薫のメモ帳

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『経済学をめぐる巨匠たち』を読む 8

 今日はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

『経済学をめぐる巨匠たち』を読んで、経済学に関して学んだことをメモにする。

 

 

10 「第8章_資本主義を発展させるダイナミズムとは」を読む

 今回の主役はヨーゼフ・アイロス・シュンペーターである。

 この人物は『痛快!憲法学』に掲載されていなかった。

 そのため、シュンペーターについて知る(名前なら以前から知っていたが)のはこの本が初めてである。

 

 シュンペーターは産業界においては非常に人気がある。

 他方、経済学の教科書で頻繁に登場する人物ではないらしい。

 その理由として、シュンペーター理論が数理的解析になじまないこと、②社会学的分析によって経済学的業績を残したことにある、らしい。

 

 シュンペーターは1930年代において40、50年後にイギリスで起きるであろう社会変化を理論化し、かつ、見事に的中させた。

 ちょうど、著者である小室直樹先生がソビエト連邦が崩壊する過程を理論化し、それを的中させたように。

 この「過程を理論化させて、一定の結末を予言し、かつ、その予言が的中する」ということはめったにない。

 例えば、マルクスは「資本主義が瓦解し、社会主義が勃興する」と理論を用いて予言したが、先に瓦解したのは社会主義だった。

 また、リカードは「資本主義の法則を徹底すれば最大多数の最大幸福が実現する。しかし、それは利潤はゼロ・労働者の生活レベルは最低になる」ということを理論を用いて予言したが、「利潤がゼロ」の点についてはこれまた実現していない。

 さらに、ワルサスは「人口論」において、「食料は等差級数的(線形関数的)にしか増えないが、人口は等比級数的(指数関数的)に増えるので、食料の増加が人口の増加に追い付かず、世界はいずれ深刻な食糧難に陥る」と預言したが、現時点ではまだ実現していない。

 偉大な経済学者でさえこうなのだから、他は推して知るべしということになる。

 そういえば、本書では「正月の新聞を保存するといい。掲載されたエコノミストの経済予測の的中率を調べると悉く外れているのが分かる」という趣旨のことを述べているが、これは実行したら面白いかもしれない。

 

 

 では、そのシュンペーターの未来予測は何か。

 それは、「資本主義を活性化させる要素は企業者による『革新』であり、革新なくして資本主義の発展はない。しかし、資本主義が徹底されれば、この『革新』すら日常化・社会主義化するため、衰退は不可避である」となる。

 一言で言えば、「資本主義は社会主義化する。資本主義はその成功故に滅びる」と言えばいいか。

 なお、社会主義化」という言葉は、日常化・自動化・官僚化といった言葉で置き換えるといいかもしれない。

 

 

 本書から離れるが、シュンペーターの主張と山本七平が『「空気」の研究』で述べた「合理と不合理の関係」と比較すると、より理解が深まる。

 山本七平の主張は次のとおり。

 

① ある合理性を徹底的に追及する原動力は「不合理な何か」を源泉としている

② その「不合理な何か」を失えば、合理性の追求は消し飛ぶ

③ その「不合理な何か」を徹底しても、合理性の追求は消し飛ぶ

 

 太平洋戦争における日本の悲劇は③が関係しているが、シュンペーターとの関係で見るべきは②である。

 シュンペーター「資本主義の活性化には『革新』、つまり、創造的な破壊活動が必要である」と言う。

 資本主義の精神における「目的合理性尊重の精神」と「革新」はぴったり重なるものではない。

「革新」には計算可能性がないものにチャレンジすることを当然に含むのだから。

 もちろん、伝統主義で不合理だらけの社会であれば、目的合理性精神それ自体が「革新」となることはあり得ても。

 

 つまり、「目的合理性尊重の精神」を合理とするならば、「革新」は不合理となる。

 そして、目的合理性の追求・徹底のために「革新」を合理性に取り込むと、「革新」は日常化・計画化・官僚化されたものになり、革新の本質が骨抜きになって消える。

 その結果、資本主義から革新が消え、資本主義が衰退する。

 これはいわゆる②の(合理によって)不合理が消し飛び、結果として合理の追及がストップする、ということになる。

 

 

 ここで本書に戻って、「革新」が日常化されていく例をナポレオンの軍隊を通じてみてみる。

 ナポレオンが率いていた軍が小さければ、ナポレオン軍はナポレオンの天才的采配によって動く。

 ナポレオンは天才だから連戦連勝する。

 連戦連勝により才能を認められれば、率いる軍は大きくなる。

 しかし、大きくなったナポレオン軍をナポレオン一人で采配するには限界がある。

 そこで、大きくなったナポレオン軍は、ナポレオンの天才的な閃きではなく、合理化・自動化されたシステムによって意思決定されることになる。

 この「組織の大規模化がもたらすシステムの自動化・合理化」、これが「資本主義の社会主義化」である。

 

