薫のメモ帳

私が学んだことをメモ帳がわりに

『経済学をめぐる巨匠たち』を読む 7

 今日はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

『経済学をめぐる巨匠たち』を読んで、経済学に関して学んだことをメモにする。

 

 

9 「第7章_定説を覆した資本主義発生のメカニズム」を読む

 今回の主役は資本主義の精神を発見したマックス・ウェーバーである。

 そして、見るべきテーマは「資本主義の精神」「官僚制」の2点である。

 この点については、『痛快!憲法学』で見た部分もあるが、もう少し突き詰めてみる。

 

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 まず、「資本主義の精神」について「日本は資本主義なのか」という問いに照らして考えてみる。

 なお、本書が書かれたのは2004年、リーマン・ショックの前の段階であり、現在とは隔絶の感がある。

 事実認定に関して違う感じもしないではないが、この本の事実を前提に読み進める。

 

 本書では、日本の生産力が高く、また、金(資本)がたくさんあるが、それが使いこなせてないため困っているという点から話がスタートする。

 つまり、金は貯めているが、金を使わないため景気が動かないのだ、と。

 この点、日本の金融資産は今でも増加傾向にあることを考慮すれば、「金があるのに、金を持っている連中が金を使わないから景気が良くならない」の部分は現在でもあたっているかもしれない。

 

 

 ここから話は「日本は資本主義なのか」という問いに切り込む。

 もちろん、形式主義・員数主義によれば、「日本は資本主義と名乗っている。よって、資本主義である」で終わるわけだが、このように考えないことは言うまでもない。

 さらに、一般論として「資本主義の条件は何か」ということを考える。

 法的三段論法で言う「規範定立」の部分である。

 

 マックス・ウェーバーはいう。

 この点、資本主義は技術の発展・商業の発達・資本の蓄積といった客観的条件を満たせば、自然と発生するように考えられていた。

 しかし、中国・イスラム帝国メディチ家などの歴史を見る限り、3つの客観的条件を満たした状況はヨーロッパ以外にも存在するにもかかわらず、それらの国は資本主義になっていない以上、これらの客観的条件だけで資本主義が成立すると考えるのはおかしい。

 よって、3つの客観的条件だけでは資本主義は成立せず、追加の要件が必要である。

 その要件が資本主義の精神である、と。

 

 そして、資本主義の精神は次の3つを指す。

 

① 労働を目的化して尊重する精神

 利潤目的ではなくて救済目的で労働し、過去の伝統にこだわらず(伝統主義を否定し)、行動的禁欲に基づきひたすら働くこと

② 目的合理性精神

 労働による効果(=目的)を最大化するために、伝統主義に縛られずに、利潤を計算可能・再現可能な形で最大化すること

③ 利子・利潤を宗教的・倫理的に正当化する精神

 一般に、宗教は同胞から利子を採ることを禁じる。

 また、人は利潤の獲得にうしろめたさを感じる。

 とすれば、利子・利潤の正当化はこの後ろめたさを払しょくできるだけの理論と実践、と言ったところか。

 

 そして、マックス・ウェーバーはこの精神をプロテスタント、特に、ジャン・カルバンの教えにその淵源を見る。

 つまり、「労働は隣人愛の実践である」として労働を宗教的行為とすることで、利潤目的の労働から救済目的の労働に変えた。

 また、「利潤は隣人愛の対価であり、宗教的に善きものである」という評価を加えることで、労働による利潤・利子を正当化した。

 そして、「利潤が隣人愛による実践である以上、隣人愛の実践の効果を最大化する必要がある」と考えることで、目的合理性の精神が生まれた。

 

 つまり、マックス・ウェーバーは宗教の合理化・脱魔術化・脱呪術化こそ資本主義の精神に必要であると主張したのである。

 この点、仏教やカトリック教会が呪術・魔術の開発に精を出していたこととは対照的である。

 また、中国では政治は儒教で回っていたが、庶民は道教を信仰しており、儒教道教の影響を受けてしまったがために、行動的禁欲のような宗教の合理化は果たせなかった。

 

 

 以上の規範を日本にあてはめてみる。

 技術・資本・商業については満たしていると言ってよかろう。

 しかし、③利子・利潤を宗教的・倫理的に正当化する精神はないと言ってよい。

 武士道の影響を考慮すれば、日本に利子・利潤を正当化する精神を見出すことは難しいと言ってよい。

 ゼロ金利政策に反対しない背景もここにあるのだろう。

 

 次に、定義から見てみれば、②目的合理性精神もないと言ってよい。

 つまり、「目的合理性精神」とは適法かつ計算可能(再現可能)な形で利潤の最大化を図ることをいう。

 一発勝負で運を天に任せて利益の最大化を狙うこと、伝統主義に縛られることがこの精神を満たさないことも明らかである。

 本書では具体例として「銀行の不良債権処理」・「企業の多角経営」が挙げられている。

 もっとも、私は目的合理性精神は日本教に真っ向から対立するのではないかと考えている。

 そう考えると、「ない」のはしょうがないのかもしれない。

 

