今日はこのシリーズの続き。
『数学嫌いな人のための数学』を読んで学んだことをメモにする。
5 第1章の第3節を読む
本節(第1章の第3節)のタイトルは「新航路は果たして存在するのかしないのか_『解』を目的にしたか否かが問題だ」である。
第1章の第1節では、古代イスラエルの宗教を通じて論理学についてみてきた。
第1章の第2節では、「幾何学の三大難問」を通じて数学についてみてきた。
第1章の第3節では、「マゼランの大航海」を通じて「存在問題」についてみていく。
ヨーロッパの大航海時代はキリスト教社会にとって決定的な影響を与えた。
それはいわゆる「ヨーロッパ人から見た場合の『新大陸の発見』」という意味だけではない。
世界観ががらりと変わったのである。
この点、地球が丸いらしい、ということは古代のギリシャ人でも知られていた。
しかし、大航海時代によってそのことを実証してみようと試みる冒険者たちが現れる。
その冒険者のうち著名な人たちが、かのクリストファー・コロンブスであり、マゼランである。
もっとも、マゼラン一行は別の事実を発見した。
それは「地球は公転している」という事実である。
もちろん、天文学的な見地から地球が公転していることは、コペルニクス以降の天文学者によって示されていた。
もっとも、学問を使って証明したところで、その結果を信じない人間がいることは、現代の日本社会を見れば想像できるだろう。
さらに、中世のカトリック教社会の世界観と地動説の世界観が異なっていた。
そのため、地動説を信じない人間がいたことは想像に難くない。
そんな状況で、マゼラン一行は地球を一周する(マゼラン本人はフィリピンで死ぬ)。
そして、帰還した一行の航海日誌を見たところ、日付が1日ずれていた。
地球が公転していなければ日にちにズレが生じないので、この事実は地球が公転している事実を実証したことになる。
つまり、マゼラン一行は地球の公転を証明したのである。
そして、この事実(実証)が天文学者を感銘させることになる。
ところで、ヨーロッパの大航海時代の前、別の地方で大航海を行った人物がいる。
明の永楽帝の時代(15世紀初め)に行われた「鄭和による大航海」である。
鄭和は約3万の水平と62隻の船を使って、南京から長江を下り、アラビアまで至った。
そして、前後七回、インド洋を縦横無尽にかけまわった。
これはヨーロッパの大航海時代より約100年早い偉業である。
というのも、ポルトガルのバスコ・ダ・ガマがカルカッタに到着したのが1498年なのだから。
さらに、バスコ・ダ・ガマの船は100トンクラスなのに対して、鄭和の船は8000トンに及んだとされている。
その差は圧倒的である。
だがしかし、鄭和の大航海は、その後の明の内向化もあって忘れ去られることになる。
そして、後年、驚くべき巨大な船が発掘されるまで人々は鄭和のことを「伝説」としても忘れ去られてしまうことになる。
この点、ヨーロッパにおける大航海時代はヨーロッパを大きく変えた。
しかし、中国・鄭和の大航海は、ヨーロッパよりも規模が大きかったにもかかわらず中国を変えなかった。
この違いの原因は何か。
大きな違いは目的意識の違いである。
この点、ヨーロッパの大航海時代の冒険者たちは新航路の発見を目的としていた。
つまり、ヨーロッパの大航海時代の少し前、コンスタンティノープルがオスマン帝国によって陥落させられ、インドの香辛料などが入手しづらくなった。
そこで、航海者たちはインドへの航路を見つけるために、つまり、インドに至る新航路の存在証明のために海を渡っていったのである。
目的が存在証明であれば、証明されれば劇的な意味があることになる。
他方、大航海者鄭和には新航路の発見を目指す意図はなかった。
その結果、彼の空前の大航海も歴史的な意味がなく、忘却の彼方に消え去ることになった。
まあ、中国の状況、ヨーロッパの状況の違いを考えれば、この点はしょうがない面もあるようにみえるが。
さて、新航路という「解」を目的としていたヨーロッパの冒険者たち。
つまり、「新航路は存在するのか」という航路の存在問題が冒険者たちを正面から突きつけることになった。
そして、人々は存在問題を意識することになる。
それゆえ、コロンブスは西インド諸島に着いた際、ここはインドの近くであると考えた。
また、現在のアメリカ人の現地人のことをインディアンと呼んだ。
ただし、その後、アメリゴ・ベスプッチがアメリカ大陸が別の大陸であると示すことになる。
そして、バルボアがパナマ地峡を横断し、南北アメリカ大陸の向こうに大きな海があることを発見した。
