薫のメモ帳

私が学んだことをメモ帳がわりに

『危機の構造』を読む 12

 今回はこのシリーズの続き。

 

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『危機の構造_日本社会崩壊のモデル』を読んで学んだことをメモにしていく。

 

 

18 第5章「危機の構造」をまとめる

 まず、前章の内容を箇条書きにまとめる。

 

・日本の悲劇を分析する際にキーワードとなるのが「アノミー」・「盲目的予定調和説」・「機能集団の共同体化」である

・「機能集団の共同体化」という現象は戦前はそれほど一般性はなく、戦後、特に高度経済成長になってから一般化するようになった

・一般論としてアメリカ・ヨーロッパの近代社会は機能体が共同体化せず、機能集団と共同体は分化していく傾向がある

アノミーとは「無規範・無連帯になった社会の状態」という意味と「無規範・無連帯になった社会に生きる個人の心理的危機」という二つの意味がある

アノミーを分類した場合、単純アノミー・急性アノミー・構造的アノミー・複合アノミー・原子アノミーがある

・社会環境の変化は個人に規範の変化をもたらすため、社会環境の変化が個人にとってプラスであった場合であってもストレスになりうる

・単純アノミーとは、社会環境の変化それ自体が個人のストレスを惹起し、ストレスの強度によって精神病・破壊行動・自殺といった行動に至る現象をさす

・急性アノミーとは、全面的・瞬間的な社会秩序の崩壊・変化によって規範が全面的・瞬間的に解体した結果、個人に強烈なストレスがかかり、このストレスに耐えられなくなった者が自殺・精神病・破壊衝動による事件に至る現象をさす

・複合アノミーとは、大きい規範・連帯がなく、多数の小さい規範が断片的に存在する社会環境で生じるアノミーをさす

・原子アノミーとは、複合アノミーと「所有」概念の曖昧さという社会環境において連帯が無限に崩壊していくアノミーをさす

・構造的アノミーとは、社会構造・社会システムがアノミーを生み出す原因となっているアノミーをさす

・各アノミーの特徴を簡単に書くと、単純アノミーは基本形、急性アノミーは社会環境の変化が大きいもの、複合アノミーは社会の規範が体系化されてないときのもの、原子アノミーは連帯が無限に破壊されていく結果に注目したもの、構造的アノミーアノミーの発生源に着目したものといえる

・太平洋戦争の敗戦と戦後の民主化政策が現代日本に急性アノミーをもたらした

・急性アノミーに陥った日本人は従前の所属する村落共同体に戻っていったが、高度経済成長がこの村落共同体を解体させた

・村落共同体から切り離された日本人は企業などの組織などを頼り、これが企業などの共同体化を促進した

・この機能集団の共同体化現象は天皇(明治政府)の官僚組織と村落共同体をリンクさせるために機能していた

・戦前はこの大日本帝国が機能体と共同体の微妙なバランスを維持し、戦後は企業が機能体と共同体の微妙なバランスを維持している

・共同体化された機能集団の特徴は①二重規範の形成と②共同体の自然現象化であり、また、個人の盲目的予定調和説を支える社会基盤でもある

・高度経済成長は日本人に大きな社会環境の変化をもたらし、それ自体が単純アノミーをもたらした

・高度経済成長以前の日本人にとって経済財は物的欲望の達成の手段であったが、高度経済成長以後、経済財に社会的欲望の達成の手段という意味が付加された

・日本人における経済財の意味が変化した結果、経済学の前提が「効用関数は所与のものである」から「効用関数はコミュニケーションによって適宜修正される」に変化したため、従前は修正要素と考えていたデモンストレーション効果のような因子が重要な要素へと変化した

・高度経済成長がもたらす諸問題を従前の経済学だけで分析しても有益な結果が得られない

アメリカではデモンストレーション効果はゼロ次の同次性を持っていて、「『自分より上位を見た場合の変化』と『自分より下位を見た場合の変化』がキャンセルされる」ため、デモンストレーション効果の心理的影響は小さいと考えられている

