薫のメモ帳

私が学んだことをメモ帳がわりに

『危機の構造』を読む 3

 今回はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

『危機の構造_日本社会崩壊のモデル』を読んで学んだことをメモにしていく。

 

 

6 第2章「日本型行動原理の系譜」を読む_後編

 まず、第2章のこれまでの内容をまとめる。

 

・昭和45年頃に日本を騒がせた過激派たちは深刻なアノミーに陥っていた

・これら過激派は社会における落伍者・無法者ではない

・過激派の行動原理となっていたのは「盲目的予定調和説」である

・この盲目的予定調和説は戦前の軍事官僚の行動原理にもなっており、その結果、戦前の悲劇を生み出した

・盲目的予定調和説に陥った状態の思考方式は、「目の前の目標に向かってひたすら努力すれば、すべてはうまくいく」というものである

・盲目的予定調和説に陥った結果、技術信仰・セクショナリズム・努力に関しない事実の無視といった欠点が露呈する

 

 

 以上を確認して、次に進む。

 この「盲目的予定調和説」、長所は全くないのだろうか

 そんなことはない。

 有能な指導者の下で特定の業務のみに集中することができれば、その人間はその業務において最高の成果を出すことだろう。

 しかし、彼自身がリーダーになった場合、最悪のリーダーになる。

 

 何故か。

 リーダーの役割は「予期せぬ事態・未来・新環境への対応・適応」にあるところ、その役割を果たすためにはあらゆる分野に精通していなければならないからである。

 にもかかわらず、「盲目的予定調和説」に陥っていた状態でリーダーとして振舞う場合、盲目的予定調和説の枠組みで処理してしまうことになるが、これでは現実においてリーダーとしての役割が果たせないからである。

 

 このようにして視点を大きくすると、この「盲目的予定調和説」が戦前の軍事官僚のみならず、高度経済成長における官僚にも広がっていることが分かる。

 当時のエリート官僚、つまり、東大法学部から昔の国家一種(国家総合職)を通過したキャリア官僚は他の人と比較して昇進も早く、地位も高かった。

 あるいは、財界・政界に進出して活躍する者もいた。

 このような特権的地位は彼らにノーブル・オブリゲーションの意識も持たせた(盲目的予定調和説にある「他の者と異なり、自らは選ばれしエリートである」)。

 また、東大に合格し、国家一種を通過するためには相応の選抜を潜り抜けなければならず、その意味で彼らには相応の能力がある。

 彼らが高度経済成長において果たした役割を否定できないし、また、否定すべきでもない。

 

 しかし、彼らは盲目的予定調和説に縛られている。

 その結果生じる欠点が、視野の限定から来る新規分野における総合的把握能力の欠如とイマジネーションの不足である。

 もちろん、彼らの従前の業務分野であれば総合的把握能力もイマジネーションも遜色ない。

 しかし、新しい分野であればその欠点が露呈する。

 その欠点の具体例が、前回述べた陸軍官僚の生産体制の問題と戦争に関する問題を調整しようとする意志と能力が欠けていたことであり、また、真珠湾攻撃において戦闘面の検討に熱中して、講和に関する検討を怠ったことである。

 本書に記載された他の例を挙げれば、第一次ソロモン海戦の際、水雷戦隊がツラギにおいてアメリカ艦隊を全滅させながら、アメリカ艦隊が護衛していた輸送船団に手を付けずに引き上げてしまった点も挙げられるだろう。

 この点、アメリカ艦隊の全滅によって戦闘の直接の目的は達成しており、輸送船団の壊滅は間接的・付随的な目的ということになる。

 また、全体的に見た場合、この輸送船団に手を付けないことが致命的な意味を持っていることも明らかである。

 しかし、盲目的予定調和説に陥っている彼らから見た場合、直接の目的であるアメリカ艦隊さえ壊滅させてしまえば、あとのことは自動的にうまくいくので、関知しない、しなくてよいと形で、彼らの思考の盲点になってしまうのである。

 

 以上は戦前の例であるが、戦後の例も本書には記載されている。

 それは公害についてである。

 本書の記載によると、公害裁判によって「工場の廃棄物のタレ流しが人命に危険を及ぼす可能性は早期に判明していた」という事実が出ているらしく、著者はこれに驚いている。

 何故なら「その可能性を認識して垂れ流しを止めなかったのなら、道義的に見て殺人である」と断罪されても抗弁できないからである。

 では、企業責任者、あるいは、産業の発展を促進しようとした関連省庁の役人は殺人常習犯のような精神状態にあったのだろうか?

