今回はこのシリーズの続き。
『危機の構造_日本社会崩壊のモデル』を読んで学んだことをメモにしていく。
20 第6章「ツケをまわす思想」を読む_後編
まず、前回の部分で今回と関連する部分をまとめておく。
つまり、近代資本主義の「所有」概念には①絶対性・②抽象性・③一義的明確性といった特徴がある。
そして、現代日本の「所有」概念において「所有がの絶対性」は乏しい。
では、「所有」の抽象性についてどうだろうか。
この点を見るため、財産の所有者と所持者の関係を見ていく。
民法上の言葉を使えば「財産の所有権者と占有権者の関係」だし、日常的なイメージで考えるなら「住居における大家と賃貸人の関係」でもいい。
結論から言うと、日本では他人の物を預かっている人間(管理者)が所有者の同意なく所有権者の如く物を利用する例が少なくないらしい。
本書では、終戦時疎開した農村社会の事例から、日本の「所有」感覚が近代資本主義の所有概念からかけ離れていることに驚いた川島教授の例が紹介されている。
また、具体例としていわゆる「社用族」が挙げられている。
この点、いわゆる社用族とは名目的・形式的には会社の営利目的で実質的には自分のために会社のお金を利用する人間のことをさす。
そして、欧米社会の規範から見れば、社用族の行為は権限の濫用ということになる。
しかし、日本社会の規範から見れば、別の視点が見える。
つまり、日本社会においては「自分が管理している会社のお金はその権限の大小の範囲に応じて会社のお金であると同時に自分のお金でもあるのだから、その権限の範囲でお金を利用することに問題はない」ことになる。
もちろん、やり過ぎればアウトになるが。
なお、社用族の全員がそうではないとしても、社用族はいわゆるモーレツ社員であって、会社に対して献身的エネルギーを提供して高度経済成長に寄与した人間でもあったという点も付け加えておくべきであろう。
もっとも、このような状況では所有の「抽象性」は大いに具体化されているということになる。
その善悪はさておいて。
さらに、前述の「やり過ぎればアウト」という言葉の「やり過ぎ」の基準は不明確である。
また、所有権が相対化についても相対化の程度が明確になっているわけでもない。
例えば、個人の所有物が家や集団の所有物とみなされるケースだとして、どのような方法による処分なら可能なのかという点について明確な基準がない。
民法の共有の規定(民法249条以下)・法人の規定(昔は民法に規定があった、現在は「一般社団法人及び一般財団法人に関する法律」に規定されているため、該当する条文は削除されている)によって考えればいいわけではないことも明らかである。
このことから、所有の「一義的明確性」も期待できないことがわかる。
なお、日本はアメリカ・ヨーロッパとは実体が異なるとはいえ、資本主義の社会ということになっている。
よって、経済財において「所有権はあるようで、かつ、ないようで」といった状況は露呈されにくい。
しかし、経済財以外の社会財のようなものを見れば、その違いを見ることができる。
本書では大学の業績泥棒のケースを例に出して、その違いを見せている。
業績泥棒、それ自体は日本でもアメリカでもありうる話である。
ただ、違うのは業績泥棒が発覚しそうになった場合のその後の展開である。
本書で紹介されているアメリカの例では、業績を盗んだ側(有名な大学教授)が盗まれた側(若手の研究者)に対してあらゆる手段を用いて自分の研究室に引き留めようとし、それがかなわないと見るや、大学教授はその若手研究者に対して「自分の研究室から抜けるなら『お前のスキャンダルをでっちあげて、研究者生命をないものにしてみせるぞ』」と言って脅したらしい。
アメリカらしい、というか、盗人猛々しいというべきか。
この背後には、知的財産のような社会財であっても、その帰属先は一義的かつ明確に個人に特定されること、その特定された個人の知的財産を他人が簒奪することは許されない(だから、相手の口を封じる必要がある)といった発想がある。
日本ではこんなことは起こりえないだろう。
その背後には、「知的財産であっても財産である以上は、一義的・明確な基準によって特定の個人に帰属される」という発想がないことに基づく。
