今日はこのシリーズの続き。
『小室直樹の中国原論』を読んで学んだことをメモにする。
3 第1章を読む_中編
前回は、中国の「幇」について三国志演義などから用いてみてきた。
その結果、幇内と幇外で適用されるルールが異なることをみてきた。
今回はこの続きである。
前回見てきた通り、三国志演義において華容で義を重んじる関羽が幇外にいた曹操を見逃した。
仮に、ここで華容で曹操を待ち伏せしていた人が関羽ではなく呂布(奉先)であったらどうなるであろうか。
絶好の機会として曹操を殺して手柄にしていたであろう。
この点、呂布は三国志演義に登場する無双の勇士であり、かつ、恩義を無視することで名を残している。
しかし、董卓がさらによい条件を提示する。
このように、呂布は裏切りの代名詞として知られている。
さて、このように裏切りを重ねた人間であれば、江戸時代以降、つまり、近世以降の日本であれば迫害され続けたことであろう。
しかし、中国ではちゃんと社会生活が営むことができた。
このことは、呂布が曹操の捕虜となったときから見ることができる。
つまり、呂布が曹操の捕虜になったときに、呂布は曹操に「私を前衛にして攻め進めば敵はいない。だから、天下を平定しうるであろう」と言い放った。
それに対して、曹操も心を動かした。
ところが、劉備は曹操に呂布の裏切りについて指摘して、「呂布を召し抱えたらいつ裏切られるか心配続けることになり、メリットよりもデメリットの方が大きい」と忠告した。
つまり、曹操は呂布を前衛で司令官として戦わせようと考えていたのである。
散々な裏切りの経歴にもかかわらず立派に社会で活躍している。
この点、中国社会から排除されている人間として「出族」と言われる人たちがいる。
この「出族」は「(死後を含めて)一族から除名された者」を指し、この処分は一族間でなされる最大の懲罰である。
そして、この処分を受けると中国社会ではまともに生きていくことが難しくなる。
この「出族」と呂布を比較した場合、呂布が行った裏切りはそれほどの社会的制裁を受けていない。
このことは、呂布の無視した規範が相対規範に過ぎなかったこと、絶対規範を破ったわけではないことを示している。
もちろん、話はこれで終わらない。
というのも、これは重大な軍律違反になるからである。
この点、劉備陣営の軍師たる諸葛亮(孔明)はこれを見逃さなかった。
なにしろ、孔明は自分の愛弟子であり、かつ、自分の指示に違反して大敗の原因を作った馬謖(幼常)を処刑している。
この馬謖の処刑がいわゆる「泣いて馬謖を斬る」と呼ばれる故事である。
そこで、関羽の行いを知った孔明は「関将軍を斬れ」と指示することになる。
もちろん、公の法律・軍律の結論は孔明の判断の通りである。
そして、軍の上層部が軍律を犯したことを放置すれば、士気は下がり、軍隊は解体してしまうから、この判断を実践する必要もある。
ところが、このとき、劉備は孔明に「関羽を殺したら、桃園の契りが全うできなくなる。だから、ここは罪を預けて後日の功で償わせてほしい」と申し出るのである。
言うまでもなく、劉備は陣営の君主である。
つまり、この軍隊が解体されたら最も困る人でもある。
でも、劉備は桃園の契りによって作られた幇を優先して、関羽の助命を嘆願した。
このことから、劉備は幇の規範を軍律(公の法律)よりも優先させたことになる。
そのため、孔明も「泣いて関羽を斬る」とならず、引き下がることになる。
この例から、中国の「幇」の強さを知ることができる。
軍律・法律よりも幇が優先されるのだから。
もちろん、桃園の契りは「三人幇」であったが二人(二人幇)でもよい。
三国志演義で登場する「二人幇」として著名なものに「三顧の礼」や「君臣水魚」で有名な「劉備と孔明」がある。
後に、孔明は「出師表」で「先帝(劉備)は庶民の私のところを三度も尋ね、天下の計について意見を求められました。これにより感激して先帝のために全力を挙げて献身することにいたしました」と述べている。
それゆえ、劉備は孔明を信頼し、死の直前に我が子の劉禅(阿斗)の補佐を、あるいは、劉禅に代わって君主になることを進言する。
他方、孔明も劉備の死後、劉禅の補佐と漢王朝の回復に力を尽くすことになる。
このことからも、劉備と孔明との間にも「幇」が出来ていることが分かる。
以上、日本に馴染みの深い『三国志演義』を通じて、中国における「幇(パンフェ)」についてみてきた。
