今回はこのシリーズの続き。
『日本人と組織』を読んで学んだことをメモにしていく。
11 第11章「組織を『読み』、『注記』を加える」を読む
以上、欧米の組織と比較しながら日本の組織について見てきた。
この点、日本の組織は問題だらけに見えるかもしれない。
しかし、同じように見ていけば、どの国の組織も問題だらけである。
そして、問題だらけの組織に長所がないわけでもない。
ただ、重要なことは長所と短所は表裏一体、合理性と不合理性は分離不可能ということである。
例えば、前章に出てきた新井白石は宣教師シドッチに対して賢者と愚者の二者がいるように感じた旨書いている。
しかし、現実にいるシドッチは二人ではなく一人であり、合理性と不合理性は人格の中に密接に絡み合っている。
このように、合理性の部分と不合理性の部分を切り離すことは基本的に無理である。
また、不合理性は一定の視点から見た場合のものであり、別の視点から見れば合理的に見えることも十分ある。
例えば、内村鑑三は日本を「情」の社会と規定し、「情」の社会に欠陥があることを指摘している。
しかし、「情」を完全に除去すればいいわけではない。
つまり、「情のみで判断するか、情を完全に排除するか」といった二者択一の選択方式では限界があることになる。
二者択一選択方式は原則や理念を示す点、定量化の際の固定点を示す際に役に立つ。
しかし、現実への修正案や均衡解を示す手段としては役に立たないことになる。
では、どうするか。
『「空気」の研究』でもふれたように、日本の問題点は未来に対する基本的指針がない点にある(この点を触れたメモへのリンクは次の通り)。
この点、改革案の主張や改革に向けた動きをストップさせれば、組織の進化を否定することになる。
そして、組織が社会の変化に適応できなくなり、最終的には社会に対して大小の害悪をまき散らしながら消滅する。
このことから、「社会の変化に適合していない旧時代の組織・一定以上の問題を抱えた組織は改革し、または、再生させたほうが良い。改革しないままの組織を人間や社会の努力によって無理やり維持させても社会公共の利益に反する」とはいえる。
しかし、組織が存在する以上、組織内で生きている人間は常にいる。
とすれば、学者・ジャーナリストといった組織の外側の人間から見て「その組織を改革・解体すべき」などと言ったとしても、「構成員たる我々はこの組織で生活している。その組織を止めろということは我々構成員に対して『死ね』ということか」ということになって、総ての改革論が沈黙しかねない。
これは「安楽死は是か非か」という論争が客観的議論となりえても、安楽死の条件を満たす人間に対して直接「お前を強制的に安楽死させる」と言い出せば、特段の事情のない限り反対されるようなものである。
そして、これまでの本書の議論は外部から見た客観的(共同主観的)意見である。
ならば、それをそのまま特定の組織に押し付けてしまえば、「それは我々構成員に対して『死ね』ということか」となってしまう。
また、そのような反発がなく、意見それ自体に理解・納得できたとしても今後の具体的方策として役に立つわけがない。
これは二者択一選択方式が現実的な対策・均衡解を示せないのと同様である。
では、どうするか。
『「空気」の研究』では「空気」にあらがう対抗策の記載が極めて抽象的であったが、この本にはより具体的な対策が書かれている。
そこで、最後にこの対策を確認することにする。
まず、この対処法の基本指針を確認する。
というのも、この対処法は「長期的視点」に立ったもので、かつ、「遅効性」のものだからである。
この部分を見た時点で、「日本には馴染みにくいだろうなあ」という感想を持つわけだが。
キーワードは「トサフィスト」である。
ここで、著者は西欧のトサフィストの伝統を紹介する。
トサフィスト文化というのは次の繰り返しである。
1、本を読んだ知的階級の人間たちが本の欄外に自分の解釈・意見・見解を書く
2、欄外の解釈・意見・見解がたまったら、それらを編集する
