今回は前回のこのシリーズの続き。
今回も『痛快!憲法学』を読んで、学んだことをメモにする。
7 第7章 「民主主義のルール」とは何か
これまでの章で大事なことを一行で書くと次のようになる。
第1章_憲法は慣習法であり、簡単に死ぬ
第2章_憲法は国家権力に対する命令書である
第3章_憲法と民主主義は無関係である
第4章_民主主義はキリスト教の聖書を背景に成立した
第5章_キリスト教の予定説は民主主義と資本主義を同時に生み出した
そして、第7章。
この章を1行にまとめれば「憲法と民主主義はキリスト教の契約遵守の教えが支えている」になる。
また、この章は「契約」について触れる関係で、キリスト教やユダヤ教、そして、聖書(バイブル)についても触れられている。
本章はイギリスの名宰相、ベンジャミン・ディズレーリについて紹介されるところから始まる。
ベンジャミン・ディズレーリはイギリスのヴィクトリア朝時代の首相であり、数々の業績を残している。
例えば、スエズ運河の買収によるフランスの東洋進出の阻止、ベルリン会議におけるロシアの南下政策の阻止など。
ただ、憲法や民主主義との関係で重要な業績は「イギリス議会政治の基本ルールを確立したこと」になる。
19世紀、馬鈴薯病によるアイルランド(当時、アイルランドはイギリスの支配下にあった)の大飢饉の結果、イギリスの穀物(小麦)の価格が急騰した。
そこで、穀物法存続の主張を背景に地主から支持を受けていた保守党のピール内閣は穀物法の廃止、つまり、穀物の輸入を解禁することにした。
つまり、穀物法を存続するという党の公約を撤回・変更しようとしたのである。
それを批判したのが同じ保守党員だったディズレーリである。
そして、ディズレーリとピールの論戦を聴いた保守党代議士たちはディズレーリの批判が妥当であると判断し、ピール内閣から離れていく。
その結果、ピール内閣は崩壊してしまう。
この論戦を通じてディズレーリの確立した議会のルールは次の3つである。
① 選挙公約は必ず守るべし
② 他人の公約を盗んではいけない
③ 議会における論争によって決する
このように見てみると、民主主義の背景にはキリスト教の「契約遵守」と「契約を構成する言葉に対するリスペクト」が見て取れる。
つまり、民主主義の精神(契約遵守)を支えているのはキリスト教ということになる。
そこで、契約遵守の精神について知るために、話はキリスト教の「聖書における契約」に移る。
また、「聖書」はユダヤ教と関係があるためユダヤ教の成立経緯まで話が遡る。
むかしむかし、イスラエル(ユダヤ)の民はエジプトのファラオによって奴隷扱いされていた。
そのとき、神が預言者モーゼに対して託宣を与え、イスラエルの民をエジプトから脱出させる。
脱出させた後、神がモーゼに与えたのが十戒を含む「モーゼ契約」である。
神との約束を簡単に述べれば、「イスラエルの民は(十戒を含む)契約を守り、神を崇める。その代わり、神はイスラエルの民に対して慈しみを与える」というもの。
この契約を見ると、ユダヤ教はキリスト教の前提としている予定説を前提としてはいないようである。
ところが、イスラエルの人たち、具体的には、古代イスラエル王国の繁栄時代を築いた国王ソロモンはこの約束を守らず、異教の神を拝むようになってしまう。
そのため、神から契約を破棄され、王国は分裂して国力は衰えてしまう。
そして、最終的にイスラエルの人たちはバビロニアに連行されることになる。
所謂「バビロン捕囚」である。
「バビロン捕囚」の憂き目にあった(元)イスラエルの民は、一連の経緯を通じて「神との契約を守ること」の重要性を悟る。
そして、このことを反省をして、その経緯を「旧約聖書」にまとめた。
また、「神との契約」を遵守するようになった。
これによって現在のユダヤ人におけるエートスの基本が作られた。
「神との契約を遵守すれば、神は再び我々に約束の地を与えるかもしれない」と信じて。
