今回はこのシリーズの続き。
『日本人のためのイスラム原論』を読んで学んだことをメモにしていく。
16 「第2章_イスラムの『論理』、キリスト教の『病理』_第3節」を読む(中編)
前編では中国の刺客についてみてきた。
司馬遷が『史記』で示した中国の刺客たち、彼らは欧米の暗殺者と異なる点が多い。
今回は刺客となった中国人、また、これらを尊敬する中国人の背後にある考え方についてみていく。
刺客になった人たちの背後にあった考え、それは「豹は死して皮を留め、人は死して名を留む」になる。
つまり、刺客たちは自己の名前を歴史に刻むために刺客となった。
この点、彼らの目的から見た場合、「刺客になる」という選択肢は不合理に見える。
というのも、「名を刻みたいのであれば他に手段があるだろう」という疑問が思い浮かぶからである。
努力して政治家になる、軍人になる、商人になる、などなど。
この点、身分のあるこの時代に努力ごときでできることなど限られているのではないかと考えられるのだが、それはさておき。
しかし、彼らが望んだものはただの名誉欲ではない。
「男子たるもの、かく生きるべし」、その模範を示して歴史に名を刻むことこそ彼らの目的である。
自分は壮士として生き、また、自分の名前は壮士として永遠に語り継がれる。
そのような目的が達成できるなら自分の生命や現世での栄華など必要ない。
かくして、聶政や荊軻は刺客となったのである。
事実、刺客列伝に掲載された聶政、荊軻、そして、豫譲の名は今でも語り継がれている。
漢民族が滅びるまで、あるいは、人類が滅ぶまでこれは続くであろう。
このことから、中国では「歴史」の重みは強いことになる。
さて、この「死んで歴史に名を残すことができれば、この世の幸福や命は惜しくない」という感覚。
この「現世の幸福や命にこだわらない」点は宗教に通じるものがある。
例えば、キリスト教やイスラム教では、最後の審判の後に救済が訪れると考える。
そして、「その救済を得るためには現世の幸福などにこだわるな」と説く。
また、仏教では、苦をもたらす因果のくびきから逃れ、「涅槃」に至ることで救済される、と述べる。
そして、「『涅槃』に至るためには、現世の幸福を振り捨て、出家せよ」と釈迦は言った。
中国の「歴史教」も似た構造がある。
キリスト教やイスラム教では最後の審判によって救済された人間が永遠の命が与えられる。
それに対して、中国では歴史の中に名を刻むことで永遠の命を得る。
中国の刺客たちはそのために命を捨てたことになる。
この点を示しているのが、刺客列伝に記された「豫譲」の物語である。
豫譲には自分を国士として扱った智伯という主君がいた。
この主君が趙襄子に討たれた。
そこで、豫譲は主君の仇を討つため趙襄子の暗殺を考える。
しかし、一回目の暗殺は失敗する。
趙襄子の側近は豫譲の処刑を進言するが、趙襄子は豫譲の忠誠心を惜しんだのか、彼を釈放する。
しかし、豫譲は趙襄子の暗殺をあきらめなかった。
豫譲は趙襄子を暗殺するために、ハンセン病(20世紀まで不治の病とされていた)を患ったかのように装った。
さらに、自分の声が出ないようにし、さらには、ぼろぼろの物乞いの振りをした。
これらの行為に対して、豫譲の友人は「あんたは優秀なんだから、そんな振りをしなくても、趙襄子に仕えて暗殺のチャンスを探せばいいではないか」と忠告する。
まあ、普通の忠告である。
しかし、豫譲は「趙襄子に仕えて暗殺したら、家来が自分を主君を殺すことになってしまう。それでは、後世の模範にならないではないか」と答えたと言われている。
この豫譲の姿勢、宗教と求道者と大差ないと言っても差し支えないであろう。
さて、中国の「歴史教」という言葉を見て、違和感を持つ人がいるかもしれない。
著者(小室直樹先生)によると、中国の歴史教は儒教を補完するものとして機能するという。
つまり、儒教は集団救済を目的とし、個人の救済は基本的に考えない。
聖人が理想的な政治を行えば、集団が救済され、その救済に個人が与るという形をとる。
このことは孔子のエピソードからもわかる。
とすれば、儒教の教えに従って、親に孝を尽くした者、あるいは、君に忠義を尽くした者たちを、天は救わないことになる。
しかし、天の代わりに歴史が彼らを救済することになる。
そして、この「歴史による救済の確信」が刺客たちの根底にあった。
だからこそ、彼ら刺客たちは生還かなわぬ暗殺を実行したと言える。
この点、キリスト教の歴史にはたくさんの殉教者がいる。
しかし、彼らは死をおそれなかった。
彼らにも「救済の確信」があったからである。
クリスチャンは神による救済、刺客は歴史による救済という違いはあれ、救済の確信があったことは間違いない。
こうやってみると、刺客たちは中国の歴史教の殉教者だったと言える。
ところで。
司馬遷の刺客の話は昔の話であって、現代の話ではないと考えるかもしれない。
しかし、この発想は南宋末期の時代にもあったことがわかる。
文天祥の話はここでも触れており、日本の思想、特に、天皇教と大きくかかわっている。
一部、重複があるかもしれないがご容赦願う。
宋の時代、中国は文化的・経済的にに大いに成熟した。
しかし、文化・経済の重点を置きすぎたせいか、文官を重用しすぎたせいか、軍事力はふるわなかった。
そのため、宋は北方の国々の侵略に悩まされることになる。
この点、11世紀の間は、遼や西夏に対しては財貨を送ってなんとかしていた(いわゆる澶淵の盟や慶暦の和約)。
