薫のメモ帳

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『危機の構造』を読む 8

 今回はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

『危機の構造_日本社会崩壊のモデル』を読んで学んだことをメモにしていく。

 

 

13 第4章「『経済』と『経済学』」を読む_後編

 前回は、日本の経済学の栄光と没落の物語・経済学や科学の本質・資本主義の本質についてみてきた。

 今回は、資本主義の本質を日本社会にあてはめていくところから話が始まる。

 

 世情を眺めれば、あるいは、日本の「機能体は共同体化する」という性質を見ればわかる通り、日本の企業は共同体と化している。

 そのため、労働市場は出稼ぎ労働において部分的に成立したり、大学生が就職活動をする際に一時的に成立するのみである。

 そのため、労働市場は一般には成立することはなく、また、労働者は共同体への加入という形で企業に加入することとなる。

 これでは、資本主義の前提たる「労働と労働者の分離」は成立するはずもない。

 なお、企業が共同体の性質を強く持っている点については、給与システムやら年功序列やらを見れば明らかである。

 

 この点、資本主義としての性質を最も強く持つアメリカでさえ、古典的な形での労働市場があるわけではない。

 しかし、日本以外の資本主義の国では、労働市場それ自体は存在する。

 その結果、自分の労働価値を高めるといった手段や自分の労働力を高く買う相手を求めるといった手段を積極的に行うことができる。

 また、職種ごと、つまり、労働の性質に応じた労働組合の成立も可能になる。

 

 この点についても、日本を見ると事情が異なる。

 労働市場がなく、また、企業が共同体化しているため、労働者も企業共同体の一員としての振る舞いが優先してしまう。

 これでは、労働組合が企業の下部組織になってしまってもおかしくない。

 だからこそ、労働組合で労働者の出身企業がものをいうといった事情や春闘といった現象が生じているのだろう。

 また、労働者が企業共同体の一員として振る舞ってしまうなら職域ごとの労働組合など作れるはずもない。

 

 ここまで労働者側の事情を見てきたが、株主・資本家側の事情を見ても、共同体的な振る舞いがあちこちに見ることができる。

 その結果、労働者と労働の分離ができないように、生産者と生産手段の分離も行われていないことになる。

 

 この点は、本書で取り上げられた社長解雇の事例における日本人の対応を見ればわかる。

 確かに、企業が共同体の倫理の支配する社会であれば、日本人の反応は極めて妥当である。

 しかし、資本主義の立場に立って考えれば、資本家は解雇後に起きるかもしれない訴訟や補償に対応すれば十分である。

 だから、社長もさっさと弁護士に相談して有利な補償の確保に向かうのである。

 この「資本は完全に資本家のもの、煮て食おうが焼いて食おうが原則として自由」これが資本主義ともいえる(もちろん、その一方で「労働は完全に労働者のもの」というものもあるがこの点は省略)。

 そして、この原則は例外こそあっても資本主義を貫いているのである。

 このことは次に確認する日本の会社法の規定を見ても明らかである。

 

 本書には記載がないが、現在の日本の会社法関係の規定について確認する。

 まず、社長、つまり、取締役等を任命するのは株主総会である

 具体的な条文は次の通りである(カッコの中は適宜省いた)。

 

会社法第329条 

 役員(取締役、以下略)及び会計監査人は、株主総会の決議によって選任する。

 

 そして、取締役等の役員と会社の関係は委任契約であり(会社法330条・民法644条)であり、雇用者と労働者の関係ではない。

 いうなれば、依頼人と弁護士の関係みたいなものである。

 また、会社法の条文を見ると、株主総会決議で役員をいつでも解任できるとある。

 

会社法第339条第1項

 役員及び会計監査人は、いつでも、株主総会の決議によって解任することができる。

 

 つまり、社長こと役員が業績を上げまくったが、その成果を横取りするためにその役員を解任して会社から追放するといった横暴なことも適法なわけである。

 もっとも、このようなことをされた場合、解任された役員は損害を被るのが通常であるから、次の条文によって被った損害の賠償を請求することができる。

 

会社法第339条第2項

 前項の規定により解任された者は、その解任について正当な理由がある場合を除き、株式会社に対し、解任によって生じた損害の賠償を請求することができる。

 

 無茶苦茶な言い方をすれば、損害を補填さえすれば、資本家たる株主はいつでも社長の首を飛ばせるわけである。

 この点、下手なことをやれば、会社自体が吹っ飛んで資本家も損害を被るから、横暴なことはしないという推測はできる。

 もっとも、その下手なことをすること自体を法律が禁止しているわけではない。

 この背後にあるのが「資本は完全に資本家のもの、煮て食おうが焼いて食おうが原則として自由」という原則である。

 今回示した法律の条文は最近のものだが、この規定は会社法成立前の商法にも存在した。

 