・共同体化された機能体が入り組んだ日本の場合、「自分より下位の者が見えず、上位の者は無限に見える」という心理的状況から、デモンストレーション効果は消費水準の一方的上昇という結果をもたらす

・日本の企業が共同体化されている結果、労働者の消費水準の維持・向上は社会的義務に転化するため、消費活動(趣味等)でさえ企業共同体の組織的要請によって決められることになる

・日本の構造的アノミーは「『消費水準の上昇とその達成』という新環境への対応・新規範の受容という要請が継続的・全体的に要求される社会構造」から発生している

・日本の構造的アノミーは戦後直後の日本に生じた急性アノミーから逃れようとして発生した物であり、その意味で日本社会・日本人は二つのアノミーの板挟みにあっている

・ヨーロッパ社会やアメリカ社会と異なり、日本の現代社会の規範は多数の価値観を前提とする規範の断片の集合体となっており、体系的・統一的な規範がない

・体系的・統一的な規範の不在は「あらゆる事項の規範的一般的正当化」をもたらすところ、一つの例として「対称性・等価交換性のない規範的行動」がある

・社会・集団を相当期間維持させることのできる規範には一定の対称性があり、具体例として「権利と義務」・「利得と責任」・「貴族の特権とノーブル・オブリゲーション」がある

・規範が断片化されている社会では、人や権力者の断片化した規範の中から自分に有利な部分をつまみ食いし、不利な部分(責任を負う部分)を放棄するといった手段を抑制できず、結果として「責任(義務)の真空地帯」が発生する

・「責任(義務)の真空地帯」が発生した状態では、自分のできる範囲だけで責任を追おうとする人間を真空化した巨大な責任で押しつぶしてしまう結果、人は責任の一端からも防衛的な態度を採るようになる

・日本において「規範的一般的正当化」によって正当化される事情は共同体化された機能体の社会的要請と共同体の主観的事情の両方に基づく

・その正当化された内容は共同体的機能体内部では宗教的真理にすらなる一方、外部から見ればとんでもないデタラメに見えることになる

・これらの集団は社会の存続・維持、そして、社会的利益の実現のために協働することが想定しているが、盲目的予定調和説と相まって、この集団相互のギャップは宗教的対立のようなものに発展してしまう

・このような擬似宗教的対立を通じて、人は「この世界に自分の場所はない」・「そもそもこの世界といったものが存在しない」という強いストレスと疎外感を味わうことになるところ、これが複合アノミーの正体である

・日本の複合アノミーは日本の所有概念の曖昧さと相まって、集団を分解させ、ディスコミュニケーションによる不協和音をは広めていくことになるが、これが日本の原子アノミーである

ファシズムの本質が集団の機能的要請によって行動する点に注目した場合、この無限の上下間闘争現象を「セルローズ・ファシズム」という

 

19 第6章「ツケをまわす思想」を読む_前編

 以上、前章で日本に危機をもたらす社会的構造について確認した。

 本章では、このような社会構造から生じた結果に注目していくことになる。

 

 

 この点、日本の政界では様々な疑獄事件があった。

 しかし、これらの事件の背後には「ツケを回す思想」があるという。

 

 ここから話は国や自治体の財政危機に話が移る。

 昭和50年代当時、地方選挙の主要な争点として「革新の自治体における財政危機への対応」というものがあった。

 そして、日本人は慢性的赤字財政をそれほど深刻には受け止めていなかったため、慢性的赤字財政が致命傷となることはなかった。

 

 これが欧米諸国であれば、そうもいくまい。

 例えば、欧米諸国では「財政的バランスの維持」については厳格に目を光らせていた(いる)。

 この点は、大恐慌の時代にフランクリン・ルーズベルトニューディール政策を行おうとしたところ、憲法訴訟にまで発展したことからもわかる。

 失業者救済のための公共投資・福祉政策等を推進しようとしていたルーズベルトケインジアンの最初の敵は、「失業者があふれて社会が崩壊する危険が高まったにも関わらず、均衡財政を『信仰』して財政出動による国家財政の赤字を拒否する人々」であった。

