今回は前回のこのシリーズの続き。
今回も『痛快!憲法学』を読んで、学んだことをメモにする。
11 第11章 天皇教の原理_大日本帝国憲法を研究する
これまでの章で大事なことを一行で書くと次のようになる。
第1章_憲法は慣習法であり、簡単に死ぬ
第2章_憲法は国家権力に対する命令書である
第3章_憲法と民主主義は無関係である
第4章_民主主義はキリスト教の聖書を背景に成立した
第5章_キリスト教の予定説は民主主義と資本主義を同時に生み出した
第7章_憲法と民主主義はキリスト教の契約遵守の教えが支えている
第8章_民主主義が独裁者を生み、憲法を抹殺する
第9章_平和憲法では平和を守れない
第10章_経済不干渉の夜警国家は大恐慌とケインズによって積極国家(福祉国家)となった
これまで、「憲法とは何か」という話から、「憲法が必要となった経緯」・「憲法と民主主義による統治システムの考え方」・「憲法と民主主義と資本主義の背景にある考え方(キリスト教)」について触れ、最後に「国家と戦争・平和」と「国家と経済」について述べてきた。
これにより憲法・民主主義に関する知識は揃った。
ここから日本の憲法について話題が移る。
本書のメインテーマは「日本の憲法は何故死んでいるのか」なのだから。
そして、第11章。
この章を1行にまとめると、「日本は民主主義・資本主義を根付かせるために『天皇教』という宗教を作った」になる。
宗教を手段として考えるあたり、日本らしいな、というか。
ここまで見れば分かる通り、(立憲)民主主義も資本主義もキリスト教、しかも、予定説の影響なくして発生しなかった。
つまり、民主主義・資本主義の精神なくして、システムとしての民主主義・資本主義も実質的に機能しないことになる。
それは、世界を見てみれば分かる。
民主主義が実質的に(形式的ではない)機能している国が世界にどれだけあることか。
そこで疑問になるのが、「『日本は憲法が死んでいる』という。しかし、『そもそも日本で憲法が生きていた時期があるのか』」だろう。
つまり、「日本にデモクラシーが根付いた時期があったのか」。
これからその点を検証するために日本の近代史を見ていく。
時は幕末。
ヨーロッパの市民革命は一段落し、ヨーロッパの列強は再び世界に進出していた。
そして、その矛先はアジアに向かう。
ムガル帝国(インド)はセポイの反乱があったものの、反乱は鎮圧、ムガル帝国はイギリスの植民地になる。
また、清国(中国)はアヘン戦争とアロー戦争でイギリスに惨敗する。
日本もラクスマン・レザノフの来航、フェートン号事件など、列強の影はちらついていた。
そして、マシュー・ペリーが浦賀に来航し、交渉の結果、和親条約・修好通商要約を結ぶ。
ここで問題なのは後者の条約。
この条約には「治外法権を認めない(居住外国人の裁判権が日本にはない)」・「関税自主権が認められない」という日本を対等と認めない、日本を主権国家として認めないものであった。
もちろん、条約締結の背景には列強の世界進出の実績・列強の持つ技術力の高さがあるのだが。
そこで、明治政府に突き付けられていた喫緊の課題は、「世界において対等な国家として認められること」・「近代的軍隊を持つこと」だった。
皮肉なことを言えば、「民主主義国家・資本主義国家になること」は手段でしかなかった、ということになる。
明治政府は二つの課題を達成するために、明治維新直後に岩倉使節団を派遣する。
しかし、前者の目的、条約改訂に関する交渉はアメリカで最初から相手にされなかった。
そこで、使節団の目的を後者に集中させ、使節団は欧米で歓迎されることになる。
使節団のこの見切りはさすがと言うべきか。
さて、「資本主義(民主主義)国家になる(近代的軍隊を持つために必要な前提を整える)」と言っても、言えばすぐになれるものではない。
何故なら、資本主義を実質的に機能させるためには資本主義の精神を国民に埋め込まなければならないのだから。
そのためには、民業が重要になるのだから。
そこで、政府は官営の事業をどんどん民間に払い下げていく。
しかし、資本主義の精神を持つためには、「労働は救済である」・「目的合理性」・「神の前の平等」といった思想を国民に植え付ける必要がある。
また、キリスト教に改宗させるということはできない。
そこで、日本で類似の教えがないか、その教えを実践した人間がいないか探すことになる。
まず、「労働は救済である」・「目的合理性」の精神を持つ日本人は見つかった。
江戸時代後期の二宮金次郎である。
彼は農民だったが、「労働は救済である」という教えを実践して資産を蓄えた。
その後、小田原藩などの財政立て直しに活躍する。
財政立て直しの際に彼が広めた教えが、「労働は救済である」・「目的合理性精神」である。
後者については知られていないが、後者についてもかなり説きまわっている。
そこで、明治政府は彼の銅像を小学校に立てて彼の教えを子供たちに教え込もうとした。
ただし、これだけでは足らない。
何故なら、資本主義には「人間は平等」・「平等だから、『人間』には生命・自由・財産に関する権利(人権)がある」という大前提があるからである。
二宮金次郎の考えにはこれはない。
「所与の前提(身分制)の下で、目的合理的に、かつ、勤勉に振舞え」にしかならない。
つまり、日本の伝統主義が資本主義の実現の前に立ちはだかったのである。
そこで、明治政府は日本に「予定説」に似たものがないかと探し出し、それを見つけ出す。
