今回はこのシリーズの続き。
『日本人のためのイスラム原論』を読んで学んだことをメモにしていく。
15 「第2章_イスラムの『論理』、キリスト教の『病理』_第3節」を読む(前編)
今回から第2章の第3節に進む。
第2章の第3節のタイトルは、「『殉教』の世界史_イスラムのジハードと中国の刺客、その相似性」。
これまで、イスラム教について見るため、キリスト教やユダヤ教についてみていくことが多かった。
しかし、この節では中国における「救済」についてもみていく。
中国における「救済」がイスラム教の理解に役に立つからである。
両者は同じ啓典宗教であるが、異なる点が多い。
両者の特徴をまとめると次のようになる。
・キリスト教_信仰を重視・基本的に予定説
・イスラム教_信仰と規範の双方重視・宿命論的予定説
このことから、キリスト教とイスラム教の隔たりは非常に大きいことがわかる。
このことから、相手と妥協する、または、相手を打倒するためにも相手の理解は重要になる。
このことは、『孫子』の「彼れを知りて己を知れば、百戦して殆うからず」という言葉を持ち出さずとも明らかである。
ところで、2001年のセプテンバー・イレブン。
当時のブッシュ大統領の言動を見ていると、キリスト教徒の発想でしか物事を見ていないように推測される。
周囲にいる、あるいは、アメリカにいるイスラム教やイスラム社会の研究者から何かを教えてもらった、といった形跡がない。
これでは、イスラム社会を理解するのは無理というしかない。
まあ、最後まで相手を理解する気がなく、相手を一方的に蹂躙する気しかないならば、それでいいのかもしれないが。
このことを裏付けているのが、実行犯たちのことを「ならず者」とか「狂信者」と述べている点である。
この点はブッシュ政権に限った話ではない。
アメリカのマスメディアについても同様のようである。
もちろん、キリスト教徒やアメリカ・ヨーロッパの発想に立った場合、「自分の命を捨てて旅客機を乗っ取り、軍事施設でもないビルに突っ込んでテロを実行する」ような人間は「まともではない」と考える。
よって、アメリカ人の目から見て「狂信者」・「ならず者」と判断したことは必ずしも不当というわけではない。
確かに、体当たりに利用した旅客機は軍用機ではない。
また、体当たりしたビルも軍事施設ではない。
そして、ビルで働いていた人間は民間人であり、具体的な罪もない。
よって、これを無差別に殺してしまえばテロになる。
さらに、アメリカの基準に従えば、このような行為に出た人間は「狂信者」となる。
このことは、J・F・ケネディやリンカーン大統領などの暗殺者に対する評価を見ればわかる。
その意味で、アメリカではテロや政治的な暗殺に対して非常に厳しい判断を下す。
賛美をすることはもちろん、同情することすら許されない、といってもよい。
その厳しさは日本の「空気」に支配された状況に劣るものではない。
しかし、この基準は世界共通ではない。
理性的判断に基づいてテロや暗殺を行うことがありうる。
また、やむに已まれぬ場合など例外的な場合には暗殺者が尊敬される文化もある。
残念ながら、アメリカの上記反応を見ると、アメリカにはその認識がないようである。
これに同調しているヨーロッパや一部のアメリカかぶれした日本人も。
なお、本書に書いていないことを追加して書くと、「狂信者扱いするか否か」という点と「実行者を厳罰にすべきか」という問題はストレートに関係しない。
「狂信者ではないが、厳罰に処する」という選択があることはちゃんと認識しておくべきである。
さて。
世界にはやむに已まれぬ場合など例外的な場合には暗殺者が尊敬される文化がある。
その具体例がイスラム社会である。
イスラム社会では政治家の暗殺はよく行われていた。
また、暗殺教団として恐れられていた集団もあった。
このことは、イスラム社会においてはテロや暗殺を善と考える、あるいは、例外的な場合に善と考えるといった思想があったことを十二分に推認させるであろう。
もっとも、同様の思想を持つ文化は中国にもある。
そのことが端的に示されているのが、中国の太史公・司馬遷の書いた『史記』である。
後世において最高の史書と呼ばれた『史記』、ここには「暗殺者賛歌」がある。
つまり、『史記』の中に暗殺者を讃えるための章が存在する。
その章は『刺客列伝』と言われている。
このことから、暗殺者・刺客に対する扱いが万国共通ではないことがわかる。