その結果、日本では、教授が助手たちの業績を集めて自分の成果として発表し、また、その発表において教授が助手たちへの賛辞を述べるような部分があること、その一方で、助手の方もそれに対して何も言わないこと、といったことが起こりうることになる。
以上、日本社会の「所有」概念が資本主義のそれと乖離していることを確認した。
なお、「業績泥棒」に触れたついでに、日本の「泥棒」感覚についてもみてみる。
本書によると、日本では庶民の窃盗(万引き)には寛大だが、エリートの窃盗については厳格である、らしい。
この点は本書に記載がないが、「万引き」という言葉にもこのことが表れているようにみえる。
これに対して、「脱税」・「汚職」・「役得」に関する日本人の感覚は欧米人と異なる。
アメリカやヨーロッパにおいて、これらは重大犯罪であり、泥棒よりも重いこともある。
これに対し、日本では「一般庶民は司直によって処置するが、身分の高い官僚その他は自分で出処進退をすべきで司直によって処理すべきではない」といったいわゆる「法は士大夫にのぼらず」の感覚が支配的になるらしい。
このことは造船疑獄やロッキード事件においてみられている。
このことから、日本では窃盗・強盗のような具体的な占有を奪われることについては重大な犯罪と考える一方、横領・背任・脱税・汚職といった抽象的な所有権を奪うことについてはあまり強い非難を加えない傾向があることがわかる。
事実、単純横領罪は窃盗罪よりも軽い。
この二重規範が日本の特徴ということになる。
以上、現代における日本社会の「所有」概念について確認した。
次に、「日本の階層構造」についてみていく。
本書によると、現代の日本社会の階層の特徴は「傾ける階層」という言葉で示すことができるという。
この「傾ける階層」とは「『形式的・上位制度の上では平等であるべき』と規定されている一方で、実質的・下位制度的には区別(差別)があることによって生じる階層」のことをさす。
例えば、インドのカースト制・中世ヨーロッパの貴族といった階級は制度化された階層であり、それ自体が差別された階層である。
このような「制度」となっている階級・階層は日本では存在しない。
このことは憲法14条2項を見ればわかる。
日本国憲法第14条2項 華族その他の貴族の制度は、これを認めない
しかし、このことは現代日本に階層がないことを意味しない。
日本では所属する共同体によって階層が決定される。
イメージとしては大学の序列が参考になる。
もちろん、日本の大学も共同体化された機能体なので、このことは「共同体」によって決まる、ということになる。
このことは企業や銀行(日本においては企業も銀行も共同体化されている)においても変わりはない。
そして、これはカースト制やいわゆる士農工商といった身分のように制度的に決まっているわけではないので、実質的な階層にしかなりえないことになる。
このような「傾ける階層」が存在することによって、以下の二つの社会科学的効果が発生する。
・連続的細分化の法則
・限界差別の法則
以下、順にみていく。
まず、連続的細分化の法則とは階層が「傾ける階層」になっていることにより階層の分化が離散的にならずに連続的になることをいう。
つまり、制度化された階層であっても日本にある傾ける階層であるにせよ、階層は分化していく傾向がある。
しかし、制度化された階層の場合、身分・階層と個人が関連しているため、細分化されてもそれはとびとびの値をとるような離散的な形になる。
それに対して、日本における傾ける階層の場合、階層は共同体に関連しているため細分化のされ方が連続的になる。
この「連続的」とは「社会科学的に連続」という意味で、具体的には、階層と階層の境界があいまいであることをさす。
イメージするなら、離散的な形の場合、「一級身分・二級身分・・・(以下略)」という身分の境界が明確になる一方、連続的な形になると「一級身分のようでもあり、二級身分のようであり」といったあいまいな状態になるということである。
そして、このように身分の境界があいまいになる結果、「階層ごとの団結」という現象が生じにくくなる。
つまり、制度化された階層を持つ社会では、自分がどの階層にいるかが明確になるため、「労働者は労働者で団結」・「奴隷は奴隷で団結」といった現象が生じる。
