薫のメモ帳

私が学んだことをメモ帳がわりに

『痛快!憲法学』を読む 5

 今回は前回のこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 今回も『痛快!憲法学』を読んで、学んだことをメモにする。

  

  

4 第4章 民主主義は神様が作った

 これまでの章で大事なことを一行で書くと次のようになる。

 

第1章_憲法は慣習法であり、簡単に死ぬ

第2章_憲法は国家権力に対する命令書である

第3章_憲法と民主主義は無関係である

 

 そして、第4章。

 この章の大事なことを1行で書くと、「民主主義はキリスト教の聖書を背景に成立した」になる。

 

 

 前章では、中世ヨーロッパの封建システムが崩れて「等族国家」になるまでの過程が書かれていた。

 つまり、中世において国王は同輩中の主席に過ぎず、様々なものに縛られており、その権力は大きくはなかった。

 しかし、時代が進むにつれて、国王は商工業者という新しい金づるを得て権力が増える一方、十字軍による教会の権威失墜と貨幣経済の導入、及び、ペストによるの農奴の激減により、貴族・教会の権力・権威が失墜した。

 そこで、伝統主義を背景に国王の権力に歯止めをかけようと貴族・教会は議会を作った。

 そして、その議会で作った法によって国王の権力を縛ろうとした。

 この「法によって権力を縛る」というところに立憲主義(民主主義ではない)の源泉が見られると言ってよい。

 

 

 さて、この国王と貴族・教会の対立は時代が進むにつれて国王側が有利になり、貴族と教会は不利になった。

 そりゃ、貨幣経済がどんどん盛んになるのだから。

 もし、貴族と教会が勝つならば、国王を支えていた商工業者を徹底的に潰すくらいのことをする必要がある。

 だが、それは現実的に不可能だっただろう。

 

 その結果、生じたものが絶対王権(絶対王政)である。

 フランスでは1610年ころから160年間、議会が全く開かれなくなった。

 イギリスでは「国王至上法」を議会で可決してイギリス国教会を立ち上げ、従来の教会の修道院を解散させ、財産を没収した。

 貴族・教会の権力は国王の権力の前に無に等しくなった、と言ってもよい。

 

 この絶対王権が持つ権力(主権)、これは現在の国民国家が持つ権力(主権)とほぼ等しい。

 つまり、(内部において)絶対であり、何でもできる。

 例えば、慣習法(伝統主義)を無視して新たな法を作ることができるし、領土内の人間の生命・自由・財産を勝手に処分できる。

 中世の国王の権力が伝統主義・貴族・教会に縛られてほとんど何もできなかったことと比較すれば雲泥の差である。

 

 かくしてリヴァイアサンは完成した。

 現在の国家権力もこの主権と同等のものを持っていることを考慮すれば、現代の国家も過去の絶対王権の国家のようにリヴァイアサンになりえると言える。

 

 

 じゃあ、絶対王権はリヴァイアサンとしてどんどん進化したのか。

 ところが、絶対王権たるリヴァイアサンは「新たなる敵」によって大きな鎖をはめられることになる。

 それはキリスト教(聖書と十字架)である。

 正しく言えば、「平民(商工業者たち)が信じたキリスト教(新教)」がリヴァイアサンに大きな制約を課したのである。

 

 少し前に、「国王と教会・貴族の争いは国王が勝利した」と書いた。

 しかし、等族国家のメンバーである平民(商工業者)は貨幣経済が栄えたこと・国王と対峙しなかったことなどから、貴族や教会と異なり壊滅的なダメージを受けることはなかった。

 特に、イギリスにおいては貴族・教会と対決した国王が議会に参加した平民を重用したなどの事情があり、着実に力をつけていた。

 彼らの信仰したキリスト教、つまり、宗教改革によって生じた新教(プロテスタントユグノーピューリタン)がこのリヴァイアサンに大きな鎖をかけたのである。

 

 では、これらの教えとは具体的に何か。

 それを見るために、まず、宗教改革の時代背景についてみていく。

 

 当時、ローマ教会(カソリック)は腐敗の極みにあった。

 免罪符は売りつけるわ、(教義上禁止されている)信者に対して金貸業者のようにふるまうわ、、、。

 このローマ教会の堕落に対して抗議したのがマルティン・ルターであった。

 そして、このルターの教えを信じる人を新教徒と言うようになった。

 

 そして、ジャン・カルヴァンが登場する。

 このフランス出身の神学者は聖書を徹底的に研究し、聖書の背景にある「予定説」を見つけ出す。

 この「予定説」がリヴァイアサンの暴走を抑制し、民主主義などを生み出すことになるのである。

 

 本章によると、キリスト教に改宗して予定説を信じると、①世間のどんなことも怖くなくなり、さらに、②働き者になって、お金が稼げるようになるのだそうである。

 、、、なんか、自己啓発に使えそうである。

 