 次に、シュンペーターの予言が的中したイギリスを見てみる。

 産業革命・資本主義による繁栄を極めたイギリスは戦後、多くの産業部門を国有化していた。

 この「企業の国有化」というのは社会主義である。

 この社会主義化の流れを止めたのが、サッチャーの改革である。

 このサッチャーの改革はイギリス社会に「革新」の精神を取り戻そうとした点は前に述べた通りである。

 

 以上のように、シュンペーターは資本主義の本質を問い続けた。

 その結果、多くの発見・業績をもたらした。

 しかし、経営学ではその発見・業績が取り入れられているのに対し、経済学ではあまり取り入れられていない。

 では、シュンペーターの発見は何か。

 以下、それについてみていく。

 

 

 まず、シュンペーターが発見した「資本主義社会の真の支配者」についてみる。

 

「資本主義社会の支配者は誰か?」と問われれば、普通の人は「金持ち・資本家」と答えるだろう。

 事実、マルクスも古典派もそう述べてきた。

 せいぜい「(将来資本家になりうる)経営者」が付け加えられるくらいか。

 

 しかし、これに異を唱えたのがシュンペーターである。

 資本主義社会の真の支配者は貴族である、と。

 つまり、「貴族が政治的に資本家を支え、資本家が貴族を経済的に支えた結果、現在のシステムは成り立っている」と述べたのである。

 

 何故こうなったのか。

 これについては商人と中世の貴族をイメージしてみれば分かるが、商人こと資本家は政治に向かない。

 確かに、商人・資本家が政治に対して経済的に指導することは十分あり得る。

 しかし、国民を指導できるレベルになるためには経済学・経営学的なことだけに秀でているだけでは不十分である。

 よって、商人・資本家が国民を指導できるレベルになることはない、と。

 

 では、シュンペーターのいう「貴族」とは何か、資本主義が勃興したイギリスの貴族制度から見てみる。

 イギリスには五つの爵位で構成される「貴族」がおり、その下に「準貴族」があり、その下に「準々貴族」があり、その下に「準々々貴族」があった。

 ちなみに、ジェントルマンという言葉があるが、本来の意味は「『準々貴族』(ジェントリー)の人」である。

 このようにイギリスには分厚い貴族制度があった。

 

 そして、初期の資本主義の担い手になったのは「準々貴族」や「準々々貴族」である。

 彼らは貴族としての身分は低かったが独立自営の生産者でもあった。

 つまり、自分の土地、つまり、資本を使って自活していた。

 また、庶民と異なり、彼らは「国王の家臣」と言うことでプライドも高く、(貴族としての)教養もあった。

 そのため、彼らには「ノーブル・オブリゲーション」があり、行動的禁欲があり、目的合理性精神もあった。

 

 他方、絶対王政国家になる過程のイギリスでは、国王と上級貴族との仁義なき戦いが発生し、一時は国王が上級貴族から「マグナ・カルタ」を押し付けられるなどしたが、その後、国王が下級貴族を登用して勢力を挽回する。

 なお、ピューリタン革命を率いたオリバー・クロムウェルはジェントリーの出身である。

 つまり、イギリスの近代化の主軸になったのはジェントリーやヨーマンだったのである。

 

 このシュンペーターが述べた「二階級による統治制度」は資本主義だけではない。

 つまり、遊牧民族(戦闘民族)が農耕民族を支配して以降、約6000年間の常態である。

 また、資本主義に限定してみても「貴族が政治を担った」という現象はイギリスだけではない。

 例えば、フランスのナポレオンは商人の出ではないし、ドイツのビスマルクはユンカー出身であるが、これはイギリスのヨーマンに該当する身分である。

 もちろん、これらの貴族はただのボンクラ貴族ではなく「資本主義の精神を持った貴族」ということになるが、「商人ではなく、貴族が政治を担っていた」という事実は大きい。

 つまり、資本主義の精神を持った(下級)貴族が資本主義が作動する制度(自由契約制度・私有財産制)を作り、他方、経済活動に専念した下級貴族が資本家として経済活動に没頭することで、資本主義を発展させたわけである

 

 