その結果、南北アメリカ大陸という新大陸の向こうにインドがあると人々は考えた。
この南北アメリカ大陸の向こうにある海は現在は太平洋と呼ばれている。
このようないきさつにより、冒険者たちはアメリカ大陸から太平洋へ出るための海峡の発見にしのぎを削ることになる。
なぜなら、その海峡を越えてさらに西に進めばインドにたどりつくと考えたからである。
冒険者たちは必死に海峡を探す。
しかし、地図を見ればわかるとおり、南北アメリカ大陸は南北に長すぎた。
そのため、南に行けども北に行けども海峡は見つからない。
ある者は北を目指して失敗した(例としてフランクリン遠征がある)。
別の者はひたすらラプラタ川を遡り続けることになった。
そんななかで海峡探しに立ち上がったのが、マゼランである。
スペイン王はマゼランに5隻の艦隊を与えて、海峡発見に向かわせた。
マゼランは南へ進む。
しかし、海峡は見つからず、乗組員たちは疑心暗鬼になり、中には反抗する船長も現れた。
もちろん、マゼランにも相当の苦悩が襲った。
本当に海峡は「存在する」のか、と。
この場合、南から太平洋に出る道は存在しないことが確定し、マゼランの目的は絶対に達せられず、総ては徒労に終わりかねない。
存在問題にぶつかったマゼランはかなり苦しむことになる。
ところで、マゼラン一行が現在のマゼラン海峡を発見する直前、マゼランはパタゴニアで冬ごもりをした。
よって、強行して南下していたらマゼラン海峡は発見されたであろう。
そして、「海峡は存在する」と述べていたマゼランは預言者の如き威信を高められたに違いない。
しかし、現実はマゼラン海峡は発見されない状況の冬ごもりである。
だから、冬ごもりのとき、乗組員の反乱がおきた。
マゼランは反乱を起こした船長を処刑して、春を待ってパタゴニアから南に向かう。
そして、海峡(マゼラン海峡)の発見!
この点、神の視点(「後付け」と言ってもよい)から見れば、「海峡」は存在した。
それゆえ、海峡の発生は必然であった。
しかし、マゼランたちから見れば僥倖・奇蹟と言ってもよい。
彼らは、彼らの時代のヨーロッパ人は「海峡」があることを知らなかったのだから。
それゆえ、海峡を発見は、マゼラン一行は「神によって天国に召されるほどの感動と喜び」をもたらした。
そして、勇気百倍、未知の太平洋に乗り出していくことになる。
このように、存在問題は極めて重要な意義をもつのである。
さて、ここで出てくる存在問題。
この存在問題のプロトタイプ(原型)は数学にある。
もし、歴史や政治に存在問題を活用するならば、数学の論理を手本にする必要がある。
まず、数学の論理の標準形をみておく。
題材としては、方程式の解(根、root)を用いる。
方程式に関する解の存在問題は次のように与えられる。
1、方程式の解は存在するのか、存在しないか(わからない)
2、方程式の解が存在するとしても、解法が存在するか(わからない)
このような状況で、ガウスはn次方程式には必ず「解」が存在することを証明した(1の部分の証明)。
そして、この証明はマゼラン海峡の発見に匹敵するほどの重要性を示した。
つまり、この証明により方程式論の基礎が確立された。
しかし、ここで確認すべきは「方程式が解けない」という「言葉の意味」である。
「方程式が解けない」とは「代数的演算のみによっては」ということを指す。
例えば、前節の幾何学の三大難問。
「『これらの三大難問は解けない』ことが証明された」と述べた。
これも「ユークリッド幾科学における作図によって」という意味においてである。
つまり、作図はコンパス(ある点を中心にして一定の半径を描くことのみ可能である)と定規(2点を結ぶ直線を引くためにのみ用いることができる)によって行わなければならない。
そして、これらの手段だけでは難問は解けない、ということが「解けない」という言葉の意味になる。
そして、この手段の制限は厳格であった。
例えば、古代にも巧妙な学者がいて、定規とコンパス以外の器具を用いることで角の三等分を作図した学者はいた。
しかし、他の器具を用いた場合、「幾何学上の作図ではない」と判断されてしまう。
そのため、「角を三等分せよ」という命題の答え(証明)にはならなかった。
以上が第三節のお話。
この点、手段の厳格性を見ると、日本人がついていけなくなるのもわかるような気がする。
また、ここでは、大航海(歴史)と数学・論理がリンクしている。
これは興味深い。
次節については次回以降にみていくことにする。