 

 では、この予定説はどんなものか。

 

 まず、キリスト教には「総ては神(造物主)が作った」・「神は全知全能である」という前提がある。

 つまり、神様が先にあり、その後に法があるという「神前法後」の世界と考える。

 この点、仏教では「法(ダルマ)を見つけることで苦しみの原因を探し出し、かつ、それを除去する。そして、それを発見した釈迦が仏である」と考える。

 だから、仏教は「法前仏後」となる。

 

 次に、キリスト教では「人間は堕落した存在である」という前提がある。

 そして、人間は生物的(物理的)に死んだあと、いったん「仮の死」という状態になるが、世界が終焉を迎えたときに人は神の前でいったん肉体が与えられ、神によって真実の死が与えられる。

 真実の死を与えられたあとは無となる。

 もっとも、例外的に一部の人間はその死を免れ、永遠の命が授けられる。

 その永遠の命が与えられた人間は神の国(楽園)で永遠に生を謳歌する。

 これがキリスト教の(堕落からの)「救済」である。

 

 この2つの点を前提として考える。

 神が「人間は全員堕落している」と判断しているのだから、神が「この人間を例外的に救済しよう」と決めなければ、その例外的な人間は救済されない。

 よって、救済すると決定するのは神である。

 さらに言えば、その基準を決めるのも神である。

 

 では、「救済の基準」はどうなっているか

 この答え、「実際のところは分からない」が正解になる

 

 神は総ての法を作ったものであり、さらに言えば、全知全能なのである。

 とすると、我々の思考・判断基準と神の思考・判断基準が同レベルであるとは考えずらい。

 つまり、人間を基準にして考えれば「教えを守った者を救済する」となるかもしれないが、神も同様に考えるのか。

 そんな基準を作ったら出し抜く人間が必ず現れるところ、それを予見しない、できない神ではないだろう。

 などなどなど。

 と考えれば、「実際のところは分からない」に落ち着きそうである。

 

 さらに言えば、神は全知全能であり、無限のリソースを持っている。

 とすれば、最後の審判のタイミングになってから、神が「よっこらしょ」と腰を上げ、裁く人間たちの中身を調べて判決を下すといったまどろっこしいことをするだろうか。

 それくらいなら、「先に人間を救済するかどうか決めておく」だろう。

 

 というわけで、総ての人間の運命は神が決めた「予定」のとおりに動く。

 これがジャン・カルヴァンの発表した予定説である。

 

 もちろん、これは聖書に出てくる文章を分析した結果出てきた結果である。

 この予定説がよく現れている具体例として「預言者の物語」がある。

 

 さて、この予定説。

 人間から見た場合、「神は人間と取引しない」・「(神から見て)人間は便器である」というような考え方。

 日本であれば、「こんな神が相手だったら、(神の圧倒的な力と自分の無力の前に)無気力になる」、または、「人間に利益を提供しない神は拒絶する」ということになるのかもしれない。

 事実、イギリスの文豪、ジョン・ミルトンは「喩え地獄に落ちようとも、このような神を尊敬することはできない」と言った。

 しかし、新教の教えはヨーロッパに広まっていく。

 

 確かに、神は全知全能の造物主である。

 だから、「救済」の具体的な基準を人間が知ることはできない。

 しかし、知ることができなくてもは想像・推測をすることはできる。

 その結果、「神が救済する人間は筋金入りのキリスト教徒だろう」と考えることはできる。

 もちろん、「だろう」であって「である」ではないが。

 だから、新教徒たちは「自分はローマ・カソリックキリスト教徒でも異教徒ではないので、救われる可能性が100%ではないとしても、他の人よりも多い」と考え、その点でホッとすることができる。

 

 さらに、「神は人間の一生をあらかじめ規定している」ことになっている。

 とすれば、「自分を新教にめぐりあわせたこと」も神の決定によることになる。

 なんか、神の見えざる導きを感じるではないか。

 

 もっとも、神の見えざる導きを感じても、自分が「救済」される明確な保証がない以上、この信仰心が薄れることはない。

 他方、神の見えざる導きを発見すれば、「これもまた神のお導きであり、さらに、『救済』に一歩近づいた」ということにあんり、ますます信仰心が増える。

 こうして、新教の人たちの信仰は指数関数的に熱心になっていったのである。

 

 もちろん、ジャン・カルヴァンが提唱したのは予定説であり、民主主義や資本主義を生み出したわけではない。

 しかし、この予定説がリヴァイアサンを制約したし、リヴァイアサンを制約したあとの世界で構成された民主主義や資本主義にはこの予定説が背景にある。

 

 

 というのが本章のお話。

 民主主義は何か、ということを知りたければ、背景としてこの辺のことは知っておかないとダメだよなあ、と思う次第。

 まあ、民主主義を権威として利用するとか、日本の実情にあわせずに適用するとかならまだしも。