この「幇」こそ中国固有の人間関係であるところ、このような概念はアメリカにも日本にもない(と本書は述べている)。
よって、この「幇」という概念を理解することは日本人やアメリカ人にとって困難である一方、中国人の人間関係の理解にとっての急所となる。
本書では、「幇」をさらに理解するためのサンプルとして、「刺客(せっかく)」たちを取り上げている。
なお、中国の「刺客」については、次の読書メモでも取り上げているので、重複部分については簡易な説明にとどめる。
もっとも、前回は「刺客」を歴史による救済の観点から述べている一方、今回は「幇」の関係から述べているため、重複する部分は事実関係にとどまるが。
司馬遷が『史記』で「刺客列伝」の項を作っていることからわかる通り、これらの刺客は中国における一種のヒーローである。
特に、荊軻が出発の時に読んだ詩「風蕭蕭として易水寒く、壮士ひとたび去って復た還らず」は非常に有名である。
ただ、今回は前回のメモでは細かく取り上げていない豫譲のエピソードを取り上げる。
豫譲のエピソードは次のような物語である。
豫譲は智伯という君主に仕えていたが、趙襄子がこの智伯を滅ぼし、さらには、智伯のしゃれこうべに漆を塗って盃にした。
そこで、豫譲は趙襄子を殺して、旧主智伯の仇を報いることを決意する。
まず、豫譲は囚人に成りすまして趙襄子に近付き便所の左官をやりながら機会をうかがった。
しかし、趙襄子が不審に思って、囚人に成りすましていた豫譲を捕らえて身体検査をすると懐から匕首が出てきた。
その際、豫譲は「私は旧主智伯様のために暗殺つもりだった」と宣言した。
当然、周りの側近は豫譲の処刑を進言するが、趙襄子は豫譲の態度を見て釈放する。
すると、豫譲は体に漆を塗ってらい病患者を装ったり、口がきけない人や物乞いを装って暗殺の機会をうかがうことになる。
これを見た豫譲の知人は「君ほどの才能があれば、仕官して機会を狙った方が容易ではないか。なぜ、このような困難な道をするのだ」と助言するが、豫譲は「それをやったら二心を抱いて使えることとなる。それでは暗殺する意味がない」とはねつける。
その後、趙襄子が城を出ることを知った豫譲は道筋の橋の下に隠れていた。
しかし、趙襄子の馬が驚いて立ちすくみ、豫譲は見つかってしまう。
囚われの身となった豫譲に対して、趙襄子は次の言葉を投げかける。
「あんたは智伯以外にも仕えた君主がいよう。なのに、なぜ、それらの君主の仇は討たず、智伯の仇のみは果たそうとするのだ」と。
これに対して、豫譲は「それらの君主は私を普通の人としてしか扱わなかった。他方、智伯は私を国士として待遇して下さった。そのため、私はその国士としての義務を果たすのである」と答えた。
この返答に趙襄子は感激して「豫譲の忠義の名分」を認め、豫譲に自分の衣を差し出す。
豫譲はこの衣を斬らせることで智伯への忠義を貫き、満足して自害する。
以上の話は本書とウィキペディアの記事から拝借している。
ここで見ておくべきことは「国士としての待遇」である。
つまり、国士として待遇すれば国士として報い、凡人として待遇すれば凡人として報いる。
そして、国士として待遇することは最高の待遇である。
これを「幇」理論から見た場合、智伯と豫譲の間にも幇が形成されていることになる。
そして、幇が成立したから絶対的規範が成立し、豫譲は智伯の恩に報いようとすることになる。
この点は孔明と同様である。
他方、豫譲が仕えた残りの君主は豫譲を一般人として扱わなかった。
そのため、幇は発生せず、規範は相対的になる。
その結果、仇を討つ必要もないということになる。
以上、豫譲の物語から「幇」に関連する部分をみてきた。
さらに、この部分を見ていくため、今度は聶政の物語を確認する。
なお、エピソードについては上の読書メモにあるため、重要な部分のみをみていく。
まず、身を隠して生活していた聶政のところに、厳遂(仲子)という立派な人間が訪ねてきた。
この厳遂は刺客を求めて聶政を訪ねたわけだが、その依頼・お願いの方法を見てみると「アメリカの殺し屋に依頼する」のとは全然異なる。
刺客の場合、「礼を厚くし、辞を低くして、ひたすらお願いする」のである。
もちろん、相手が引き受けてくれるかは分からない。
しかし、この手続きを踏まなければ、話は先に進まない(必要条件)。
このエピソードでも、厳遂は聶政を訪ねて家まで出かけていったものの会ってもらえない、ということが数回繰り返された。