3、本文と欄外部分を編集した部分を読んだ知的階級の人間が、それらの欄外に自分の解釈・意見・見解を書く
4、欄外の解釈・意見・見解がたまったら、それらを編集する
(以下エンドレス)
この点、トサフィストという言葉は中世ユダヤ教徒のある一群の人々を示す言葉であった。
もっとも、トサフィストの発想は別にユダヤ社会にとどまっていたわけではなく、ヨーロッパのキリスト教社会にも十分伝わっている。
ここから見えることは、ヨーロッパで行われた革新的・独創的な試みはこのトサフィストの蓄積の上にあることであり、外来文化のコピーアンドペーストでもなければ、単なる思い付きでもないということである。
つまり、ヨーロッパにおける「進歩」とはトサフィストの発想に基づいて一歩一歩積み重ねていくプロセスのことであって、何やら「進歩的」と称される対象に飛びついて元の社会から見て奇矯で非常識な振る舞いをすることもでもない。
もちろん、人間の宗教的活動に組織的発想を導入するまでにもトサフィストに基づく長い間の知的蓄積がある。
なお、現代においても、人間の活動は「宗教に基づく活動」と「組織的発想」が結合したものとなっている点はジミー・カーター(当時)その他を引くまでもない(本書ではジミー・カーターが登場するが、別の本で引いていた事例を考慮すれば、イギリスの改革に挑んだサッチャーすらこれに入る)。
無論、昔と比較した場合、「宗教」の対象が多種多様で複雑化しているとしても。
話はここからトサフィストの歴史に移る。
具体的には、中世ヨーロッパの著名な思想家であるアルベルトゥス・マグヌスとその弟子であるトマス・アクィナス、それから、この二人に決定的な影響を与えたと言われるモーシェ・ベン・マイモーンである。
この点、モーシェは現在のスペイン出身の学者・医者であるところ、モーシェの功績として『ミシュネー・トーラー』の刊行がある。
『ミシュネー・トーラー』はアリストテレスの思想を援用して編纂されたもので、いわゆる「第二のトーラー」と言われている。
そして、この「第二のトーラー」においてなされた作業はトサフィスト的な発想、つまり、「過去への長い検討結果の集積を編集し直す」という作業であった。
アルベルトゥス・マグヌスとトマス・アクィナスの作業の内容もこのトサフィスト的発想と同様である。
もちろんだが、『ミシュネー・トーラー』の欄外はまたトサフィストたちが再び注釈・自己の見解・意見を積み重ねていくことになる。
この「過去への長い検討結果の集積を編集し直す」という作業は「過去を棄却して新しい発想をする」ことではない。
そして、「過去への長い検討結果の集積を編集し直す」という作業こそ文化の改革と進歩の基本となっている。
つまり、トーラーはユダヤ教社会・キリスト教社会等の基本であるから、これを停止することは不可能である。
しかし、トーラーを原理主義的に崇めていては形がい化して消えてしまう。
そこで採用された手法がトサフィストの作業である。
そして、ヨーロッパ社会においては、改革とはトサフィストが書いてきた欄外の再編集であり、従来の伝統の延長線上にないものが突如新しく始まるわけでもない。
また、逆に、改革が終わればトサフィストたちの作業が終わるわけでもない。
さらに、本書によると日本に足りない(欠けている)部分がこのトサフィストの発想なのである。
この点、トサフィスト的な発想を行う前提として「本文の絶対性」というものがあり、それがなければこの作業はうまくいかない。
もっとも、「本文の絶対性」は本文の原理的服従を意味するわけではなく、本文の欄外に注釈(解釈・異見)を加える権利が加わるだけである。
この本文の欄外への記入や再編集という作業は本文や写本を破棄することでも、別物を採用することでもない。
他方、聖書や宗教・国家や社会に対して、個人は「尊重する態度」と「意見を述べる態度」の二つを持つ点を否定することはできない。
そして、この二つの態度を持つことは相手を否定することにはならない。
この発想こそヨーロッパの個人と組織の関係を律していることになる。