しかし、12世紀にはいると、金によって北方を占領され、宋は南に追いやられてしまう。
これがいわゆる「南宋」である。
ところが、その後、金を滅亡させたモンゴル帝国がやってきて、南宋は窮地に立たされる。
これに対して、南宋の皇帝は勤王の士を募る詔を発するが、応募する人間さえ現れない。
しかし、そこに文天祥という例外が現れる。
まあ、応募する人間が現れないことからわかる通り、南宋の劣勢は明白であった。
文天祥の奮戦むなしく、彼は囚われの身になる。
元の皇帝フビライは好条件で文天祥を仕官させようとするが、文天祥はこれを拒否する。
獄につながれること3年、フビライは惜しみながらも文天祥を処刑することとなる。
なお、ここであっさり「拒否する」と書いたが、これはすごいことである。
臣下の礼をとって仕官すれば、この世での栄華が待っていたであろう。
モンゴル帝国は耶律楚材など異国の人間を重用した例が少なくない。
他方、拒否すれば、その場で首を切られてもおかしくないのだから。
ところで、獄につながれたときの文天祥の心境を現した彼の詩がある。
それは「人生古自り 誰か死無からん 丹心を留取して 汗青を照らさん」(『零丁洋を過ぐ』の最後の部分より)というもの。
意訳するなら「人はいずれ死ぬ、死ぬなら我が真心を歴史に残して後世の模範になってやろうではないかっ」(私釈三国志風意訳)といったところであろうか。
ここにも、中国の「歴史教」を見ることができる。
この文天祥の逸話と司馬遷の「刺客列伝」を合わせてみることで、中国の「歴史が個人を救済する」という歴史教の構造が見えてくる。
もちろん、その一方で「政治が集団が救済する」という儒教があるわけだが。
そして、歴史教をこのようにみることで、歴史は一神教における神であり、刺客は歴史教の殉教者である。
そして、史家は歴史(神)が掲示するものを示す人間であり、啓典宗教における「預言者」の役割を果たしている。
それゆえ、司馬遷は刺客の記録を遺す義務があった、ということになる。
ところで、文天祥の遺したもので、幕末の日本で著名となったものとして「正気の歌」というものがある。
ここで文天祥は中国の歴史に現れた代表的な人物を挙げていく。
該当する部分を引用しよう。
(以下、上記リンクから引用、強調は私の手による)
在齊太史簡 在晉董狐筆
在秦張良椎 在漢蘇武節
爲嚴將軍頭 爲嵆侍中血
爲張睢陽齒 爲顏常山舌
或爲遼東帽 淸操厲冰雪
或爲出師表 鬼神泣壯烈
或爲渡江楫 慷慨呑胡羯
或爲撃賊笏 逆豎頭破裂
(引用終了)
最初に登場するのが、「在齊太史簡」つまり、斉の国の史官のトップの話である。
斉の大臣・崔杼は自分の君主荘公を殺してしまう。
まあ、当時、この荘公は崔杼のおかげで君主になれたという事情があるだが。
このとき、斉の太史は「崔杼、その君を弑す」と記録に残した。
この行為が時の権力者となった崔杼の怒りを買わないわけがない。
この太史は直ちに殺された。
しかし、この太史を継いだ彼の弟が「崔杼、その君を弑す」を記録に残した。
そこで、この弟も崔杼に殺される。
しかし、弟の後を継いだ太史も「崔杼、その君を弑す」を記録に残した。
さすがに、崔杼もあきらめてこれを許した。
(本書では、本人と弟二人の合計3人が殺されたと書かれているが、原典を見る限り殺されたのは二人になっているので、ここでは二人としておく)
なお、太史の兄弟が殺されたと知って、別の史官は「崔杼、その君を弑す」と書いて駆けつけたというおまけまでついている。
ともあれ、このおかげで「崔杼の不忠」は歴史に残っているわけだが。
ちなみに、次に登場する董狐も晋の史家である。
彼は晋の国史に「趙盾、その君(霊公)を弑す」と記録を遺す。
まあ、趙盾は霊公から殺されるところを間一髪で逃れ、逃れている間に霊公は殺されたのであって、直接手を下したわけでもないため、「弑す」というのは少し酷な気がするが。
(なお、本書の296ページでは「斉の大臣・崔杼(さいじょ)は、君主たる荘公(そうこう)が弑される(殺される)のを放置した」との記載が296ページにあるが、これは趙盾と取り違えたものと思われる、細かいことであるが記載しておく)
以上を見ればわかる通り、中国における歴史家はただのオタクやマニアではない。
歴史の重さ・歴史に殉じる覚悟なければ史家にはなれない。
このことを歴史が教えてくれる。
そして、史家の姿は啓典宗教の預言者に通じるものがある。
ところで、この刺客を歴史に刻むという発想、このような発想はアメリカやヨーロッパにはない。
例えば、ジュリアス・シーザーを暗殺したブルータスを讃える箇所が歴史書にあるか。
あるいは、『ローマ帝国衰亡史』に皇帝暗殺者列伝があるか。
そんなことはない。
そして、これが文化の違いである。
ヨーロッパやアメリカと異なり、中国では「歴史を普遍・不変のもの」と考える。
それを示すのが、唐の皇帝・太宗が語った次の言葉である。
(以下、本書にある『貞観政要』の仁賢篇から引用)
それ銅をもって鏡となせば、もって衣冠を正すべし。古をもって鏡となせば、もって興替を知るべし
(引用終了)
つまり、「(自然科学法則と同様)歴史の法則は古今東西を通じて一貫している」ということである。
ならば、「歴史は繰り返す。一度目が悲劇で、二番目が茶番かさておいて」ということになり、「現在を知り、未来を予測するためには歴史ほど役に立つものはない」ということになる。
以上、中国の歴史教と歴史観についてみてきた。