 最後に、①労働を目的化して尊重する精神についてはあるかもしれない。

 ただ、精神と行動が導いていないように考えられる。

 また、形式的過ぎるというべきか。

「働けば救われる、働きの内容は問わない」では少しまずかろう。

 

 以上の3要素を考慮すれば、「日本に資本主義の精神はなく、日本は資本主義ではない」という結論になる。

 もちろん、地図上では日本は資本主義の国に分類されているが、それは日本が「仏教徒」の国になっていることと同じである。

 

 

 ここで、話はもう一つのテーマである「官僚制」に移る。

 マックス・ウェーバーは官僚制の研究もしているが、日本のありようを見るうえでこの研究は有益だからである。

 

 近代日本の官僚制はどの国のモデルを参考にしたか。

 それは中国である。

 ただ、近代以前の日本は纏足・カニバリズム・宦官と同様、科挙を中国から導入しなかったのだが。

 以下、官僚の採用システムたる「科挙」についての話が続く。

 なお、「日本の科挙」というのは「受験」という名前で呼ばれているので、ピンとこない方は適宜読み替えてほしい。

 

 この科挙というのは、「ペーパーテストで官僚を募集する」という制度である。

 この点、奈良時代の日本は科挙を取り入れたが、平安時代に廃止した。

 また、朱子学が全盛となった江戸時代でも科挙は取り入れなかった。

 ただ、明治時代、失業した武士たちの意識を教育に向けさせるためこの制度が用いられた。

 

 この科挙という制度、教育とテストによって特権階級を作ることになる。

 そして、日本に科挙が導入された結果、教育とテスト、つまり、学校歴により階級ができることになった。

 しかし、どの制度にも欠陥があるように科挙にも欠点がある。

 その科挙の欠点が日本を苦しめることになる。

 

 つまり、中国で科挙の制度が生まれたのは隋の時代、600年頃。

 科挙が完成したのは科挙に反対する貴族が滅び去った宋の時代、900年頃。

 廃止されたのは清の末期、1905年。

 長い時代続いていた、ということはそこそこ長い間持っていた、ということもある。

 これと引き換え、日本で「科挙」を初めて200年も経たないうちに、「科挙の弊害」が現れている。

 

 

 ちなみに、科挙」という制度は身分を問わず受けることができ、「公平」である。

 また、テストによる採点は客観的だから「公正」でもある

(以前、大学の性別などによる差別的採点が問題になって世論が沸騰したが、これはテストの「公平」・「公正」という聖域に触れたからと考えている)。

 この点だけ見れば、前近代の庶民から見れば夢のような制度だろう。

 もちろん、科挙の背景には「貴族がいなくなった宋において役人・官僚を新たに求めなければならなかった」という事情があったにせよ。

 この制度は宋の時代に一応完成する。

 そして、一説に方孝孺から「燕賊簒位」と突き付けられたといわれている明の永楽帝によって科挙の制度は完璧となる。

 だが、この完璧となった科挙により科挙の弊害が現れる。

 つまり、この偉大な明の皇帝である永楽帝は、科挙の教科書を作ってしまったのである。

 その結果、科挙に対する過剰適応が発生し、知性と志ではなく技術を学んだ官僚が大量生産され、「宦官にも劣る官僚」が生まれることになる。

 

 実は、私自身、これに準じたことを感じたことがある。

 そのことはブログのメモを残した。

 まあ、いわゆる「受験戦争の弊害」である。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 

 さて、科挙制度の弊害は何か。

 まずは、教育による階級制度・階級意識の作成である。

 明治政府は華族による階級制度を作ることには失敗したが、学歴による階級制度を作り、また、学歴による階級意識を埋め込むことに成功するのである。

 また、受験に過剰適応して教養や志を持たない官僚を増やしてしまった。

 本書によると、石原慎太郎は「日本の高級官僚は宦官のようになってしまった」と語ったが、著者に言わせると「日本の高級官僚は宦官に劣る」のだそうだ。

  

 もっとも、我々が忘れてならないことは、よほど時代を巻き戻さない限り官僚制度をやめることはできないということである。

 マックス・ウェーバーも指摘したが、巨大帝国において官僚制は不可欠である。

 そして、資本主義において官僚は「依法官僚」でなければならない、法律を熟知し、かつ、法律によって動くマシーンのようでなければならないということになる。

 間違っても、過去の中国や以前の絶対王政国家のような「家産官僚」では意味がないということになる。

 ちなみに、「家産官僚」というのは「国家の物はオレ(官僚)の物」と考える官僚のことで賄賂と給料の区別がつかない連中のことを指す。

 科挙を完成させた中国もこの家産官僚たちが帝国を腐敗させ、王朝の交代に寄与していったと言ってよい。

 

 このように見れば、マックス・ウェーバーの研究成果を見ることで、日本のすべきことが見えてくる。

 この意味で、マックスウェーバーは偉大な政治学者・社会学者・経済学者であると言えよう。

 

 

 以上が本章のお話。

 今回の話は『痛快!憲法学』で学んだことと重複することが多かったが、メモにまとめることで理解がさらに進んだ、というか。