さて。
今回は前回のこのシリーズの続き。
今回も『痛快!憲法学』を読んで、学んだことをメモにする。
6 第6章 はじめに契約ありき
これまでの章で大事なことを一行で書くと次のようになる。
第1章_憲法は慣習法であり、簡単に死ぬ
第2章_憲法は国家権力に対する命令書である
第3章_憲法と民主主義は無関係である
第4章_民主主義はキリスト教の聖書を背景に成立した
第5章_キリスト教の予定説は民主主義と資本主義を同時に生み出した
そして、第6章。
本章を一言でまとめると、「憲法はジョン・ロックの社会契約説が背景にある」になる。
まず、ジョン・ロックの紹介がなされるが、同時に「科学的手法」についての説明からなされる。
大事なことなので少し触れる。
科学的手法の大事なことは抽象化・単純化である。
抽象化・単純化という「一種の極端な見方でものを考える」・「細かいものを無視して、重要なもののみを残して考える」という作業によって科学的法則は発見された。
現実にあるものをそのままの状態で考えたのではノイズが邪魔してしまい、よほどの天才でもない限り普遍的法則は発見できない。
そこで、ある種抽象化・単純化した世界を想定し、そこから法則を見つけ出し、現実に適合するものを取捨選択するのである。
例えば、数学の世界では、点は大きさがないもの・線は太さがないものとして考える。
現実において、大きさがない点・太さのない線など存在しない。
でも、そういう仮定を置けばモデルが単純化するため、色々な法則を作ったり見つけたりしやすくなる。
仮に、大きさのある点・太さのある線を想定して同様のモデルを作ろうとしたら、その作業は単純化したモデルを作るよりもかなり大変な作業を伴うだろう。
また、物理学の世界では摩擦抵抗・空気抵抗を無視する。
現実では摩擦抵抗・空気抵抗は十分に存在するし、宇宙にだってわずかながら存在する。
しかし、そのようなことを無視することで、アイザック・ニュートンは運動法則や万有引力の法則を発見した。
さて、この「単純化・抽象化」という方法は社会科学にも応用されている。
例えば、経済学。
経済学の教科書では「完全競争」という概念があるが、こんなものは現実には存在しない。
しかし、この概念を導入することで色々な法則が発見された。
というわけで、「単純化・抽象化」という方法論の威力が分かっていただけたと思う。
この方法を人間社会に適用して思索を始めたのがジョン・ロックである。
ジョン・ロックは思索した。
「最近、世界は複雑化しているが、それ以前の状態はどうだったのだろう」
「その状態からどうやって世界は今のような状況になったのだろう」
その結果、次のような結論を得る。
① 政府ができる前、(誰からの干渉を受けないという意味で)人間は平等であり、かつ、自由であった
(この状況にある人のことを「自然人」と定義し、「自然人」たちが生活している状況を「自然状態」と定義する)
② もっとも、「自然状態」だと色々不都合があるし、また、大事もなせないので、人々は「契約」によって社会や統治機関をも作った、作られた統治機関が今の政府である
これにより、「政府の根底には『人民の契約』がある」という発想が生まれた。
この「社会は『契約』によって作られた」という考え方を「社会契約説」と言う。
また、この考え方から次の結論を出すことができる。
① 個人の生命・自由・財産は社会・政府が出現する前から個人のものとして存在していた(これを「前国家的性格」という)から、生命・自由・財産は原則不可侵である
② 政府は人々(人民)の「契約」によって成立したのだから、政府は人民の「契約」を遵守する必要がある
③ 政府が「契約」に反することを行ったら、人民は政府を改廃することができる
①から人ならば等しく持っている「人権」という概念が導き出せる
③から革命権・抵抗権が導き出される
これによって近代民主主義の柱が完成した。
予定説は絶対王権たるリヴァイアサンを退治したが、ジョン・ロックの社会契約説によってリヴァイアサン退治後の政府の理論的根拠が作られたと言ってもよい。
さて、ジョン・ロックの社会契約説。
当時、イギリスではピューリタン革命が起きたが、程なく王政復古がなされた。
そして、王政復古を正当化づける理論も現れた。
その代表的な論者は『リヴァイアサン』を書いたトマス・ホッブスである。
ホッブスとロックを比較すると、ジョン・ロックの考えははっきり見える。
二人は「自然人と自然状態から出発している点」では同じである。
ただし、自然状態に対する二人の評価の違いが異なる結論を導くことになった。
・ホッブスの場合
現実の土地を見れば分かる通り、自然状態において富は有限である