 この辺は、キリスト教・資本主義・古典経済学・財産権不可侵の原則といったこれまで学んだ知識を思い出せば十分理解できる(詳細は次のメモを参照)。

 

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 ところで、当時のアメリカ人の財政均衡維持に対する信仰と日本人の赤字財政に対するおおらかさ。

 どちらがいいと断言できるものではない。

 というのも、赤字財政によって現実の福祉が充実された一方で、赤字財政のツケがより多く回るのは税金をたくさん払っている人は金持ちや社会的強者であるから、赤字財政による福祉充実が実質的平等や公平といった社会正義に資するとも言いうるからである。

 

 つまり、アメリカの差別をめぐる戦いは一定のロジック(原則・宗教)によって正当化された「差別主義者」と差別撤廃主義者の間で行われている。

 これは社会福祉の是非についても同様である。

 例えば、アメリカで社会福祉政策に反対する人間は「財産権不可侵の原則」やカルヴァンの「予定説」といった原則や宗教を持ち出して反対する。

 財産権不可侵の原則を持ち出した場合、「私の勤勉な労働で得た財産を怠け者のためにつかうなんてとんでもない」になるし、予定説を持ち出す場合、「彼らが貧乏なのは神様がその人がそうなるように予定・決定したからであるから、それを救済するのは神の意向に逆らう冒涜的行為である」といった感じになるだろう。

 また、アメリカの差別撤廃主義者は口先だけではなく行動でも差別を撤廃しようとする(例外はたくさんあるだろうし、また、差別撤廃の背後には利己的動機が詰まっているだろうが)。

 

 これに対して、日本にはこのような前提がない。

 つまり、外見的にアメリカのような差別主義者・反福祉論者は存在しない。

 例えば、2020年の日本でアメリカのような差別的発言をすれば一瞬で炎上し、社会的に抹殺されかねないだろう。

 また、口では「差別」反対と言いつつも、発言に対応する(政治的)行動を採る人間が多いわけでもない。

「空気」に引きずられて右往左往し、特定の原理・原則を用いて差別の問題を公平な方向に修正する機運も乏しい。

 とすれば、日本では差別主義者や反福祉論者がいない点はいいように見える一方、逆側の人間(アメリカにおける差別撤廃主義者など)もおらず、差別も解決されない・社会福祉も充実化しない、といったことが起こりうることになる。

 ならば、革新自治体の赤字財政による社会福祉の充実化といった政策を「赤字財政」の部分だけを切り取って否定するのは妥当性を欠くであろう。

 もちろん、社会福祉の充実化の一言を切り取ることも妥当性を欠くだろうが。

 

 

 このような例は自治体の社会福祉政策に限った話ではない。

 本書では類似の例として「赤字国鉄の問題」と「米の問題」が取り上げられている。

 例えば、国鉄営利団体と仮定すれば、「膨大な赤字を整理せよ」・「不要な線路は整理せよ」といった主張が成立し、それは妥当である。

 しかし、福祉団体と考えれば視点が変わり、赤字のおかげで「過疎」をある程度を防ぎ、不合理な経営によって成立する鉄道員の生活もあった。

 このように考えると、国鉄の赤字についても「赤字財政による社会福祉の充実」と同じような評価を与えることができる。

 もちろん、経済的合理性のみに至高の価値を置き、かつ、経済的合理性を追求する行動以外の人間の行動の価値を否定するならさておいて。

 

 同様のことは「米の生産」についても言える

 つまり、日本は米食民族と言われているが、戦前・戦後直後において「国民の大半が米を主食としていた」わけではなかったらしい。

 日本国民が米を主食とできるようになったのは昭和40年代のことである。

 もっとも、このころからコメが余りだして、いわゆる「減反政策」が行われることになった(この政策は最近廃止された)。

 本書によると、当時「農民公務員化論」なるものもあり、当時の農家は肩身の狭い思いをしていたらしい。

 これも、経済合理性から見ればわからないではない。

 しかし、米については石油危機で事情が一変する。

 確かに、外からの石油の流入が途絶する自体が起きれば、「次は食料がそうなるのではないか」という心配が生じても不思議ではない。

 そして、日本の食料自給率は当時も現在も下がっている。

 そんな中の「米の自給率は約100%ある」という事実がどれだけ救いになったことだろうか。

 もちろん、この事実の背景には「庶民がツケを払い続けてきた」ということがあるとしても。

 

