今日はこのシリーズの続き。
『小室直樹の中国原論』を読んで学んだことをメモにする。
2 第1章を読む_前編
第1章のタイトルは「中国人理解の鍵は『幇』にあり」である。
中国人の人間関係を形成する要素の1つたる「幇」について見ていく。
本書では、中国理解の困難さの理由の一つとして「中国の大きさ」を取り上げる。
つまり、人口・面積について日本と中国(中華人民共和国)を比較すると次のようになる。
なお、データについては最近のデータということで次のサイトのデータを拝借している。
(国際比較データ)
○各国の国土面積・人口・国民総生産等
出典:総務省統計局「世界の統計2022」
https://www.mlit.go.jp/road/toukei_chousa/road_db/pdf/2022/doc23.pdf
日本、人口:126(100万人)、面積378(千平方キロメートル)
中国、人口:1439(100万人)、面積9600(千平方キロメートル)
つまり、人口については中国は日本の約11倍、面積については中国は日本の約25倍である。
また、民族についてもある数え方に従った場合、54もあるとか。
とすれば、中国に関する情報について矛盾するものが出てきてもおかしくない。
本書では、その矛盾する情報として「中国人は誠実さにおいて絶対的に信用できる」と「中国人は絶対的に信用できない」というものを取り上げ、その両方が正解であると述べている。
では、この二つを両立させているルールは何か。
この点、「組んだ中国人の能力・性格による」という見解がある。
もちろん、中国で事業を組む場合、中国人共同経営者が必要・重要であることはいくら強調しすぎても強調しすぎることはないため、この点は誤りではない。
ただ、「どこの国にもいい人も悪い人もいる」という命題は、中国だけではなく、日本についてもアメリカについても言える。
よって、「中国固有の事情を説明するための基準」としてこれだけでは説明として不十分である、と言えそうである。
そこで、この命題をさらに詳細にする必要がある。
その際のキーワードが「幇」(幇会_パンフェ、自己人_ツーチーレンともいう)という人間関係である。
といのも、「幇」という人間関係は中国に見られ、日本にも欧米には同等の人間関係が存在しないからである。
ここで、「幇」を理解していくため、「幇理論」というモデルを作ってみる。
この場合、「幇理論」には次の特徴があることになる(もちろん、これ以外にも特徴がある、それについてはこれから適宜追加する)。
1、すべての人間関係を集合として考えた場合、「幇」と「幇以外」に分類される。
2、「幇」か「幇以外」かによって規範が大きく異なる。
3、「幇」の内部の人間関係は絶対的盟友と言うべきものである。
本書では、この「幇」について『三国志演義』(羅貫中著)を用いて説明していく。
というのも、『三国志演義』は日本人になじみがある一方、後の章で触れるように中国人のエートスは三国志の時代とあまり変わっていないからである。
三国志に登場する「幇」として有名なものが「劉備(玄徳)・関羽(雲長)・張飛(翼徳)」の桃園の契りである。
『三国志演義』では桃園の契りによって三人は義兄弟になったされるが、この義兄弟の関係が「幇」である。
この点、本当の兄弟であれば、利害関係もあれば、裏切ることもある。
また、親の相続・遺産を巡って血みどろの争いを繰り広げることもある。
つまり、本当の兄弟は利害から自由ではいられず、その意味で絶対的な信頼を置くことはできない(全称命題として成立するものではない、という意味で)。
これに対して、桃園の義兄弟の関係は利害・争いから自由であり、絶対に信頼でき、理解でき、生死を共にできる。
この絶対的信頼関係こそ「幇」の人間関係である。
『三国志演義』においてこの3人の義兄弟の関係は恐ろしく固い。
そして、この3人が運命共同体であったことも。
これが「幇(幇会)」の人間関係である。
なお、本書は中国人の人間関係を理解するために『三国志演義』は絶好の教材であると述べる。
また、毛沢東は『三国志』を熟読したがために人民革命に成功し、蒋介石は『三国志』を読まなかったために台湾に追いやられたという説があるが、もっともである、と。