その結果、自然状態における人は富を求めて「万人の万人に対する闘争」を繰り広げる
その不都合を回避するために契約によって社会や政府を作ったが、それでも契約に従わない人民が次から次へと出てくる
ならば、政府の権限を大きくし、人民を従わせる必要がある
・ロックの場合
自然状態において、人は労働によって富を生み出していけるので、富は無限である
その結果、「万人の万人に対する闘争」が無制限に拡大することはなく、契約によって政府が作られれば「契約」は守られる
よって、政府は人民の調整機関としての力を持たせておけば十分であり、それほど強くする必要はない。
二人は自然状態の評価、特に、富は無限か有限かというところで評価が分かれた。
昔の人ならば財産と言えば「土地」であるから、富は有限であると考えるだろう。
事実、ホッブスはそのように評価した。
逆に、ロックは「救済たる労働を繰り返すことで富を生み出せるため、富は無限である」と評価した。
もちろん、この根底には新教や予定説がある。
ここが両者の大きな違いである。
さて、ジョン・ロックの社会契約説。
これが発表されたのは17世紀。
この論は当時「理想論」とされてきた。
ところが、18世紀末、この「理想論」を使って国家を作ろう、国家を作り直そうと考えた人たちがいた。
その人たちが起こした革命(戦争)がアメリカ独立戦争であり、フランス革命である。
ホッブスの「リヴァイアサン」はより現実に忠実であったが世界を変えなかった。
しかし、ロックの社会契約説は世界を変えたのである。
アメリカはジョン・ロックの思想に従って行われただけあって、その憲法にはジョン・ロックの発想が染みついている。
つまり、(政府による)人権尊重・人民のための政府・革命権などがちゃんと明記されている。
そして、この発想はそのまま戦後の日本国憲法に使われている。
あの読みにくい日本国憲法前文第一段に書かれていることは、まさに、ジョン・ロックの思想である。
一応、確認しておこう。
日本国憲法の前文の第一段は次のとおりである。
(以下、日本国憲法の前文から引用、ところどころ改行、強調は私の手による)
日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、
われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、
政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、
ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。
そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。
これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。
(引用終了)
前文の第一段の各部分を置き換えると次の通りになる。
太字の部分がロックの思想とかかわる部分である。
「代表者を通じて行動」→代表民主制
「自由のもたらす恵沢を確保」→自由主義(人権尊重)
「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのない」→平和主義
「主権が国民に存する」→国民主権
「その(国政の)権威は国民に由来」→国民主権の正統性の契機
「その(国政の)権力は国民の代表者がこれを行使」→国民主権の権力的契機
「その(国政の)福利は国民がこれを享受」→人民のための政府
「これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除」→革命権と抵抗権
さて、日本。
第一章で「日本国憲法が死んでいる」と述べたが、これは「『日本国憲法』という人民の『契約』が機能していない」という問題になる。
とすれば、「何故契約が機能していないのか」という問題になり、そのためには「契約」という概念を知る必要がある。
その「契約」の概念を説明しよう、ということで次章に続く。
今回もメモだけで結構分量がいってしまった。
ただ、こう見ると、私が中学・高校の世界史で学んだことの裏側にはこんな豊かな背景があったのだなあ、と思わされる。
今は近代革命についてみているわけだが、他の時代も同様に豊かな背景があるのだろう。
そう思うと、「中学・高校で学ぶ歴史はなんと薄っぺらいものなのか」と思わざるを得ない(もっとも、その原因を個々の教師に求めるつもりはない)。
ただ、そっちに話を飛ばすと本筋からずれるので、この話はここまで。