 ところで、本書では日本固有のケースが紹介されている。

 ある出版社の労働組合がストを起こし、社長の経営方針の改善を要求した。

 もっとも、従前の社長の経営方針によって会社が経営不振に陥ったとか、賃金不払いがあったというわけではなく、事業は順調に拡大しており、労働者の給与もかなりよかった。

 その後、組合の責任追及が激しくなり、組合は「株主の経営責任」を追及し始めた、という。

 この「株主の経営責任」というのも「資本は完全に資本家のもの、煮て食おうが焼いて食おうが原則として自由」という考えから見れば異質であることが分かる。

 もちろん、経営によって公害や犯罪でもやれば別ではあるが、本件でそのような事情はない。

 また、仮に、公害や犯罪があったとしても、責任追及をするのは司法機関、準司法機関たる検察と警察、取引相手や被害者であって、労働組合ではないとも言いうる。

 

 このように、日本の資本主義は欧米が想定している資本主義とは異質なものである。

 ならば、日本社会で作動する法則が経済学が想定した法則と異なっていてもおかしくない。

 さらに、欧米においても現代社会は資本主義社会のモデルとはかなり異なる状態になっている。

 とすれば、経済学の理論は日本においては二重の意味で限界が生じていてもおかしくないことになる。

 

 

 以下、経済学の理論の限界を見るために、経済学が想定している資本主義社会についてみてみる。

 理念型の資本主義社会とはアダム・スミスの主張した「各人が自分の効用・利潤を最大化しようと行動すれば、結果的に、社会全体の効用・利潤も最大化される」という世界である。

 もちろん、アダム・スミスの主張の段階では科学的命題ではない。

 しかし、その後の経済を研究する人たちが「完全競争状態がパレート最適をもたらす」といったことを数式やモデルを使って証明したため、アダム・スミスの主張が現実性を持ち出した。

 そして、経済学はさらに研究が重ねられ、どんどん精密化していった。

 

 この点、このアダム・スミスの主張から自由放任(レッセ・フェール)が導かれる。

 しかし、レッセ・フェールは「『市場』が個人の行為を最大多数の最大幸福に変換する制御装置として常に機能している」から成立することである。

 仮に、市場がそのように機能しなければ、あるいは、なんらかの事情で機能しなくなれば話が変わる。

 事実、大恐慌において市場はこの機能を果たさず、経済システムの回復にはケインズの主張した政府による公共投資(公共事業)を必要とした。

 このことから、市場が最大多数最大幸福変換機能装置として常に機能する保証はない。

 また、大恐慌のときは政府の公共投資で経済システムが回復したが、別の経済危機において公共投資が経済システムを回復させられない事態もありうる。

 

 そして、もう一つ。

 大恐慌以前の19世紀の資本主義の時代は、経済システムに対応した政治システムがあった点にも注意しなければならない。

 経済と同様、政治においても「各人が各人の利益を追求すれば、社会全体の利益も同時に達成される」と考えられていたのである。

 この主張の特徴を一言でいえば、ベンサム流の楽観的な予定調和説になる。

 そのため、経済においても「政府は市場に介入するな」であるのと同様に、政治・社会においても「政府は社会に介入するな」となっていたのである。

 言い換えれば、19世紀の近代社会は経済においても政治においても、市場と社会が自動制御システムとなっており、人為的な介入をしなければうまくいくと考えられていたわけである。

 

 もっとも、第一次大戦後の社会情勢と大恐慌を経て、そんな楽観的なものはことごとく吹っ飛んだ。

 まず、大恐慌がレッセ・フェールを吹き飛ばし、公共投資・公共事業といった政府による経済政策を必要とするようになった。

 他方、生産力の機械化と大量化・社会分業の細分化などにより、社会に生じた利害対立は細分化・大規模化し、政府の介入なしに解決することができなくなった。

 かくして、市民革命によって極めて弱められていた政府の権力は肥大化することになる。

 いわゆる行政国家現象の出現である。

 

 かくして、近代社会と異なり、現代社会においては政治と経済が相互に関連するようになった。

 政治問題が経済問題となり、逆に、経済問題が政治問題になる。

 つまり、日本の経済危機は日本の政治的貧困がもたらしたということになり、かつ、日本のエコノミック・アニマルはその点を理解していなかったがために、経済学は予測が外れ、一気に凋落したことになる。

 

 もちろん、エコノミック・アニマルの行動様式は戦前のミリタリー・アニマルと同様であるから、彼らの無理解を批判しても始まらないし、彼らが反省してどうにかなる問題ではない。

 やるべきことは社会科学的実践、政治と経済の分析である。

 

 

 この点、現代社会では政治と経済が相互に関連するということを述べた。

 また、政府の権力が肥大化したということも述べた。

 そこで、統治権力(政府)による実効性のある社会制御」を可能にするための前提について考えてみる。

  