この「訪ねていく」ということには重要な意味がある。
このように中国では「人を訪ねること」に重要な意味がある。
つまり、訪ねられる方が上、訪ねる方が下である、と。
ちなみに、アメリカでは「訪ねたから下(訪ねられたから上)」という決まりは必ずしもない。
つまり、アメリカでは大統領が他所の国を訪問したからといってその国に対してアメリカが格下になると考えることはない。
しかし、中国では他所の君主・大統領・首相が中国を訪問すれば、朝貢にきたかの如く感じることがある。
ここはさすが中華思想の国というべきか。
そこで、キッシンジャーは米中の礼儀作法の違いを活用して、米中国交回復を実現する。
つまり、キッシンジャーはニクソン大統領自身に中国を訪問させた。
そのため、中国人はこれに相当満足してしまい、他の条件はほどほどでよい、ということになって米中国交回復はたちまち実現した。
ちなみに、似たようなことは田中角栄首相も行っている。
つまり、田中角栄は中国を自ら訪問し、中国に対して最高の敬意を示した。
これにより、中国側も相応の返答、つまり、国家間賠償の放棄で応対することになる。
このように中国の歴史を見る、つまり、古を鏡にすることで今の中国についても知ることができることが分かる。
さて、ここまでは「訪ねていく」という部分を見てきたが、もう一つ重要なものが「何度も訪問すること」と「最高の礼を受けたら相応の返礼をしなければならない」ということである。
この点、中国は階層社会であり身分差は極めて大きい。
それゆえ、「身分の高い人間が身分の低い人間を訪問する」だけでも大変なことである。
そして、それを繰り返せばどうなるか。
その答えが『出師の表』にある「(三顧の礼によって、)私(孔明)は感激し、先帝(劉備)のために献身することになった」である。
つまり、「相手が『最高の礼』を尽くし、こちらがその礼を受け容れたら、こちらも 全力を挙げて報いる必要がある」ということになる。
これを「幇」理論から考えると、「『最高の礼』の授受によって二人幇が形成される」ことになる。
もちろん、「最高の礼」の定義が明確でないとしても。
ただ、「最高の礼」については一つだけわかることがある。
それは「ただ1回の行為により最高の礼が成立するとは限らない」ということである。
例えば、『三顧の礼』においては、劉備は孔明のところを三度訪れる。
しかし、1回目と2回目は会えずに終わった。
このようにして「最高の礼」が形成されはじめたところで、劉備は初めて会った孔明について「天下の計」についての意見を求める。
しかも、劉備は中国を駆け巡っている著名な武将である一方、孔明は隠棲している若者である。
そして、老人を尊ぶ中国において、年長の劉備が年少の孔明に意見を求めるのである。
孔明に対する評価としてこれ以上のものがなく、これほどの礼もない。
そして、二人幇が形成され、孔明の活躍は様々な文献で知る通りである。
以上、「三顧の礼」に脱線していたが、聶政の物語に話を戻す。
聶政に韓の元大臣厳遂が何度も訪問した。
このことから、厳遂が聶政に礼を尽くしたことまでは分かる。
これに対して、聶政が会わなかったというのはある種の試験といってもよい。
この一種の試験は今も昔も同じである。
この試験なくして中国人と深い人間関係は結ぶことができない。
その後、厳遂は聶政との対面を果たす。
つまり、1次試験はパスする。
会えた厳遂は酒をプレゼントして酒宴を始める。
そして、宴もたけなわ、厳遂は聶政に大金を贈って、聶政の母の長寿をお祝いした。
これに対して、聶政は「このような金を受け取るいわれはない」と突っぱねることになる。
ここで見ておくことは、このお金の意味である。
重要なのは「お金はしょせん触媒に過ぎない」ということである。
つまり、賄賂は「深い関係を結びたい」ということの意思表示に過ぎず、親交を深めるという意思表示の方が重要なのである。
だから、志を伴った贈り物を受け取れば人間関係が一変する、ということもあるし、コストだと割り切って大金の賄賂を渡しても全く効き目がない、ということもあるのである。
本書では、賄賂の使い方を知るために「歴史を読め。例えば、『史記』の刺客列伝を読め」と述べている。
以上、『三国志演義』や『刺客列伝』を通じて「幇」についてみてきた。
本章も残り3分の1となったが、それらについては次回に。