 当然だがそんなことはない。

 彼らは日本の発展や(その発展の恩恵によって自分の利益の確保)の目的を持っていたことも否定できないであろう(それが免責理由にならないことも当然である)。

 とすれば、問題は、公害という現象に前例が極めて少なかったこと、そして、盲目的予定調和説に陥った場合、経済発展という国家目標があると、環境・付近の住民の生命健康など目的に関連しないことが視野の外側に消えてしまう点である。

 そして、この問題点は別に彼らに限って生じる話ではない。

 固有名詞を戦前の軍事官僚、真珠湾を指揮した海軍の当事者、前述の水雷戦隊、果てには、過激派に入れ替えても成立する。

 もちろん、私の身近な例を出すことも、私自身を例に出すことだって可能である。

 

 

 そして、近代化や高度経済成長を経た結果、高度管理社会におけるリーダーは多くの分野・業務を意識して総合判断をしなければならない。

 その一方で、盲目的調和説に陥った人間は逆に大量に生み出され、この思考方式は日本中を覆ってしまっている。

 ならば、アノミーの侵蝕範囲・深刻さもさることながら、盲目的調和説の侵蝕範囲やその深刻さも戦前以上に膨れ上がっているということになる。

 

 第1章の代議士の話と同様、ここで官僚を批判し、あるいは、血祭りにするだけでは意味がない。

 それによって、我々の気分はすっきりし、あるいは、被害者・遺族の無念は晴らされるかもしれないが、人が変わって類似の事件が繰り返されるだけである。

 社会科学的に見るならば、官僚が思考形式を認識し、官僚は官僚として働かせてその能率を最大化にし、官僚ではない人間にナショナル・リーダーを担わせるように社会を動かすことが必要である。

 そのために、そうなることなく官僚にナショナルリーダーの役割を押し付けていることの原因、その社会構造を理解することが必要になる

 

 

 以上が「盲目的予定調和説」による悲劇の話である。

 ここから、日本的組織の特徴を踏まえて話を進める。

 日本の組織の特徴として「機能集団の共同体化」というものがある。

 通常、「機能集団」は一定の目的のために組織されたものであるから、目的の達成や目的自体の消失等により、その機能集団は不要になり解散しても差し支えなくなるものである。

 しかし、日本の場合、この機能集団が生活共同体・運命共同体に変貌してしまう。

 このことは、少し前まで、日本が終身雇用システムを使っていたことや、本来、利益追求の集団であるべきだった企業が一種の生活共同体となってしまっている点を想像すれば理解できるだろう。

 その結果、機能体として不要になった場合でも残存する必要が生じてしまう。

 

 そして、共同体となってしまう結果生じる特徴は次のとおりである。

 

・集団間の移動が困難であること

・その集団が人間の作為の産物ではなく、自然現象や村のような所与の前提となること

・内外の峻別がなされ、構成員のパーソナリティーが吸収され、さらには、共同体によって再構成されてしまうこと

 

 そして、この機能体の共同体化という社会構造が盲目的予定調和説を促進することも次の関係から見えてくる。

 

・内外の峻別→所属集団外の事情の無視・無理解とセクショナリズム

・集団間の移動の制限→集団内の目的を達成する際の技術に対する過剰な信仰

・共同体への奉仕→努力の遂行により結果がよくなるという思考の強化

 

 ちなみに、盲目的予定調和説の「『努力の遂行』が成功をもたらす」という発想は、「『努力の遂行』の障害が失敗を誘発する」という発想を生む。

 よって、「努力の遂行を邪魔する人間は許されざるべき国賊または無知の徒である」となり、これと技術信仰が組み合わされれば「批判拒否症体質」になってしまう。

 この点は昔も今も大差ないらしい。

 違うのは、戦前の軍部は「問答無用」と言って銃をぶっ放す代わりに、戦後の政府・与党関係者は野党の批判を居眠りして聴いていないだけである。

 この批判拒否症体質と各機能機能集団の共同体化(サブカルチャー化)が機能集団間のディスコミュニケーションを生み、相互調整を不可能にしていることも明らかである。

 相互調整が不可能になれば、機能集団相互の紛争は活発化・深刻化し、当然、全体の目的の達成が困難になるのは言うまでもない。

 当然、現代社会は多数の機能体が複雑に関係しているのだから、機能集団相互の紛争・衝突を押さえることはより重要なことになっている。

 それに加えて、リーダーが盲目的予定調和説に侵され、紛争の調整を行う意思がなければ、仮に、諸問題が山積して調整が必要であるという意思があってもその能力がなければ、結果は推して知るべしである。

 

 

 ここまでは機能体の共同体化という「日本の社会構造」と「盲目的予定調和説」の関係についての話であった。

 ここから、盲目的予定調和説に陥った者がリーダーになった場合に起きる無責任体制について話が移る。

 