それがこの本で書かれている「天皇教」である。
このドグマ(教義)は「天皇は絶対である」・「日本は神の国である(神国思想)」である。
この教義は江戸時代の学者山崎安齋とその一門が作り上げ、後に尊王思想の原点となった。
この点、尊王思想は徳川幕府最後の将軍、一橋慶喜の実家である水戸藩で大流行していた(尊王思想を打ち立てたのは水戸藩の二代藩主、例の水戸黄門である)。
また、三代将軍徳川家光の弟で会津藩主になった保科正之もこの尊王思想の影響を大いに受けていた(その子孫が孝明天皇の信任が厚く、また、戊辰戦争で江戸の身代わりとして叩かれた会津藩の藩主・松平容保である)。
このように尊王思想は江戸時代にある程度浸透していた。
もちろん、倒幕側の人間にも影響を受けていた。
明治維新は薩長土肥という関ケ原で勝者になれなかった外様大名たちが徳川に連なる武士たちを倒した革命である。
しかし、尊王論の影響は勝者となった武士たちにも大変な影響を与えた。
それが武士の特権の廃止、大名たちの領地の返上である。
資本主義を根付かせ、外国と渡り合える軍隊を作り、日本を列強と対等にする、という目的があったとはいえ、すごいことである。
これがいかにすごいかは諸外国と比較すればいい。
イギリスはまだ貴族制度が残っている。
フランスはフランス革命などで貴族階級が消えたがそのために血の代償をかなり払わされた。
しかし、日本では版籍奉還や廃藩置県は無血であったし、その後に起きた士族の反乱(佐賀の乱・萩の乱・西南戦争)でも日本全体が戦争状態になったわけでもない。
「これを使えば、平等の思想を根付かせることができる」と思った明治政府は、これを新たな宗教として活用しようとする。
古来の神道において天皇(みかど)は御門であり、神々を祭る斎主であり、神それ自体とはされていなかったのだから。
二宮金次郎の「労働は救済なり」・「目的合理性」の精神、それから、尊王思想、これらを日本全国(日本国民・帝国臣民)に普及させて日本を資本主義国家にしよう、これが明治政府、具体的には、大日本帝国憲法を起草した伊藤博文のプランであった。
この目論見が(50年のスパンにおいて)成功したかどうかは言うまでもないだろう。
日本は近代化を成し遂げ、日露戦争では列強のロシアを敵に回して戦争目的を達成し、不平等条約を改正して列強の仲間入りを果たす。
当初の目的を果たしたと言ってもよいだろう。
では、その手段であった立憲主義や民主主義は日本に根付いたか。
君主国における立憲主義国、つまり、立憲君主制が成立しているか否かのメルクマールは天皇陛下に拒否権が発動できたか、である。
日清戦争において明治戦争は戦争回避策を打診したが、政府は戦争に邁進する。
その結果、明治天皇は政府の開戦決定に対して拒否権を発動しなかった。
事実、明治から戦前までで天皇が政府に対して拒否権を含む政治的権限を行使したのは2・26事件と終戦の聖断であろう(内々にということはあったかもしれないが)。
さらに、追加するとしても、満州某重大事件における田中義一首相に対する昭和天皇の叱責くらいか。
とすれば、戦前の三代の天皇陛下は立憲君主として振舞っており、天皇陛下(君主)に対して憲法は十分機能していたことになる。
他方、民主主義についてはどうか。
明治時代、藩閥政府と議会はしょっちゅうやりあっていた。
そりゃ、当時の政府関係者は戊辰戦争で活躍していた薩長藩閥の出身なのでそれなりのプライドがある。
「議会何するものぞ」の気概があったとして不思議ではない。
出来立ての政府(君主側)と議会の関係はそんなものである。
イギリスだってそうだった。
チャールズ一世が自分に反対する、または、批判する議員を逮捕するべく、議会の議場に軍隊を入れたことによってピューリタン革命が始まった。
つまり、議会側が国王に対して妥協しなかったので、イギリスに議会政治が根付いたのだから。
では、日本ではどうか。
ここで、大正政変における尾崎咢堂の演説を見てみよう。
また、長州閥に属する一人であった。
この長州閥は、その直前に、軍部大臣現役武官制を利用して西園寺内閣を倒閣していた。
この桂太郎に対して噛みついたのが帝国議会であり、尾崎咢堂の弾劾演説である。
尾崎咢堂の断崖演説に対して議場は拍手喝采、議場外では倒閣運動が起こり、結局、第三次桂内閣は約60日で倒閣することになる。
そして、この5年後、平民宰相である原敬が総理大臣になり、本格的な政党内閣が出来上がるのである(政党内閣自体は明治時代に隈板内閣ができている、だが、この内閣は長続きしなかった)。
日本における議会優位の原則は大正時代にこうやってできてきたと言ってもよい。
こう見れば、「日本に憲法や民主主義が全く出現しなかった」とみるのは妥当でないだろう。
もちろん、欠点はあった。
例えば、大日本帝国憲法が天皇陛下の神々に対する誓約という形式をとったこと。
これがために、「人民によって権力を縛る」という立憲主義の核心が浸透しなかったこと。
また、宗教的誓約という形式をとったがために、天皇陛下自身が憲法に縛られてしまい、時局に応じた改正できなかったこと。
もっとも、数十年スパンで見れば仕方がないのかな、という気がする。
さて、明治時代・大正時代に根付きかけた憲法、今では死んでいることになる。
そこで、次の章では何が憲法を殺したのか、を見ていく。
今回のブログもメモ書きだけで4000字を超えてしまった。
よって、私の思ったことを書くのは次回以降に回し、本書の内容をみていく。