これに対して、日本では自分の階層の位置が判明しても、同一の階層がどの範囲まで及ぶのかが分かりにくい。
その結果、同一の階層による団結といった現象が生じにくくなるわけである。
これは大学受験における大学の偏差値をイメージするといいかもしれない。
偏差値は一元化された数値で示され、これは連続値である。
その結果、「どの範囲なら同一のレベルとみていいのか」ということが分かりにくい。
これが制度化された階層なら、「一流大学は何々大学と何々大学、二流大学は何々大学と何々大学」という形で明確になっていて、一義的で明確であるがためにわかりやすいく、また、団結もしやすい、ということになる。
このことは、個人から見た場合、共同体外において疎外されていると感じる原因にもなる。
次に、限界差別の法則とは、各人が自分の状態を自己の属する階層の下限に勝手に設定し、自分よりわずかに下の人間を別の階層とみなしてこれを差別してしまう発想をさす。
つまり、制度化された階層では階層の差が明確であるから、境界も明確である。
それに対して、「傾ける階層」ではその差があいまいである。
その結果、階層の認識が各個人によってばらばらになることを意味する。
その際、自分に有利になるように階層の境界を引く結果、各自が自分の所属する階層の境界線を自分の状況のすぐ下に引くことになる。
その結果、自分よりわずかに劣る階層の人間に対して天と地の差があるが如くに差別することになる。
これが限界差別の法則である。
このようにして、各集団は、そして、集団に属する個人は、よりランクの上の集団にはコンプレックスを抱きながら、より下のランクの集団を見下すことによってプライドを回復させ、心理的緊張・ストレスを緩和させることになる。
その際、機能集団としての共同体の数が多い日本では見下す集団には事欠かない。
このことは文系集団と理系集団の関係をみてもわかる。
かくして、この「傾ける階層」構造は日本社会に根を下ろし、連続細分化の法則と限界差別の法則を拡大再生産していくことになる。
もちろん、「傾ける階層」は一長一短である。
階層が流動化されているという点を見ると、日本社会の緊張緩和(日本人のストレス緩和)のために役に立っているといえる。
とはいえ、別の観点から見れば、階層の流動化による身分の不安定さから別の心理的緊張(ストレス)をもたらしているとも言いうる。
というのも、階層が流動化しているということは、階層にしがみつく不断の努力をしなければ一気に転落してしまうからである。
また、日本の階層は多元的な構造を持っている。
「階層が多元的」というのを江戸時代でたとえるなら、「権力は江戸の幕府が持ち、財力は大阪の町人が持ち、名誉・文化は京都の朝廷が掌握する」といったものである。
その結果、ある階層が「ある意味では一流、別の意味では三流」といった「地位の矛盾」を引き起こす。
例えば、日本の大学教授は名誉・威信はあっても財力は低い。
これに対して、成功したベンチャー企業の起業者はその逆と言いうるだろう。
アメリカでは威信と富はプラスの相関があることが多いが、日本では無相関、あるいは、負の相関がみられることもあるという。
以上の前提で日本社会を見るとどうなるか。
まず、威信(権力)と富の間にプラスの相関がないため、威信・権力だけある人間と富だけある人間がより多く生じることになる。
また、「所有」概念については絶対性も抽象性も乏しい。
その結果、まず、威信・権力だけを持っている人間は委託された権力を自分のために流用するようになる(もちろん、形式的には目的に適合するようになっていることは言うまでもない)。
他方、富だけを持っている人間は限界差別によって生じる不安から脱却するため上の階層にしがみつくことになる。
その結果、「ツケを回す」ための需要と供給の条件が威信だけを持つ人間と富だけ持つ人間との間で成立する。
かくして、「ツケを回す発想」が自動的に作動していく。
以上が本章のお話である。
これまで山本七平氏と小室直樹氏の本を読んできたが、ある一本線でつながっている。
その意味で、このお二方の本を読んでよかったと強く感じる次第である。