今日はこのシリーズの続き。
『数学嫌いな人のための数学』を読んで学んだことをメモにする。
7 第1章の第5節を読む
本節(第1章の第5節)のタイトルは、「最高の役人は最悪の政治家である_マックス・ヴェーバーが発見した『解』が存在しない政治の現実」である。
第1章の第1節では、「古代イスラエルの宗教」を通じて「論理学」について見た。
第1章の第2節では、「幾何学の三大難問」を通じて「数学」について見た。
第1章の第3節では、「マゼランの大航海」を通じて「存在問題」について見た。
第1章の第4節では、「方程式の解」を通じて「存在問題」をさらに見た。
そして、第1章の第5節は、数学を表面的にしか取り扱わない日本社会をみていく。
なお、「最高の役人は最悪の政治家である」は社会学者マックス・ヴェーバーの言葉である。
数学(論理学)がここで社会科学(政治学)や現実の政治と交錯することになる。
前回、方程式という言葉が日本社会で氾濫しているということを述べた
(なお、本書では「広く用いられている」という表現がなされている)。
本節ではここから話が始まる。
この点、日本教徒がこの「方程式」を比喩として用いた意図は「その答えとその道筋」を示すことにある。
そして、方程式に解があること、四次以下の代数方程式において方程式に解法があることも前回示した通りである。
これらのことを考慮すれば、この比喩が適切でないということは到底不可能である。
しかし、と著者は続ける。
「方程式」などの数学の言葉を比喩に使うならば、「解は存在するのか」とか「解法は存在するのか」というような意味で用いてほしかった、と。
何故なら、問題の解決において「どうやって問題を解決するのか」という手段よりも、「そもそも『解決できる問題』であるか」とか「『解決できる』としてその方法が存在するのか」という問題の方がより重要であるのだから、と。
数学の論理を社会に活用するならば、存在問題こそに意味があるのだから、と。
話はここから日本の現状に移る。
つまり、そもそも日本では「解がない方程式」や「解があっても解法が存在しない方程式」のことを教えたがらない。
これでは、数学を学んだとしても数学を社会に応用できないではないか、と。
著者は話を(日本の)官僚に移して、マックス・ヴェーバーの名言を紹介する。
つまり、「最良の官僚は最悪の政治家である」と。
この点、近代社会における官僚(依法官僚も同じ)は機械的に法律を適用する機械のようなものである。
つまり、「法律」や「命令」という解法が存在する状況で、解法(法令)を現実に効率的に適用する存在が官僚である。
当然だが、法律の適用に間違いがあってはならない。
その一方で効率性が求められる。
それゆえ、よき官僚は簡単になれるものではなく、相当の訓練を必要とする。
しかし、その結果、官僚は「現在する問題には解法が存在する」ことが当然の前提になってしまう。
一方、現実の政治では「解がない問題」や「解があってもその解法が存在しない問題」がある。
そして、これらの問題に対処するのが近代社会の政治家である。
しかし、前述の訓練の結果、近代社会の官僚は「解法は存在する」という前提で政治的な問題をみてしまう。
そして、政治家がその前提で問題に取り組めば、解がない場合、解法がない場合にとんでもない悲劇を巻き起こしてしまう。
よって、理想的な官僚は政治家に向かない。
これぞ「最良の官僚は最悪の政治家である」という言葉の意味である。
この点、「日本の官僚を近代主義の官僚とみなせるのか」と言われると少々わからない
(小室先生の時代はさておくとしても、現代に即して考えればさらに考えさせられることになる)。
ただ、マックス・ヴェーバーの前述の主張に従えば、仮に、近代主義の官僚であると考えたとしても、政治家に向かないことになる。
そして、日本ではその官僚が(近代主義的)政治家に転身している。
かくして、「(解のない状況において)問題解決ができない日本」が出来上がった、というのが小室先生の主張らしい。
具体例として、本書ではデフレ対策について述べられている。
本節の話はこれまでの小室先生の本に関する読書メモで出てきている。
以下は、それらの話を踏まえた感想をまとめておく。
小室先生は数学を社会に生かす場合、重要なのは「具体的な解法」よりも「存在問題」ということを述べている。
一方、現実では「存在問題」よりも「具体的な解法」の方が重要になっている。
まあ、この点は私も散々見せつけられてきたので、実感がある。
このことから「日本には数学それ自体を社会に生かす意思がない」という推測ができる。
また、小室先生が指摘するように、そもそも日本では「解がない方程式」や「解があっても解法が存在しない方程式」のことを教えたがらない。
この原因として、そもそも存在問題それ自体を知らないという可能性がある。
ただ、「『解や解法がない問題』の存在を認める意思がない」という推測もできる。
と、以上2点の妄想的推測をしてみると、その背後に(小室先生が主張した)日本的・盲目的予定調和説が見える。
この辺をまとめた読書メモは次のとおりである。
この点、日本的・盲目的予定調和説の特徴に「自己の所属する共同体の技術信仰」と「自己に所属しない技術などの軽視・無視」がある。
ならば、数学が自己の所属する共同体との関連性が乏しければ、数学を活用しようという意思が皆無であっても全く不思議ではない。
もっとも、数学との関連性が高ければ問題ないかというとそういうことにもならない。
この場合は数学に対する絶対信仰が生じてしまうからである。
また、日本的・盲目的予定調和説は「自己の所属する集団の任務の完遂」が目的化するから、「解法が存在しない」とか「解が存在しない」といった事情を認められるわけがない。
何故なら、解法や解が存在しないことを認めたら前提が吹き飛んでしまうからである。
このように見ると、上に述べた私の二つの妄想的推測はあながちあっているのかもしれない。
そして、本節が投げかける問題の根っこはかなり深いように見える(もちろん、日本についての言及は後の章でも触れている)。
とすれば、数学軽視の状況を反転することなど到底無理ではないか、と。
次回から2章について見ていく予定である。