薫のメモ帳

私が学んだことをメモ帳がわりに

『数学嫌いな人のための数学』を読む 6

 今日はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

『数学嫌いな人のための数学』を読んで学んだことをメモにする。

 

 

6 第1章の第4節を読む

 本節(第1章の第4節)のタイトルは「n次方程式には『解』ある_ガウスが発見した『解』の存在」である。

 

 第1章の第1節では、「古代イスラエルの宗教」を通じて「論理学」について見た。

 第1章の第2節では、「幾何学の三大難問」を通じて「数学」について見た。

 第1章の第3節では、「マゼランの大航海」を通じて「存在問題」について見た。

 第1章の第4節では、「方程式の解」を通じて「存在問題」をさらに見ていく。

 

 

 第1章の扉絵に表示されていたガウス(カール・フリードリッヒ・ガウス

 このガウスは歴史的な数学者のうち群を抜いている。

 これと同等と言える数学者はアルキメデス(紀元前3世紀)やアイザック・ニュートン(17世紀)であろうか。

 

ja.wikipedia.org

 

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 さて、このガウス

 逸話も事欠かないらしい。

 本書で紹介されている逸話は次のような逸話である

(なお、この逸話に出てくる具体的な数値にはばらつきがあるらしい、もっとも、ここでは本書の記載に従う)。

 

(以下、ガウスの逸話について、本書38ページの記載の要旨を掲載)

 小学校3年のとき、算数の先生が「50から500までの整数を全部足したらいくつになるか」と出題した。

 先生は「この問題を解くのに30分はかかるだろう。ならば、その間、ゆっくりすることができる」と考えていた。

 もっとも、ガウスはあっさりと回答したため、教師の目論見は完全に外れてしまった。

(逸話の要旨終了)

 

 他にも、19歳のころ、ガウス正十七角形をコンパスと定規のみで作図するという偉業を成し遂げた。

 そして、歴史的発見というべきものが「n次方程式には必ず解が存在する」というものである。

 なお、nは自然数であり、また、解には虚数解(複素数解)も含むものとする。

 

 ここで見ておくべきことは、この数学的な発見だけではない。

 ガウスの発表の方法についても見ておく必要がある。

 

 この点、地動説に対するカトリック教社会の反発についてはこれまで様々なところで言及した(これが記載された重要な読書メモは次のとおり)。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 同じように、ガウスの時代、「虚数」が実在しないと考える学者たちもいた。

 そのため、ガウスは「そもそも虚数を実在しないと『信仰』している学者たちが、自分の説明を理解できるのか」ということを懸念した。

 また、ガウスは「『複素数の導入』によって数学が大きく進歩する」という確信もあった。

 そこで、ガウスはあらかじめ実数に限定した理論を論文にして博士論文を提出した。

 その後、ガウス複素数まで理論を拡張することになる。

 

 ここで、ガウスの発見(証明した)内容をもう一度確認する。

 存在問題に引き付けた場合、次のような内容になる。

 

「n次方程式には少なくても1個以上の解(複素数も含む)が存在する」

 

 ここで重要なのが、「少なくても1個以上」の部分である。

「1個以上存在する」ならば「確実に存在する(存在しないことはない)」と言えるのだから。

 その意味で、ガウスの主張は存在問題に対する証明になっている。

 

 ところで。

 日本教徒がこのガウスの発見を見たとき、次の感想を持つのではないかと思われる。

 曰く、「方程式の解など、実社会生活とは無縁のものではないか」

 曰く、「そのような問題を考え続ける数学者は日本教的に奇妙奇天烈な存在ではないか」

 本書に書かれていないことを追加すれば、「このような証明を称賛する西洋社会は奇妙な社会ではないか」ということも加えていいかもしれない。

 

 この点、最初の感想である「実社会生活との関連性の乏しさ」についてはその通りであろう。

 しかし、ガウスによる代数方程式の解の存在問題を解決(証明)によって数学(代数学)に大きく貢献することになる。

 そして、数学を道具として利用する社会科学や自然科学にも大きな貢献をなすことになる。

 

 この点、ガウスがしたことは「存在するのかしないのかわからない」という状態を「存在する」と確定させたことになる

 これにより、代数方程式の解を求めるための諸々の行為が(とりあえず)無駄でないことが判明したからである。

 とすれば、これにより代数方程式の研究に対する数学者たちの士気は大いに高まったであろう。

 太平洋に乗り出していったマゼラン一行のように。

 

 なお、本書では具体例として神学が用いられている。

 神学における存在問題は「神が存在するのか」であるところ、この存在問題は極めて重要になる。

 というのも、神が存在しないなら、神が存在しないと証明されたら、神についてどれだけ緻密な理論を述べたところで無意味であり、砂上の楼閣と化すからである。

 