 この点、近代社会の統治権力は国民の選挙によってコントロールするという面がある。

 ならば、権力を使って社会を有効に制御していくためには、そもそも選挙を行う国民に社会を制御する意思がなければならないことになる。

 具体的に述べれば、社会秩序を自然秩序のような変えられないものと考えず、人間の力で変更することが可能であるという発想が必要になる

 そして、この発想は自明に存在するものではなく、近代革命と近代主義によってもたらされたものであることは、ヨーロッパの歴史を見れば明らかである

 伝統主義に縛られた人間は生活している社会システムを自然物と同様に考え、これを変えることなど思いにもよらないであろうから。

 

 

 では、現代の日本人は近代社会が持っているであろう発想を持っているだろうか。

 高度経済成長という社会の劇的変化とはうらはらに日本の社会構造・日本人の行動様式は戦前と変わっていないという話はこれまで散々した。

 ならば、結論は「このような発想は持っていない」というほかなくなる

 

 日本の行動様式、社会構造の重要な特徴は次の2点である。

 

・盲目的予定調和説

・機能体の共同体化

 

 そして、このような特徴は欧米の資本主義社会では見られない。

 となれば、日本においては、公害その他の社会問題について、欧米社会とは異なる意味を持ってもおかしくないことになる。

 

 例えば、公害について考えてみる。

 欧米の資本主義社会では「企業は資本家の物、煮ても焼いても自由」という発想が原則になっていることは話した。

 もっとも、「煮ても焼いても自由」なのは企業の内側に関してのみである。

 企業の対外的行動については資本家は完全な責任を負わされる。

 よって、公害のように汚染物などを外側にたれ流れば完全に責任を取らされる。

 この場合、資本家の出資した資本その他は法律上の責任の範囲に従って実質的に没収され、被害者の損害に補填されることになる。

 株主であれば被害額に対して全額の責任を負うことはない(間接有限責任)が、それでも投資した金額の範囲では完全に責任を取らされ、その金は戻ってこない。

 つまり、「企業は資本家の物、煮ても焼いても原則として自由。」は表現として不完全であり、適切な部分を付け加えればこのようになる。

 

「企業は資本家の物、煮ても焼いても原則として自由。ただし、他人の権利を害しなければ」

 

 それゆえ、社長を解雇したケースでも解雇に伴う賠償その他が必要になるのである。

 

 では、日本ではどうか。

 日本の特徴が付加した結果生じる現象の一つが二重倫理の形成である。

 つまり、「企業共同体が大事、共同体の外側はどうでもいい」であり、最近の言葉を使えば「仲間以外はみな風景」である。

 こうなれば、「ロンドンでの紳士はインドでの暴君」のように「共同体内の紳士は共同体外では野蛮人」となっても不思議ではない。

 そして、そのセンスは「共同体外の人間が自分たちの企業が垂れ流した物で死のうどうなろうが関係ない」まであと一歩である。

 

 となれば、公害対策もおそらくアメリカのようにはいかないだろう。

 例えば、密告制度は日本では絶望的に役に立たないだろう。

 アメリカでも自社の悪事を暴露した従業員は会社で干されるであろう。

 しかし、市民社会のあるアメリカでは、その行為は市民社会では評価され、別の企業に入って生きることはできないではない。

 では、日本ではどうか。

 前述のセンスと共同体化した企業という点を考慮すれば、干された従業員は賃金を得られなくなるだけではなく共同体から追放されてしまう。

 その点で、密告による損失が大きすぎる。

 さらに、盲目的予定調和説まで絡めばどうなるか。

 まあ、言うまでもないとしか言えないだろう。

 かくして、企業共同体のための活動がすべて正当化され、外側の社会に対する責任が意識に登ることはなくなる。

 他方、公害の受け手側にも似たようなものがある点も忘れてはならない。

 というのも、被害者になった住民もどこかの共同体の住民であり、「仲間以外はみな風景」といった心理的カニズムを持っているからである。

 そのことは、私企業の起こした環境汚染による被害のことを「公」害と呼ぶことからも明らかである。

 その結果、責任の主体が隠れてしまっている。

 汚染物質を垂れ流した企業に100%責任を取らせようとする欧米の資本主義社会とは大きい違いである。

 

 このような社会的状況では、公害その他において加害企業の関係者をつるし上げただけでは問題解決にならない(もちろん、つるし上げる必要がないというわけでもない点には注意)。

 やるべきなのは社会科学的実践、つまり、このような加害者を生み出す社会的メカニズムの告発であろう。

 

 

 以上が本章のお話。

 非常にためになった。

 この点、「社会科学を学ぶのであれば広く浅く学ぶ必要があるのだな」と改めて考えた次第である。

 これまで興味がなく、手を出す予定がなかったけど、政治学にも手を出してみるか。