そこで、これからも『三国志』を用いて人間関係についてみていくことになる。
なお、日本では『三国志演義』として有名なものに、次のものがある。
さて、「幇」の人間関係を『三国志』の桃園の契りから見出した。
では、「幇」の余事象たる「幇外」の人間関係はどうなるか。
結論を極めてシンプルにしてしまえば、「何をしてもいい」ということになる。
と述べると、「ばんなそかな」と言うかもしれない。
しかし、「可能であるならば、仲間以外の人間には何をしてもいい」という規範を持つ集団は歴史上存在した。
本書取り上げているのが、アラビアに存在する古代ベドウィンの民である。
あるいは、日本の武士であっても卑怯者であることは最大の侮辱・屈辱を意味したが、これは「相手を殺傷するべき時に殺傷しなかったこと」に対して向けられる。
このように、過去において、「現代から見て違法な行為(殺人・略奪など)」をしないことが倫理的な非難に値するといったことは普通にありうる。
本書にない言葉で補えば、現代においても「仲間以外は皆風景」という言葉もあるくらいである。
また、現代において人権概念が規定されているが、これは「人間」だけに与えられているものであり、人間以外の動植物に適用はない。
よって、人間に対しては到底許されないようなことであっても動植物に対してはいくらでもやることができる。
動植物を人間のように慈しみ、その結果として重要な利益を放棄したら、その人間は利害を共にする人間から非難されるであろう。
幇内と幇外の関係はこのように見ることもできないではない。
では、「幇内は絶対的人間関係、幇外はなにをしても自由」というものから何を見出すことができるか。
まず、「倫理・道徳は集団内を対象とするものと集団外を対象とするもので違った基準を採る」ということであり、いわば「二重規範」の存在である。
だから、幇内と幇外では行動規範が異なり、内側では生死を共にするといった最高の倫理・道徳が支配する一方で、幇外ではやりたい放題、といった無道徳状態のようなことにもなる(厳密に言うならば、「無道徳状態になることもならないこともある」になる)。
そして、この二重規範が共同体の特徴であることを考慮すると、「幇」は共同体である、ということになる。
中国の現実を見た場合、この「幇」と「宗族」によって共同体が組み立てられている。
そして、この共同体の組み立て方が中国社会の組織的特徴を決定している。
よって、「幇」の理解が重要になるのである
(なお、血縁共同体たる「宗族」については第3章でみていく)。
以上、「幇」について現実に適合するような理論(モデル)を組み立てた。
それを見ることにより、その中国人が信用できるか否かは、「相手の中国人がこちらを幇内の人間としてみているか、幇外の人間としてみているか」によることが分かった。
前者なら絶対的に信用される一方、後者であればそうもいかないどころか徹底的に搾取されることもある。
ただ、この説明をすると、次のような質問がされることもある。
「中国人は『約束』を守らない。具体的に言えば、納期を破る、自分に都合の良いように『約束』を解釈するといったことをする。これは『幇』と関係ないのではないか」と。
これを近代法の言葉で置き換えれば、「事情変更の原則」の濫用ということになろうか。
事情変更の原則とは、契約締結時に前提とされた事情がその後大きく変化し、当初の契約どおりに履行させることが当事者間の公平に反する結果となる場合に契約の解除や契約の改定を認める法原理ことを指す。
この原則の根拠条文は信義則(民法1条2項)であるところ、信義則が直接の根拠となっていることからわかる通り、例外的に適用されるルールである。
このことは事情変更の原則が適用される要件を見てみると分かる。
(事情変更の原則が適用される要件)
1、契約締結後に契約の基礎的・客観的事情に著しい変化が生じたこと
2、事情の変化につき当事者が予見不可能だったこと
3、事情の変化につき当事者に帰責性がないこと
4、契約どおりの履行を強制することが著しく公平に反し、信義則に反すること
なお、以上の資料は次のウィキペディアの記事を参照している。