もちろん、ヨーロッパの組織には定款(憲法)・社規(法律)・社則(命令)・マニュアルがある。
しかし、これは同時にトサフィスト的な注解が常に加えられ、一定の段階で再編集して、さらに、トサフィスト的な作業が続けられる。
これは、アメリカやヨーロッパの議会・政府・軍隊・企業、どれをとっても同様である。
同時に、このトサフィストの成果は「歴史」にもなる。
歴史の語源はヒストリアであるところ、ヒストリアの原意は「目撃者の記録」である。
つまり、歴史は「過去の物語化」ではない。
ここでは、「本文」という見られる対象と「読者」という見る対象があり、両者は一体化することなく、また、読者は感想という注釈を加えることになる(直接書かれるかどうかはさておき)。
その集積結果が歴史になる。
この場合、トサフィストの作業によって作られた歴史とこれらの歴史による裏付けが得られた理論・モデルは近い未来の予測に役に立つでこととなり、(本書に触れられていないが)この理論・モデルの精錬化の作業が近代科学になる。
そして、これらの作業がなければ未来予測は不可能であり、ランダムの偏りによって生じる幸運か天啓などに頼るほかはなくなる。
以上の観点から日本を見てみる。
もちろん、「今日からヨーロッパのトサフィストの手法をコピペしましょう」などと言っても失敗するだけである
また、日本でもトサフィストと類似の手法が行われていないはずがない。
カソリック教会が長期間存続している組織である一方、皇室も長期間続いている。
継体天皇からスタートさせたとしても、皇室は約1500年も続いているのだから。
このことから「日本でもトサフィストに類似する何らかの方法が行われていた」と推測することは不合理でもなんでもない。
この点、日本の組織は明文で記載された定款等と実務が分離している社会である。
その意味で「二尊」があるように見える。
ならば、定款が本文で実務は注釈というトサフィスト的な見方ができる。
また、現実的処理は組織(固定されている)に対する個人の対応の仕方であり、この処理において「人間性」とか「人間的」といった組織とは無関係な「一尊」が存在する。
この「人間性」という「一尊」はヨーロッパの神聖組織と比較すると体系化・言語化されていないように見える。
しかし、「人間性」というものが非体系的・不明確でありながらも「規範」として機能していることは否定できない。
このことは日本で猛威を振るう「空気」を見れば明らかである。
そして、「人間性」と「組織」はときに矛盾し、また、矛盾があって当然であるところ、その矛盾が進歩を生むことになる。
この両者を無理やり一本化すれば、進歩がストップして当然である。
この点、先例主義はこの両者を調整する重要な道具になる。
その一方で、先例という一尊主義に陥る危険もある。
先例が肥大化すれば、定款と実務のトサフィスト的な関係が形がい化し、果てには、先例一尊が暴走して組織がつぶれるということになってもおかしくなく、その例は帝国陸軍その他に表れている。
この点、ユダヤ教社会では注釈を口伝立法という形に限定し、文章化を禁止した。
その後、注釈の文章化が行われた場合も欄外にして、本文とは分離した。
もちろん、注釈の価値が本文に劣るというわけではなく、本文を絶対化してそれ自体の変更を禁止したわけである。
その結果として具体的にみられるのが、いわゆるレニングラード写本と死海写本のそれぞれの本文を比較した場合、ほとんど違いがないという現象である。
これを見ると、日本で必要なのはトサフィスト的発想の実質化と言えばいいのだろうか。
この際に必要なのは、トサフィストの記述に誤りがあった場合、その誤った記述に「誤りである」という再注釈を加えることができても、記述自体を抹消してはならない、という点である。
もっとも、点が日本は非常に苦手であるらしい。
それは日本の社史の具体的描写にあるようである。
以上が本章の話。
ただ、本書は「未来への対策」が具体的になっている。
その意味で他の本以上に役に立った。
どんどん取り入れて試行錯誤を繰り返していきたい。