、次章では「契約」に話が移る。

 

 

 というのが本章の話。

 内容をメモするだけで大いに分量を取ってしまった。

 だから、感想は別に記すことにして、今回はこの辺で。