 盲目的予定調和説・技術信仰に陥る官僚などは本来は技術屋である。

 つまり、助言者・補助者になることはあっても、決定主体になることは想定されていない。

 そのため、その者がナショナルリーダーとしての決断を迫られれば、困惑するのが当然である。

 そして、困惑した際の指針になるのが、共同体と化している自分の所属する機能集団であり、その「機能集団の機能的要請」である。  

 前述の通り、この者にとって機能集団は自然がごとき所与の前提であり、自分の運命・生活を支える神聖なものでもある。

 その結果、ナショナル・リーダーとして振舞うことが要請されているにもかかわらず、自分の所属集団の機能的要請を達成するようにふるまい、かつ、その機能的要請に反する事情を無視してしまうのである。

 このことは首相になった東条英機が「英霊に申し訳ないから、中国からの撤兵はできない」と言って日米開戦に突入したケースにも強く現れている。

 

 

 以上、官僚的に見て優秀な者がリーダーになった途端に無能に転化する過程を見てきた。

 ただし、話はこれで終わらない。

 というのも、バブルがはじける前の日本においてこの官僚的な人物こそ理想とされていたのである。

 よって、盲目的予定調和説だのなんだのといったは日本のエリートだけの問題ではなく、日本人全体の問題なのである。

 だから、戦前のいわゆる軍国主義の暴走の失敗の反省はなんら活かされていないと言わざるを得ず、戦後の経済主義の暴走の果てが同様の失敗になってもなんら不思議がないことになる。

 本書では、軍国主義者たちをミリタリー・アニマル、戦後の人間をエコノミック・アニマルと形容し、さらに、イデオロギー・アニマルという言葉が飛び出してくる。

 イデオロギー・アニマルとは何ぞやというが、本書でたとえれば学生運動で暴れまわった連中や「過激派」や後述する大学教授たちのことであろう。

 本書にない例を足せば、今日のリベラルもそのように思われる(この辺は一度詳細をに検討したい)。

 

 

 ここで、大学紛争の際、いわゆる進歩的教授が全共闘の激しい攻撃にさらされたことが紹介されている。

 これは、ジャーナリズムで活躍している大学の教授が年功序列の上で胡坐をかいているようなものなのだから、当然とも言える。

 著者によると、この点を白日にさらした点を大学紛争の功績と評価している。

 また、三島由紀夫も東大駒場キャンパスの900番教室で東大全共闘と対峙した際、似たような言葉を述べていたと思われる。

 誰か文字起こしをしていないか探してみたところ、次のNOTEにあったので、お借りする。

 

note.com

 

(以下、該当部分引用)

 全学連の諸君がやったことの、全部は肯定しないけれども、ある日本の大正教養主義からきた知識人のうぬぼれというものの鼻を叩き割ったという功績は絶対に認めます。

(引用終了)

 

 つまり、「ロンドンの紳士はインドでの暴君」という諺の如く、論壇の進歩主義の大学教授は大学の教室における暴君であった。

 もっとも、この進歩主義者を偽善と片づけるのは重要な事実を見落としてしまう。

 これまで列挙した陸軍官僚・真珠湾攻撃を計画した海軍の当事者・ソロモン海戦における水雷艦隊・戦後の高度経済成長をけん引した官僚や企業エリート、さらには、日本を騒がせた過激派などと同様、彼らはある意味において誠心誠意で行動しているのだから(無論、それが彼らを免罪する理由とはならないこと、その倫理感・使命感が我々の理解からかけ離れていることに注意)。

 というのも、大学は共同体であり、進歩的大学教授を規律している規範は慣習・前例である。

 そして、それらを所与のものとみなし、学生に対する盲目的忠誠を要求しているからである。

 つまり、大学教授も盲目的予定調和説に陥り、大学共同体の機能的要請に従属しているわけで、大学の外側で主張している思想に従っているわけではない。

 このことは本書で紹介されている東大紛争の発端となった誤認処分疑惑にも現れている。

 大学の外でいくらデモクラティックで先進的なことを言える教授たちも大学という共同体の中では中世のような慣行と前例に縛られた無力な個人である。

 

 なお、この現象は労働運動の闘士にもあるらしい。

 細かい話は割愛。

 

 

 以上が本章の話。

「盲目的予定調和説」という日本人の意識と「機能体の共同体化」という日本の社会構造が相互に関連しながら、近代化や高度経済成長によって複雑化した日本社会において悲劇をまき散らしているのが分かる。

 いや、繰り返して起きていることを踏まえれば、喜劇と言うべきことかもしれない。

 無論、私自身も長い間盲目的予定調和説に囚われていたのであり(今でもその傾向から抜けきっていない)、他人のことを批判したり笑ったりすることはできない。

 

 そして、本書に書かれていない個人的な感想になるが、盲目的予定調和説と日本のエリート・理想像の背後には、二宮金次郎と浅見絅斎(山崎安齋)の幻影が見える。

 幻影なのは関連性が明確に結びついていないから。

 ただ、ここはちゃんと検討しておこうと考えている。