アメリカやヨーロッパでは犯罪者・異常者扱いされるのに対して、中国の場合、讃えるべき人として歴史書に名が残るのだから。
この点、『史記』は「人を基準にして歴史を記す」という形式、つまり、紀伝体で書かれた文章である。
そして、『史記』では、皇帝・天子の伝記である「本紀」があり、次に、天子・皇帝に仕える諸侯を扱う『世家』があり、さらに、臣下の伝記としての「列伝」に続く。
この形式を作り出したのはもちろん司馬遷である。
もちろん、一般人がこの「列伝」に掲載されることは大変な栄誉となる。
実際、名丞相や大将軍クラスでない限り、列伝にリストアップされないのだから。
また、韓非子や孟子でさえ司馬遷は単独の列伝を立てていないのだから。
司馬遷はこの列伝に「刺客列伝」という章を設け、6人の刺客(暗殺者)の生涯を記した。
ちなみに、「刺客列伝」の位置を見ると、『史記』にある70の列伝の26番目、前後にあるのが「呂不韋列伝」と「李斯列伝」である。
呂不韋と李斯はいずれも秦の政王(後の始皇帝)に仕えた丞相である。
もちろん、司馬遷は適当にこの場所に放り込んだのではなく、それなりの意図があった。
そのことは司馬遷の友人の言葉を借りて記した次の言葉からもわかる。
(以下、本書にある刺客列伝の巻末の記載を引用)
『ここに掲げた刺客は、ある者はそれに成功し、ある者は成功しなかった。しかし、いずれも一度、志に決めたことを守りとおした。彼らの名は後世に残った。彼らの行為はけっして無意味ではなかったのだ』
(引用終了)
このことから、司馬遷は、刺客(暗殺者)はただの犯罪者ではないこと、まして異常者でもないこと、それどころかその行為は賛美に値すること、そして、「後世に名を残すべき存在」であると考えていたことになる。
では、司馬遷は刺客(暗殺者)のどこを賛美しているのか。
その際に、気を付けなければならないのが、欧米の暗殺者と中国の刺客の違いである。
この点、欧米の暗殺者と中国の刺客はその性質が大きく異なる。
欧米の暗殺者のタイプは、大きく二つのタイプに分類される。
一つは、邪魔な政敵を排除するために自分の命を捨てて邪魔者を排除するタイプ。
アメリカ人がいうところのいわゆる「狂信者」である。
そして、もう一つが依頼人と契約を結んで報酬を受け取って暗殺を実行するプロの殺し屋である。
このタイプは営利目的があるので、自己の生還を前提に行動する。
生還しなければ報酬をもらって暗殺する意味がないからである。
このように、欧米の暗殺者はいずれのタイプであれ自己の利益のために行動する。
プロの場合は報酬のために暗殺し、アマチュアの場合は死後ではあるが自分の望みを果たすために暗殺する。
これに対して、中国の『史記』刺客は欧米でいうところの「自己の利益」の為に暗殺を実行しない。
刺客列伝に登場する人物で「刺客中の刺客」として尊敬される人物に聶政という男がいる。
この聶政と荊軻は刺客の中で特に有名である。
この聶政はターゲットである韓の大臣・侠累を暗殺したが、現場からの帰還がかなわず、自殺した。
また、韓は刺客(聶政)の身元が分からず、死体を公開して身元を求めた。
そして、刺客の死体を見た聶政の姉は、刺客が聶政であることがわかり、「この男は私の弟で聶政である」と述べ、周囲の人の「そんなことを言ったら、あなたにも危難が及ぶ。だから、言わないほうがいい」という静止に対して、「私が言わなければ、弟の名は埋もれてしまう。それでは弟がかわいそうすぎる。名乗った以上は覚悟している」という趣旨のことを述べ、その場で自決した、と言われている。
人々は聶政だけでなく、その姉の立派さを讃えたといわれている(だからこそ、史記にはこのエピソードが掲載されている)。
このように姉弟ともに名を挙げたわけだが、ここで一つ確認しなければならないことがある。
それは、聶政が侠累に対して会ったこともなければ、恨みすらなかった。
というのも、聶政は斉の国の人間であり、韓はよその国である。
つまり、聶政に侠累を暗殺するメリットはない。
また、聶政には生還を期すことができなかったのだから報酬もない。
そんな状況で、聶政はなぜ自らの命を捨てて刺客となったのか。
それは、厳遂という男に頼まれたからである。
つまり、代理殺人ということになる。
もっとも、この代理殺人による報酬がない。
また、聶政と厳遂は長年親しい関係にあったわけでもない。
さらに、聶政は厳遂に対して恩があったわけでもない。