イスラエルの民が国家を建設するのは20世紀になってからになるが。
以上がユダヤ教の起こりである。
そして、キリスト教はユダヤ教をベースとし、かつ、神の子であるイエス・キリストが神との契約を改訂することによって興った宗教である。
この点、ユダヤ教は民族宗教であったが、キリスト教は民族という制約を撤廃した。
また、ユダヤ教の場合、契約を守ればユダヤ民族が繁栄するというものであったが、キリスト教の場合、契約を守れば守った個人が救済されるものとした。
さらに、ユダヤ教の戒律(律法)は細かいものであったが、キリスト教では①神を敬うこと、②神を愛し、隣人を愛すること(いわゆる「隣人愛」)、という形で条件を簡素化した。
このようにユダヤ教とキリスト教は「神との契約の遵守」を旨とする。
そのため、①契約を守ること、②契約は言葉によって示されること、③契約遵守・破棄の判定基準は明確にすること、という習慣が出来上がった。
他方で、④契約に書かれていないことは自由であるという特性もあった。
そして、ヨーロッパの人々は神と人間の契約関係を人間相互の関係にも応用した。
だから、人間関係においても契約という概念が幅をきかせ、国家・共同体・社会を作る際にも契約の概念が利用されるのである。
中世の国王と諸侯の契約や新大陸に渡った新教徒のメイフラワー協約(ピルグリム・コンパクト)も契約を応用した例と言ってもいいかもしれない。
もちろん、これはキリスト教・ユダヤ教がたまたま持っていた前提である。
この点、イスラム教はキリスト教・ユダヤ教と同じく契約教である。
つまり、預言者がムハンマドであり、神との契約を書き留めたものがコーラン(クルアーン)である。
しかし、イスラム教における神・アッラーは寛大な神であり、契約違反に対しても酌量の余地があるとされている(もちろん破った戒律のレベルにもよるが)。
そのため、他人(特に、異教徒)との契約を死ぬ気で守ろうという動機に乏しくなってしまう。
また、中国や日本にはユダヤ教・キリスト教にある契約遵守の伝統がそもそもない。
そのため、ビジネスならばさておき、生活レベルで契約を結ぶ、結んだ契約を守る、契約が順守されているかチェックするなどといった発想がない。
というわけで、民主主義・憲法を支える「契約遵守」の発想はキリスト教・ユダヤ教にしかないとも言える。
さらに、本書には書かれていないことを追加すると、中国(儒教文化圏)では言葉や論理に力がある。
それに対して日本にそれがあるかどうか。
誰かの言葉ではないが、「僧の嘘を『方便』、武士の嘘を『武略』と言う」というくらいである。
また、「和を以て貴しとなし(以下略)」という言葉もある。
「(契約を示す)言葉に重みをもたせる」という発想が日本にあるや否や。
ところで、「日本には契約を守る前提がない。事実、政治家は公約を守らないし、それに対して国民も文句を言わない」などと言ったことを言うと、「立派な政治家(志があり、行動力のある政治家)が現れないものか」という一種の待望論が出てくる。
しかし、この人格者待望論は憲法や民主主義システムから見た場合、非常に危険である。
「この待望論が何故憲法等に対して危険なのか」という問題提起を投げて、この章は終わる。
以上、立憲主義・民主主義の背景にある「契約重視」の発想について本章の記述をメモにしてきた。
私は思う。
「日本には立憲主義も民主主義も根付かせられない。それどころか日本の伝統に対して民主主義や立憲主義は逆行している可能性まである」と。
後に考察する予定だが、山本七平のいう「日本教」や「空気の支配」から見た場合、日本は「契約遵守」や「言葉の重み」というキリスト教的発想からは対極にあるように見える。
もっとも、この辺の考えたことは細かく詰めてないし、書き出すときりがなくなるので、当分(次回以降)は本書の内容について見ていく。