以前のメモで述べた通り、資本主義の精神を支える要素に「労働の目的化」と「合理的経営」がある。
その観点から見た場合、事情変更の原則は基本的に否定される。
事情変更の原則を安易に適用すれば、合理的経営など吹っ飛んでしまうから。
つまり、市場機構を作動させるためにも、合理的経営を実効化させるためにも「事情変更の原則」は例外的なものに過ぎない。
逆に言えば、事情の変更による不利益は各当事者が負担しなければならない危険責任である、と言える。
このことから見た場合、中国人の「事情変更の原則(抗弁)」を利用それ自体が、日本人から見た場合の「信用できないこと」の根拠となる。
これは「幇」と関係あるのだろうか、と。
この点、本書は科学的分析である。
つまり、最初に「幇」と「幇外」と区分し、それぞれを単純化して述べてきた。
「幇外」は「幇内」との対比で無秩序と述べたが、完全な無秩序というわけでもない。
そこで、幇外の世界をより細かく見ていくために『三国志演義』をみていく。
具体的に見ていくのは、赤壁の戦いにおける関羽と曹操(孟徳)のシーンである。
そして、華容において最後に曹操を待ち伏せしていたのが関羽である。
ここで関羽が曹操を討った場合、中国の歴史はどうなっていたか。
まあ、『三国志演義』という中国と日本の最大の大衆文学は失われるだろう。
また、「出師表」・「秋風五丈原」は存在せず、関羽が庶民に神様としてまつられることはない。
めでたくなし、めでたくなし、といったところか。
しかし、『三国志演義』では関羽は曹操から受けた恩義を思い出して、曹操を逃がすことになる。
これらの事実を理論に取り込む場合、「幇外」を詳細化するという形で取り込むことになる(事実、第2章ではさらに見ていくことになる)。
ここで見ていくべきは華容における関羽と曹操のやり取りと曹操と関羽のこれまでのいきさつである。
赤壁以前、いや、官渡の戦いの前、曹操は徐州で劉備を打ち破り、関羽勢をも包囲した。
しかし、関羽の人材にほれ込んだ曹操は関羽を降伏させ、また、関羽も条件付きで曹操に降る。
その条件のうち重要なものは、「劉備の所在が分かり次第、劉備を追うこと」である。
曹操は関羽の歓心を買うべく関羽を賓客としてもてなし、さらには、呂布の赤兎馬をも関羽に与える。
これに対して、関羽は、袁紹軍と渡り合った際、袁紹側の武将である顔良・文醜らを斬るなどして功績を挙げた。
もっとも、劉備が袁紹の下にいると知るや否や、関羽は曹操の下を離れ、劉備の下に走ることになる。
このように、曹操と関羽との間には「幇」はなく、それゆえ、絶対的な規範も存在しない。
しかし、恩義という相対規範は存在した。
この相対規範は絶対的規範とは質においてはるかに異なるものであるとしても。
というのは、相対規範は守る守らないは自由である一方、絶対規範は守らなければ人間扱いされないことになりかねないからである。
そして、関羽はとりたて義を重んじる人であった。
そこで、曹操は関羽に対して過去の恩義を持ち出して関羽の義に働きかけた。
これに対して、関羽は一度は「丞相(曹操)からいただいた恩は、袁紹軍の顔良・文醜を斬ることで報いている。よって、ここで私情を挟むことはできない」と述べて突っぱねている。
また、ここで私情を優先させたら、軍規に従って関羽の方が死刑になることも。
つまり、関羽は自己の意思で(自由意志で)曹操を逃したことになる。
一つは、幇内と幇外では基準が全く異なること。
関羽は幇内にいる劉備の居所が分かるや否や、幇外の曹操の下を離れて去っていったのだから。
これは、これまで見てきたことの確認である。
次に、華容でのやりとりから。
関羽は義を重んじる人であるところ、曹操から受けた恩を思い出したことに「心を動かされ」、結果として、曹操を逃した。
「心を動かされ」た結果ということは、ここでのやりとりは絶対的な規範に基づいていないことを意味する。
絶対的な規範は心の状態に関係なく規範を実行する義務が生じるからである。
つまり、幇外には相対的な規範があるに過ぎない、ということ。
このことは、華容で待ち伏せをしていた人間が関羽ではなく呂布であったら、と考えることで理解できる。
しかし、この点については次回以降にみていく。