今回は前回のこのシリーズの続き。
今回も『痛快!憲法学』を読んで、学んだことをメモにする。
13 第13章 憲法はよみがえるか
これまでの章で大事なことを一行で書くと次のようになる。
第1章_憲法は慣習法であり、簡単に死ぬ
第2章_憲法は国家権力に対する命令書である
第3章_憲法と民主主義は無関係である
第4章_民主主義はキリスト教の聖書を背景に成立した
第5章_キリスト教の予定説は民主主義と資本主義を同時に生み出した
第7章_憲法と民主主義はキリスト教の契約遵守の教えが支えている
第8章_民主主義が独裁者を生み、憲法を抹殺する
第9章_平和憲法では平和を守れない
第10章_経済不干渉の夜警国家は大恐慌とケインズによって積極国家(福祉国家)となった
第11章_日本は民主主義・資本主義を根付かせるために「天皇教」という宗教を作った
第12章_日本の『空気』支配が憲法を殺した
そして、第13章、最終章。
この章は、憲法の機能不全によって生じた弊害とその原因について述べられている。
この章を一行でまとめれば、「日本のリヴァイアサンを操る官僚の弊害、戦後改革がもたらした自由と平等に関する誤解、天皇教による権威の崩壊によって日本は沈没する」になる。
ちょっと長いかな。
本章は、現代日本においてリヴァイアサンを操る官僚についての話から始まる。
国家権力は絶対王政の時代と同等・同質の絶対権力である。
そして、この権力に歯止めをかけるために用意した道具が憲法である。
よって、この憲法が死ねばリヴァイアサンは自由気ままに国民の生命・自由・財産を蹂躙できることになる。
戦前の日本でリヴァイアサンを操ったのは軍部である(この軍部を世論が支えたことは第12章で述べた通り)。
そして、戦後の日本でリヴァイアサンを操ったのは(行政)官僚である。
まあ、戦前の軍部と言っても実際のところ軍部の官僚であるから戦前も戦後も大差ないのだが。
この点、憲法によってリヴァイアサンに鎖をかける方法は次のとおりである。
まず、国民の代表者で構成される議会が「リヴァイアサンのしてよいこと」を法律にまとめ、リヴァイアサン(行政)に法律の通りに忠実に実行させ、不都合があれば法律を修正する。
裁判所が、具体的に行ったリヴァイアサンの行為に対して、法律に基づいて事後的に監視・是正する。
もっとも、第12章や現実を見ればわかる通り、日本には議員立法がほとんどない。
その結果、行政官僚が法律の制定を代行することになる。
そして、法律で「仔細は政令等に委任する」などと行政の裁量を大きく認めるようにしてしまえば、裁判所も行政の処分に容易に介入できない。
その結果、裁判所も行政に口が出せなくなってしまった。
このようにして、行政官僚に対するコントロールが効かなくなってしまったのである。
もちろん、第8章で述べた通り憲法が殺されたからと言って必ずしも国民が不幸になるとは限らない。
日本の高度経済成長を見ればそれは明らかである。
しかし、平成不況のトリガーを引いた「総量規制」を見る限り、平成の官僚たちが近代(資本主義)の精神を欠片も知らなかったことは明らかなようである。
以上、「日本は官僚がリヴァイアサンを操っている、それも無能な官僚に」ということで、話は官僚について移る。
(なお、官僚に対する評価については、本書と私とで評価が異なる、これは次回以降に回す)
ここでマックス・ウェーバーの官僚制の研究が紹介される。
その結果、「近代立憲主義において(行政)官僚は依法官僚、『法律マシーン』でなければならない」という日本人の直感とは真逆の結論が出る。
もっとも、「官僚をどうにかしよう」と言ってもそれは簡単ではない。
それは中国の官僚制を見れば明らかである。
そこで、中国の官僚制の歴史をみていく。
中国は領土が広大だから、官僚の存在は不可欠である。
もっとも、官僚をそのままにしておけばその弊害が生じる。
そこで、中国では官僚グループに対抗できる勢力を用意していた。
まず、官僚が出来立ての頃は貴族たちの勢力。
そして、10世紀ごろの宋の時代に貴族が消えた後は宦官たちの勢力。
もちろん、これだけでは官僚の害悪は避けられない。