 なお、シュンペーターは貴族の未来について次のように述べている。

 資本主義の発展過程は私有財産制・自由契約制というシステムを背後に追いやってしまう、と。

 つまり、資本主義の発展により大規模化・組織化することで、「革新」が日常化し、資本家も企業家だけではなく、資本主義の精神を持った貴族も衰退し、資本主義は滅亡する、と。

 このことを日本をサンプルにして詳しく見てみる。

 

 まず、資本主義の発展に不可欠な「革新」という言葉を具体化する。

 資本主義の生産過程は「①生産方法、②原料・半製品の供給源、③財貨、④販路、⑤組織」の組み合わせで成立しているところ、「革新」とは5つの生産過程の要素の組み合わせを変更することをいう。

 ただ、目新しい商品を送り出す、ビジネスモデルを作り変えるだけではない(それらが革新をもたらすことはあるとしても)。

 そして、この革新を具現化する人たちのことをシュンペーターは「企業家」と呼び、この存在が資本主義に不可欠だと述べた。

 

 また、企業家が革新活動を行うためには資金が必要であるところ、企業家の資金調達の観点からシュンペーターは「銀行家」にも注目している。

 銀行家が企業家の革新活動を吟味し、「信用」とその具体化した資本を供与する。

 企業家は得られた信用・資本を利用して、革新活動を行い、利益を上げて信用を返済する。

 このとき、銀行家が企業家のよき革新活動を見抜いて信用を供与できなければ、資本主義の発展はおぼつかない

 

 

 さて、この「企業家」と「銀行家」がいなければどうなるか。

 それは、日本を見ればわかる。

 

 まず、日本の近代化の過程で資本家・銀行家の役割を担った人たちについてみてみる。

 日本の資本主義を担った人間は下級武士たちである。

 彼らの禄高は100石に満たず、生活は貧しかったがプライドはあった。

 また、「武士」であるということで教養もあった。

 このことは幕末において12歳で殿様相手に講義をした吉田松陰などを見れば明らかである。

 

 この点、イギリスの下級貴族と異なり、彼らには自営するための資本がなかった。

 しかし、明治時代に入って武士の特権が消えたことで、彼らは自営しなければならなくなった。

 自営のためにはこれまでの伝統は役に立たず、創造的破壊に挑むことになる。

 もちろん、成功の裏には大量の試行錯誤、そして、大量の失敗があっただろうが。

 

 また、近代化を掲げた政府の政策がこれを後押しすることになる。

 これらの政策は企業家となった下級武士の活動を大いに促進した。

 そして、明治日本は近代化への道を進んでいくのである。

 

 では、明治時代以前の江戸時代の商人は明治時代にどうなったのか。

 当然、江戸時代にもビジネスの担い手、大商人はいた。

 これらの商人ならば資本主義の流れによってさらに繁栄していったとしてもおかしくはない。

 しかし、江戸時代の商人の多くは明治維新と共に消えることになる。

 これはなぜか。

 その答えは江戸時代の商人の経営思想やマインドセット、具体的には、「新儀停止」・「祖法墨守」を見れば分かる。

 これはウェーバーの言う「伝統主義」であり、革新=創造的破壊とは対極の精神である。

 資本主義においてこれらの精神によって立つ江戸時代の旧商人が淘汰されたのは当然なのかもしれない。

 

 他方において、江戸時代に官僚として働いていた中級武士・上級武士も淘汰された。

 彼らにはノーブル・オブリゲーションも向学心も行動的禁欲も持ち合わせていなかった。

 まあ、それは当然なのかもしれない。

 

 そして、現代日本

 シュンペーターのいう「企業家」や「銀行家」は役割ではなく、活動に対して与えられるものである。

 また、企業家の活動は時に「経済学の前提とする経済人」の範疇を乗り越えることがある。

 しかし、この企業家の存在なしに資本主義は成り立たない。

 さらに、放置していて自然に発生するものでもない。

 

 この点、企業家や銀行家はある種の英雄・天才と言ってもよい。

 しかし、組織化・大規模化・合理化の波は、企業家・銀行家の精神をむしばみ、天才的英雄から官僚的専門家に堕してしまう。

 その結果、資本主義を支える不合理の骨(エートスと言ってもよい)が貴族・企業家・銀行家から消え、合理性追求の源泉としての不合理が無力化し、資本主義社会は崩壊する。

 そして、少なくても今の日本でそれが進行していることは間違いない。

 

 

 以上が本章のお話。

 経済について見ていたのに政治についてみている印象を持った。

 その意味で政治と経済は不可分なのだろう。

 今回の話は初めて知ることが大きく、大いに参考になった。