キリスト教、つまり、アメリカやヨーロッパの価値観で考えれば、こんな状況で暗殺を引き受けた聶政は常軌を逸したクレイジーな人間ということになるであろう。
もちろん、このことは荊軻を含む他の刺客についてもいえる。
例えば、荊軻は刺客となってターゲットの秦の政王(後の始皇帝)を暗殺するために燕を出発する際、次の詩を遺している。
風蕭蕭として易水寒く 壮士ひとたび去って復た還らず
私釈三国志風に意訳すれば、「冷たい水、厳しい風の中、私は刺客として旅に出るぜ。ま、二度と戻ることのないけどねっ」といったところだろうか。
キリスト教やアメリカ・ヨーロッパの感覚から見た場合、この生還を想定しないスタンスは常軌を逸したものに見える。
しかし、中国では聶政と荊軻は刺客の鑑として名を後世に残している。
では、後世に名を残った背景には何があったのか。
この背景を知ることでイスラム社会の暗殺やテロの位置をも理解することができる。
本書では、聶政の物語が本文で、荊軻の物語はコラムで紹介されている。
聶政の物語の概略を示すと次の通りになる。
聶政は斉の国で姉や母とひっそりと暮らしていた。
というのも、昔、聶政は郷里で人を殺めてしまい、仇を避ける必要があったからである。
その聶政のところに韓の臣下であった厳遂という男が訪ねてきた。
厳遂が聶政を訪ねた理由は韓の大臣・侠累を暗殺してもらうためである。
厳遂にとって韓の大臣・侠累は不倶戴天の敵であった。
その敵を暗殺するために、厳遂は勇敢な男と評判の聶政に暗殺を依頼しようとしたのである。
しかし、聶政は厳遂に会おうとせず、厳遂は何度も門前払いを食らう。
もっとも、厳遂は門前払いにめげず、やがて、厳遂は聶政に面会することになる。
その際、厳遂は「あなたのお母様に」と大金を聶政に差し出すのだが、聶政は「そんなものを受け取る謂れはない」と言って受け取らない。
これに対して、厳遂は訪問の意図を打ち明け、また、母親に対する贈り物の意図を告げる。
しかし、聶政は老母に対する孝養を理由に依頼を断る。
それを聴いた厳遂は礼を尽くして聶政の元から立ち去った。
その後、聶政の老母が死亡する。
そして、三年間の喪が明けた聶政は厳遂の依頼を受けることにする。
曰く、(以下、私釈三国志風意訳)「厳遂殿はいやしい庶民の私をわざわざ訪ね、礼を尽くしてくれた。非常に栄誉なことと感じております。以前は母への孝養を理由にお断りしましたが、その母はなくなり喪も明けました。かくなる上は、厳遂殿の依頼を受けることにします」と。
かくして聶政は刺客になるのである。
さて、聶政の心境を変えたものは何か。
この点の理解こそ中国における刺客を理解するための重要なポイントとなる。
この点、中国には「士は己を知る者の為に死す」という言葉がある。
士とは国士、つまり、天下第一等の人物を指す。
つまり、この言葉を私釈三国志風に意訳するならば、「歴史で語られるような立派な人間はなぁ、自分を知り、自分に礼を尽くしてくれた人のために死ぬもんだぜっ」という感じになる。
これに当てはまる事例に「三顧の礼」がある。
後漢が衰退し、天下が乱れていたころ、漢の皇帝の子孫である劉備(玄徳)は庶民である諸葛亮(孔明)の力を借りるために三度もその家を訪れた。
孔明は劉備の態度に感激し、劉備とその息子劉禅(阿斗)に仕えて、その生涯を終えることになる。
これも「士は己を知る者の為に死す」の一例である。
厳遂の聶政に対する態度は劉備の三顧の礼と同様に考えることができる。
厳遂は聶政に対して礼を忘れなかった。
また、聶政の母親に対しても礼を尽くした。
さらに、聶政のつれない態度に全く怒らなかった。
つまり、厳遂は聶政に対して国士として扱ったわけだ。
もちろん、厳遂の行為の裏には「刺客になってもらう」という思惑があっただろう。
あるいは、厳遂にとって聶政は刺客候補に過ぎなかった、ということもあるかもしれない。
しかし、聶政にとって厳遂の意図は関係ない。
「(外形的に)貴人が自分に対して礼を尽くし、それに私が応える。その行為は『士は己を知る者の為に死す』にあたるので、私の行為は『義挙』として歴史に残る」
このような展開が確信できたからこそ、聶政は刺客となり、帰らぬ人となった。
厳遂の意図がどんなものかとは関係なく。
以上、中国で著名な刺客の人生についてみてきた。
ここから中国における「救済」についてみていく。
ただ、結構な分量になってしまったので、今回はこの辺にしておく。
続きは次回に。