 このようにしてみると、現代の日本社会は「ツケを回す思想」で成り立っている面がなくもない。

 これは当時だけではなく、現在(2022年)もそうではないかと考えられる。

 とすれば、「明日からツケをやめます」というわけにはいかないし、それはそれで社会的大混乱と急性アノミーを招くだろう。

 もっとも、「やめない」ことと「放置すること」はイコールではない

 そして、「赤字経営が望ましいことではない」ことは間違いない。

 そこで、本書はこの「ツケを回す発想」について社会科学的分析を進めていく。

 

 

 では、この「ツケを回す発想」の背後にはどんな社会構造があるだろうか。

 その構造を見るために重要な視点となるのが、現代日本における「所有」の意味である。

 現代日本の「所有」概念がアメリカやヨーロッパの近代資本主義の「所有」と異なるということは『経済学をめぐる巨匠たち』の第15章(作成したメモは「『経済学をめぐる巨匠たち』を読む 13」)で確認した。

 

 この点、近代資本主義における「所有」の特徴として次の3点があげられる。

 

1・所有の絶対性(人は物に対してなんでもできる、民法206条参照)

2・所有の抽象性(物に対する具体的管理の有無は所有権と関係ない)

3・所有の一義的明確性(物と人は一義的かつ明確にリンクされる)

 

 では、絶対性・抽象性・一義的明確性といった近代資本主義の「所有」の特徴を現代の日本社会の「所有」は備えているだろうか。

 本書の記載を通じて当時の状況を確認する。

 まず、所有の絶対性についてみると、重要な財産(家具・土地・建物その他)は個人ではなく家や共同体に属するものと考えられることが少なくない。

 また、家や共同体の当主と言えども、その地位は絶対君主ではなく同輩中の主席に近いものが少なくない(この点は当主の叔父叔母が出てくる場面を想像するといいかもしれない)。

 その結果、重要な財産は家・共同体の構成員の合意によって決められる。

 これでは所有の絶対性は大いに弱められているといっても言い過ぎにならないだろう。

 もちろん、身の回りの衣類・小物・小遣いなどは別として。

 

 そして、この発想は家や農村共同体だけではなく、株式会社にもみられる

 近代資本主義における資本家の行動様式と日本における現状との乖離については既にふれたとおりである。

 

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 ただ、この資本家の会社に対する支配権が不完全な点は資本家と従業員を社会から防衛している面もある。

 このことは、ある大企業の石油漏れ事件に対して大企業を目の敵にする人間の意見、「企業を潰してまで、とは言わないが、不動産を売り払ってでも漁民に対する十分な補償をせよ」という点に見られている。

 つまり、日本では企業は共同体であるため企業共同体の存続は補償する。

 企業の責任は企業の存続できる範囲を限度とする。

 被害を被った漁民はその範囲でしか責任追及できない。

 企業の果たせる責任で損害が補填できなかった場合は泣き寝入りか、同族の関連会社(もちろん、法人格は別)や政府に補償を求める(政府が救済した場合、企業の責任を国民がしりぬぐいする形になる)ことになる。

 

 アメリカなら上述の中途半端な意見はまず現れないだろう。

 絶対の支配権と絶対の責任は表裏のものである(複合アノミーに陥っている日本なら絶対の支配権と無責任を組み合わせるかもしれないが)。

 ならば、「(過失がある以上は)企業を破産させてでも漁民に補償・賠償せよ」になる。

 

 このことを考慮すれば、所有の絶対性は現代日本において大いに相対化されていることになる。

 まあ、所有の絶対性の由来はキリスト教であり、そのキリスト教のない日本でそれを求めることは酷な気がするが。

 

 

 あてはめが途中ではあるが、既に分量が多くなっているので、残りは次回に。