今日はこのシリーズの続き。
『数学嫌いな人のための数学』を読んで学んだことをメモにする。
15 第3章の第3節を読む
第3節のタイトルは「中国や日本社会の特性」である。
前節の最後で江戸時代の日本の商家が登場したが、今回は「中国の人間関係」についてみていくことになる。
これまで見てきた通り、資本主義の所有権はキリスト教と共通する特徴がある。
例えば、造物主たる神と被造物たる人間の関係、神との契約(形式論理学)、個人救済といった特徴がそうである。
そのため、キリスト教的な背景がない人々には資本主義的所有権は受け容れにくいかもしれない。
つまり、中国や日本では資本主義的所有権が受容しがたい原因は、中国人は儒教の国、日本人は日本教の国であって、キリスト教的な背景に乏しいからかもしれない。
ここから話は中国に移る。
著者によると、中国では資本主義的所有権が確保されないから、近代資本主義が成立しがたいという。
つまり、近代資本主義では所有権は絶対的・抽象的なものであって、人間関係と社会事情によって左右されない。
また、事情変更の原則は原則として認められない。
そうしなければ、経済主体は目的合理的な計画(利潤や効用の最大化)が立てられず、商品・資本の迅速な流通も確保できないからである。
この「資本主義的所有権」と「市場の自由かつ適正な機能の確保」はコインの両面となっている。
ところで、中国の場合、所有権は人間関係と社会事情によって左右される。
また、事情変更の原則もかなり認められる。
このことは、ヨーロッパの形式論理学では人間関係や権力者の意向によって命題の真偽が変わらないが、中国の論理・説得術では命題の真偽が人間(君主)によって決められることを考慮すると、その違いがイメージできるのではないかと考えられる。
以下、中国における人間関係についてみていく。
この点、中国の人間関係を見る上で最初に注目すべきものが、「幇会(パンフェ)」という人間関係である。
この「幇会」というのは「根元的人間関係」・「最も親しい盟友関係」というべきものである。
この「幇会」の人的結合の硬さは世界無比であり、日本や欧米にこの概念はないらしい。
その結果、「幇会」内の人間関係たるや「死なばもろとも」と言うべき強固さがある。
また、「幇会」の規範は公の法律・規範に優先する。
とすれば、近代資本主義的所有権は産まれそうにない。
なお、著者はこの「幇会」をイメージしたければ『三国志演義』を見ればいいという。
もちろん、この『三国志演義』は羅漢中著でも吉川英治著でも、横山光輝氏の漫画でもいいらしい。
前者は10巻、後者は60巻あるので、結構時間がかかるが。
そして、この三国志演義に登場する劉備と関羽と張飛の関係、劉備と孔明の関係が「幇会」である。
あと、小室先生は中国原論についての本も書いているので、こちらを参考にしてもいいかもしれない。
さて、この「幇会」の外側に「情誼(チンイー)」という人間関係がある。
この「情誼」は「幇会」の次に重要な人間関係を指す。
つまり、「情誼」は「幇会」ほどの強固な人間関係ではない。
経済との関係で重要なことは、中国では価格決定などの市場法則が「情誼」によって左右される点である。
本書では次の書籍を引用して次のように述べている。
(以下、本書の159ページと160ページにあった上述の書籍から引用された部分を引用する)
彼らは金だけを追究する商売を軽視する。商売を通じて、豊かな人間関係が成立しないと満足しないのである。
(中略)
商売は、金や物のやり取りをすることだけではない。人間と人間の付き合いなのだと彼らは固く信じている。
(中略)
全く同じ品物でも、中国では買い手によって、値段が違う。
(中略)
商人は、情誼を深めたい相手には安く売る。また、安く売ることによって情誼を持つ相手のネットワークを広げてゆく。
(中略)
中華商人は、買い手によって、価格が異なることを不道徳だとも不当だとも思ってない。むしろ当然の商法だと考えている。
(引用終了)
つまり、中国社会において商売の目的は利潤追求ではなく豊かな人間関係の構築にある、と。
そして、中国で二重価格などの価格差が生じるのは豊かな人間関係の追求といった目的の実現のために生じるのだ、と。
これは利潤追求(を通じたキリスト教的救済)を目的とする近代資本主義とは違う。
また、これは伝統主義たる家法(祖法)の墨守を目的とした徳川時代の日本社会とも異なることになりそうである。
あと、ユダヤ商人(ユダヤ教の商人)やアラビア商人(イスラム教の商人)と比較したらどうなるのかは分からないが(この辺は面白いところであるが、本書に書いてないから分からない)。
さて、近代資本主義における所有権は絶対的であり、また、抽象的であることはこれまで何度も確認した。
また、この所有権があってこそ、利潤・効用の最大化を合理的に計画し、また、実践できることも。
しかし、この所有権の絶対性・抽象性がなかったらどうなるか。
利潤最大化・効用最大化のための合理的計画の実践が不可能となり、資本主義は欠点だらけになるだろう。
つまり、前期的資本は前期的資本のままで資本主義になることはない。
また、資本主義に必要な依法官僚制が成立することはなく、家産官僚制のままとなる。
家産官僚制のままでは近代システムになりようはずがない。
もちろん、中国の商売の目的が利潤ではなく豊かな人間関係にあるならば、「資本主義にならないことに何か問題でもあるのか」ということになりかねないと考えられるが。
ところで、資本主義の末期においても同様の問題が生じるらしい。
これは、次の読書メモで言及している。
つまり、資本主義が発展すると総てが合理化されてしまい、資本主義に不可欠な「革新」のスピリットが政治・経営両面から抜けてしまう。
その結果、資本主義の精神が消失し、資本主義が滅びてしまう。
そして、資本主義の崩壊の過程においても、所有権の絶対性と抽象性の希薄化があるらしい。
今のアメリカ・ヨーロッパ・日本をみているとその様子が理解できないではない。
以上が、本節のお話。
商売の目的の違いがこのような形で現れるとは・・・。
この発想を知ったのは初めてであり、大いに勉強できた。
次回は第4章に進む予定である。