そこで、御史台という罪に問われたら「推定有罪」のシステムを用意した。
この点、「近代において国家権力はリヴァイアサンである」と述べた。
ならば、行政官僚、しかも、高級官僚はこのリヴァイアサンをも食い殺す怪獣(寄生虫)である。
だから、中国ではこの官僚を制御するために貴族や宦官などの対抗勢力を用意し、さらには、御史台という官僚にとって恐怖のシステムを作った。
それでも、官僚の毒は防げずに王朝の交代が起き、王朝の交代によって官僚も入れ替わるわけだが。
これを見れば、日本の(メディアなどが有する)官僚に対する信頼など、中国の皇帝が見れば鼻で笑うことだろう。
ただ、現代日本のように複雑なシステムになれば、官僚の毒が大きいからと言っても、官僚システムをやめることもできない。
そこで、政治家・議員によって官僚をコントロールするしかなくなる。
もっとも、近代民主主義国家であれば政治家・議員の質は国民次第である。
そして、その国民が憲法や民主主義を殺してしまえばどうしようもない。
だから、「日本は終わった」と筆者(小室先生)は述べて、日本人が有している「自由」と「平等」に対する誤解について話が進んでいく。
小室先生は言う。
アメリカ人はデモクラシーや資本主義を自明のこととして思っているので、デモクラシー・資本主義のことを詳しく知らない。
例えば、資本主義や官僚制の研究をしたマックス・ウェーバーや資本主義の矛盾に気付いて共産主義を考えついたマルクスはドイツ人だし、アメリカの民主主義について考察したトックヴィルはフランス人の貴族である。
まあ、それはアメリカが新教徒たちによって作られた宗教国家であることを考慮すればしょうがないことではあるが。
また、民主主義・資本主義を確立するための労力に対して極めて楽観的である。
もちろん、アメリカ自身、民主主義や憲法を定着させるために多大な労力を支払っているが。
明治時代、日本は民主主義や憲法を成り立たせるために不可欠な前提を、具体的には、天皇教を作った。
確かに、第11章で見た通りこの天皇教は立憲主義・民主主義から見て完全ではなかったし、昭和の初期において(世論に支えられた)軍部に悪用されることになるが。
それがために、戦後日本の改革でアメリカはこの点を問題視し、天皇教システムを崩壊させた。
もっとも、その結果、憲法と民主主義が支えてくれた権威まで崩壊し、自由・平等に関する誤解が生じると共に、権威の崩壊によってアノミーに陥った。
例えば、立憲民主主義にとって「平等」とは「機会の平等」であった。
もちろん、「この機会の平等だけでいいのか」という問題はある。
しかし、この原則を取っ払ってしまえば、「平等」について空転してしまう。
その結果、「結果の平等」や「均質化」が幅を利かせることになる。
まあ、この背景には日本人の古来から持っている思想も大いに影響しているだろうが。
また、「自由」や「権利」についても誤解されてしまう。
自由権を堅苦しい言葉で言い換えれば、「個人の国家に対する不作為請求権」である。
つまり、生命・自由・財産は国家権力ができる前から個人が所有している。
「その生命・自由・財産に対して国家権力は手を出すな」というのが権利(自由権)の基本である。
国家に対して積極的な作為を求めるものではない。
資本主義がもたらす不公正の是正のため、憲法は社会権(生存権以下、25条)を規定したが、これは例外である。
平等は「機会の平等」が原則、「結果の平等」は例外。
自由は「不作為請求(手を出すな)」が原則、「作為請求(何かよこせ)」は例外。
この原則と例外を規定していたのが天皇教(欧米ならキリスト教)であり、「権威」であった。
しかし、天皇教を潰したことで、権威が崩壊し、自由と平等について混乱が生じ、アノミーが生じてしまった。
以上が本章で書かれた内容である。
ちなみに、「憲法を立て直すために必要な処方箋」は書かれていない。
ただ、「現実を直視せよ」と言うだけである。
この辺、例の敗因21か条の「実数と員数」に似たようなものを感じないではない。
次回は、本章の記載に対して私が思ったことを書いていきたい。
単に、内容をまとめるだけではもったいないからである。