 そして、実際のところ、この存在問題は身近な例でも置き換えられる。

 例えば、「列車で東京から札幌まで行こう」と考えた場合、仮に、青函連絡トンネルがなければ、列車で札幌まで行く手段は存在しない。

 そのため、そのことを知らずに「列車で札幌まで行く手段」をいくら調べたところで無意味(無駄)になる。

 もちろん、現実では青函トンネルを使って列車で札幌まで行けるわけだが。

 

 以上のように、存在問題は極めて重要な問題になる。

 しかし、人々はその重大さに気付かないし、考えようとしない。

 これぞ一大事である、と小室先生は述べている。

 

 

 ところで、本節では、コラムとして数(自然数・整数・実数など)と方程式の解に関する話が紹介されている。

 少しだけ触れておく。

 

 数の概念を拡張していくと、

 

 自然数→整数(負の数に拡張)→有理数(分数まで拡張)

 →実数(無理数まで拡張)→複素数虚数と実数と虚数の複合体まで拡張)

 

という感じになる。

 そして、一次方程式の場合、自然数・整数・有理数によって解を表示することができる

 他方、二次方程式の場合、複素数まで拡張しないと解が表示できない場合がある複素数を用いれば解を表示できる)。

 

 そして、三次方程式の場合(解法はカルダノが示した)、数を複素数からさらに拡張しないといけないのではないかと考えられたが、複素数の範囲で解が示すことができた。

 四次方程式も然り(解法はフェラーリが示した)。

 いずれも16世紀のお話である。

 

 では、五次方程式はどうか。

 この点、これについてはわからない状態が19世紀まで続いた(前述のガウスにしても、「解法はほぼ存在しない」と考えてはいたらしいが、証明まではしていなかった)。

 そして、1825年、アーベルという数学者によって代数学的に五次方程式は解けない」ことが証明された。

 つまり、「解を求める手段が存在しない」と証明されたのである。

 なお、ここでいう代数学的に」とは「四則演算と根号のみを用いるという制限が課せられている」ことを指す。

 作図の制限と同じようなルールだと考えてもらえればいい。

 

 このように、五次方程式の解法が存在するのかが未確定の状況で、ガウスは「(とりあえず)解が存在する」と証明したわけである

 もちろん、五次方程式だけではなく、n次方程式においても。

 さらに言えば、解は複素数で表現できることも示したわけなので、複素数を構成する虚数についてもその存在価値を高めることになった。

 というのも、それまでは「虚数は想像上の数である」(その名前、IMAGIBARY_NUMBERの通り)という考えが強かったのだから。

 

 なお、アーベルの証明はガロアによってさらに精密化された。

 そのこともあり、現在では「ガロアの定理」と呼ばれている

 もっとも、ここでは歴史的意義から見ている関係でアーベルの名前を出している。

 

 

 さて。

 ガウスが証明した「n次方程式には、複素数の範囲で解が1個以上存在する(重解を複数回カウントすれば、n次方程式にはn個の解が存在する)」ということ。

 また、「五次以上の方程式は代数的な解法がない」という「ガロアの定理」。

 この二つの証明こそ数学の意味・重要性を示している。

 というのも、この二つを組み合わせれば、「答えは存在する、しかし、その答えを我々は知ることができない(方法がない)」となるのだから。

 

 そして、著者は嘆く。

 この事実は念入りに日本教徒に教えるべきであるのに、そのような形跡は欠片も見当たらない、と。

 というのも、日本では「恋愛の方程式」だの「出世の方程式」だの「方程式」という言葉が氾濫している。

 そして、この方程式と代数方程式を関連させるならば、「恋愛」にも「出世」にも「解が存在するが、一般的な解法はない」ということでなければならない(4次以下の代数方程式は全体のn次の代数方程式から見ればごく一部に過ぎない)。

 しかるに、現実はどうか、と。

 この点、「方程式」という言葉を濫用している人間、受け取る人間が「解があるが解法がない」という前提で用いているならばまだよい。

 しかし、現実では、濫用している人間もそれを受領する人間も「解も解法も存在する」という前提で話をしている。

 この前提、果たして現実と適合するか否か。

 しなければ、これほどの茶番(本書では「悲喜劇」という言葉が使われている)もないだろう、と。

 

 

 以上が本節のお話。

 とても面白かった。

 

 なお、「日本教徒」という表現は著者の表現ではない。

日本教徒」というのは私が考えた「典型的日本人」の言い換えである。

 

 それから、最後の悲喜劇は次の節の話とリンクしている。

 ただ、本章の最終節については次回に回すことにする。