薫のメモ帳

私が学んだことをメモ帳がわりに

「痩我慢の説」を意訳する その9

 今回はこのシリーズの続き。

 

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 ここまで「私釈三国志」風に「痩我慢の説」を意訳してきた。

 今回も前回と同様、勝海舟への一連の論評について私が考えたことをまとめたい。

 

 なお、前回のメモを公開したのは1月26日。

 だいぶ期間が空いている。

 そして、この間に『危機の構造』と『日本の組織』をメモにした。

 そのため、前回と今回で私の意見が変わっているところもある。

 その辺も考慮しつつ、「痩せ我慢の説」について考えてみたい。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

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25 徳川家と徳川幕府の同一性

 前回は「勝海舟の未来において採るべき手段の当否」について考えた。

 次に、「徳川政権と徳川家は同一か」という点が気になった。

 問題点を抽象化すれば、「機能体と共同体の分離可能性」といってもいいかもしれない。

 

「総論」において、福沢諭吉は「死病に陥った親」と「滅亡寸前の政府」を同一のものとして扱った。

 つまり、機能体と共同体は不可分であると考えている(傾向にある)ことが見て取れる。

 山本七平の『日本人と組織』で学んだ観点から見れば、これは「一尊主義」に近い。

 つまり、日本古来の発想ということになる。

 

 この点、以前の私であれば「機能体と共同体は別であろう」と考える。

 だから、「『統治システム』と『親』は別」・「『政府』と『共同体』は別」という感覚になる。

 山本七平の書籍を読んだ今の私でもこの感覚に近い。

 だから、福沢諭吉の主張に対して、「共同体(徳川家)のためには城を枕に討死すべし」という意味であれば受け入れられるとしても、「統治システム(徳川幕府)のために城を枕に討死すべし」というならば「とんでもない」と考えることになる

 

 一方、勝海舟徳川幕府と徳川家を分けて考えていた」と推測される。

 山本七平の言葉を借りれば、「二尊主義」だったと言えよう。

 そして、勝海舟は徳川家臣団の生活再建や徳川慶喜の赦免にも奔走したと言われている。

 無血開城後に隠居した場合と比較すれば、勝海舟の明治時代の行為は十分「痩我慢」に値するのではないか。

 少なくても、徳川家との関係では

 

 このように見ると、二人の間に「一尊主義」と「二尊主義」の対立を見ることができる。

 また、勝海舟が二尊主義的立場であり、福沢諭吉が一尊主義的立場から非難する、という構造になっている。

 さらに言えば、福沢諭吉が日本古来の一尊主義側というのが興味深い。

 

 

 以上、第2章までを意訳した上で、さらに、色々と考えてみた。

 こうやって文章にしてみると、色々と自分の勘違いが見つかったり、理解が深まったりする。

 その意味で、このメモブログに『痩せ我慢の説』を取り上げてよかったように考えられる。

 

 もっとも、『痩せ我慢の説』の本文はまだ終わってない。

 以下、榎本武明に対する論評部分を「私釈三国志」風に意訳していく。

 

26 第二十二段落を意訳する

 榎本武明に対する論評が始まるのが第二十二段落である。

 まずはこの段落を意訳する。

 具体的には、「また勝氏と同時に榎本武揚なる人あり。」から「本魂の風教上より論じて、これを勝氏の始末に比すれば年を同うして語るべからず。」までの部分である。

 

(以下、第二十二段落の私釈三国志風意訳、これが意訳であることに注意)

 勝海舟とは別にコメントすべき人に榎本武揚がいる。

 榎本武揚勝海舟と異なり徳川政府の維持に奔走し、江戸から函館まで脱走して奮戦したものの、武運拙く降伏した人である。

 鳥羽・伏見の戦い以降、幕府が戦意を失ってひたすら憐みを乞うような状況であって、勝算がないことは(私も勝海舟榎本武揚も)承知であった。

 そんななかでの榎本武揚は抗戦は「痩せ我慢」に由来する武士の意地であった。

 北海の水戦・函館の籠城など、榎本武揚と彼に従った佐幕派幕臣・諸藩の人々の奮戦は人たちの奮戦は天晴である。

 この振る舞いは勝海舟とは雲泥の差がある。

(意訳終了)

 

 ここから話題は勝海舟から榎本武揚に移る。

 榎本武揚勝海舟と異なり、江戸城明け渡しの後も佐幕派と共に抗戦した幕臣である。

 この段落は榎本武揚の紹介なので、さっさと次の段落に移ろう。

 

27 第二十三段落を意訳する

 今回は次の第二十三段落まで意訳する。

 第二十三段落の範囲は、「然るに脱走の兵、常に利あらずして勢漸く迫り、」から「新政府の朝に立つの一段に至りては、我輩の感服すること能わざるところのものなり。」の部分である。

 

(以下、第二十三段落の私釈三国志風意訳、これが意訳であることに注意)

 しかし、榎本武揚らの善戦も空しく、「もはやこれまで」という状態になった。

 そこで、榎本武揚とその一部の人々は明治政府に降伏し、東京に護送されることとなった。

 勝敗は兵家の常である以上、敗戦と降伏を非難すべきではないし、新政府の寛大な処分も立派と言えるだろう。

 ここで話が終われば、美談で終わる。

 しかし、榎本武揚がその後、立身出世の意欲を持ち、かつ、新政府に重用されるとなったら話は別になる。

(意訳終了)

 

 ここで確認しておきたいことがいくつかある。

 まず、榎本武揚らの降伏それ自体を非難していない点である。

 つまり、福沢諭吉本人が「城を枕に討死にすべき」と述べてはいた(第十段落)が、現実の降伏それ自体を非難していない

 したがって、福沢諭吉は現実における一億玉砕以外の選択を十分許容していることが分かる。

 このことから、勝海舟に対する批判も「降伏のタイミングが早い」という批判であって、「降伏すべきではない(=江戸城を枕にして死ぬべきであった)」というものではない、ということが分かる。

 

 

 この点を確認して、次の段落に進んでいこう。

 しかし、ある程度の分量になったので、残りは次回以降に。