今日はこのシリーズの続き。
『経済学をめぐる巨匠たち』を読んで、経済学に関して学んだことをメモにする。
7 「第5章_マクロ経済学の誕生」を読む
今回の主役はジョン・メイナード・ケインズとケインズ派である。
「レッセ・フェール」を思想に持つ古典経済学派は資本主義が発生してから20世紀まで順調に機能していた。
つまり、かの現実離れしていた「セイの法則」が機能し続けていたということになる。
すげーなあ、というしかない。
もっとも、この時代は欧米列強がアジア・アフリカを侵略し、略奪しまくっていた時代でもある。
そのことを考えると、微妙な気分にならざるを得ないが。
だが、「セイの法則」が成立していた状況を激変させる事件が発生する。
1929年10月24日に端を発した大恐慌である。
株価の大暴落をきっかけに企業は倒産・破産、工場は閉鎖、労働者は失業。
間もなく、アメリカの失業率は25%を記録した。
今の日本の失業率を考慮するとすごい数字である。
また、企業の倒産・破産は金融機関の破綻も招いた。
その結果、仕事はない・食料もない・預金もないという状況を招いた。
当時は資本主義の全盛期、失業保険や預金者保護の制度もない。
大恐慌は世界を巻き込んだのだから移民として逃げることもできない。
さて、こんな緊急時に古典派はどう答えたか。
「失業はあり得ない」・「放っておけば自然に回復するだろう」と宣ったのである。
この点、古典派の信条である「セイの法則」や「レッセ・フェール」を前提とすれば、失業はあり得ないし「放っておけ」となるのも分からないではない。
しかし、現実の経済は回復せず、古典派は非常事態に何もできなかった。
これに対して、立ち上がったのがジョン・メイナード・ケインズである。
ケインズとケインズ派によって古典派の勢いは一時期かなり削がれることになる。
この点、ケインズは「古典派の理論は現実において『常に』成り立つわけではない」と述べた。
言い換えれば、「『セイの法則』が成立していればレッセ・フェールに従えばよいが、『セイの法則』が成立していない状況であれば、レッセ・フェールではダメで何かする必要がある」と述べた。
また、古典派は「供給が需要を作る」と述べたのに対して、ケインズ派は逆に「需要は供給を作る」と述べた。
つまり、「ニーズ(需要)がなければ、作っても(供給しても)無駄」というわけだ。
さらに、ニーズは投資と消費によって構成されているところ、この投資と消費の合計を「有効需要」と述べ、この有効需要を増やすことを進言した。
もっとも、有効需要を増やすためには投資か消費を増やす必要があるところ、不況下においては市民に投資や消費を期待することは難しい。
これは、不況下で下落している株や債券を買うこと、将来の収入が減少する状況で消費すること・借金をすることのいずれも経済合理性がないことから明らかである。
そこで、ケインズは「有効需要を増やせ。不況下において民間の需要と投資は期待できないので、国家が積極的に需要を作り出せ(投資せよ)」と述べた。
「何もしなくていい・するな」と述べた古典派とは対照的である。
この進言は猛烈な批判・非難を受けた。
しかし、ケインズが言ったことを実践したナチスのアドルフ・ヒトラーは瞬く間にドイツ経済を立て直してしまった。
また、アメリカのフランクリン・ルーズベルトのニューディール政策は最高裁の横やりもあって中途半端に終わったが、第二次世界大戦によって生じた途方もない需要によって経済を立て直した。
このことからケインズの理論の有効性は証明されることになる。
まあ、ケインズは戦後間もない1946年に死亡してしまうのだが。
ケインズの主張の有効性が証明されたことで、戦後から60年代にかけてケインズ派が古典派を凌駕するようになる。
もっとも、古典派が供給サイドしか見ないで需要サイドの研究を怠ったように、ケインズ派も需要サイドしか見なくて供給サイドの研究を怠るようになる。
それが、古典派の復活、古典派とケインズ派の均衡関係を生むことになる。
ケインズ派の弱点はインフレとクラウティング・アウト。
ケインズ派を背景にした経済政策により、60年代からアメリカ経済にインフレとクラウティングアウトが現れた。
これを見た古典派はケインズ派に反撃を加えることになる。
古典派の復活である。
古典派の中で特に反ケインズ派の色の強い学派の仮説が「合理的期待形成仮説」である。
この仮説はルーカス博士などの「合理的期待学派」が主張したものであり、ベンサムの仮説をさらに突き進めたものである。
ジョン・ロック、ベンサム、合理的期待形成仮説を比較すると次のようになる。
ロックの場合、「予見能力によって、人は将来の欲求(未来の食糧等)を見越して行動できる」
ベンサムの場合、「人は将来の欲求を見越して行動できるだけではなく、その効用・将来の幸福度の度合いも正確に計算できる」
合理的期待学派の場合、「人は利用可能な正確な情報用いて、さらには、最先端の経済理論を用いて、経済的な正しい予測をすることができる。その際のコストはゼロである」
なんとも途方もない設定である。
ただ、古典派の合理性を純粋に突き詰めたものを表現したと言えば、あながち外れたものではない。
「改革を為そうとする者は過去の理想にさかのぼって(以下略)」という山本七平の書籍の内容を思い出すのは偶然であろうか。
この点、「マルキシズムは宗教である」という意見があるが、資本主義・古典学派も恐ろしく宗教的である。
このように、ケインズ派に対する反撃がなされ、古典派が再び蘇ったかのように見えたが、新しい古典派の学説にも欠点があることが指摘された。
かくして、ケインズ派と古典派の均衡状態が成立することになる。
ケインズ派の復権は、80年代のレーガン・サッチャー政権の政策に見ることができる。
まず、サッチャー政権の経済政策についてみてみる。
サッチャーは徹底した資本主義者・古典学派の信徒であった。
そこで、政権を取った瞬間、驚くべき政策を行う。
それは、シュンペーターが述べた資本主義滅亡過程を逆行させようとしたのである。
ここにも、「改革を為そうとする者は過去の理想にさかのぼって(以下略)」という言葉を見る気がする。
つまり、シュンペーターは「資本主義は資本主義の成功・完成によって滅びる」と預言した。
そこで、サッチャーは社会主義経済になりかかっていたイギリス経済をビクトリア朝時代の様相に戻そうとしたのである。
つまり、役人が動かす経済(これぞ社会主義経済である)ではなく、プロテスタントの倫理観に支えられた資本主義の精神を持つ企業家によって支えられる経済に転換しようとしたのである。
まさに、「歴史を一気に過去の理想に引き戻す」という言葉がピッタリではないか。
もっとも、時代背景が異なり、サッチャー時代は「セイの法則」が成立しない。
そんな状況で国家の事業を減らし、また、減税などを行ったらどうなるか。
政権を取った時点では10%だったインフレ率は20%を超えた。
政権を取った時点では150万人だった失業者は300万人を超えた。
フォークランド紛争の圧勝もあって政権自体は維持できたものの、政権開始に行った経済政策は結果的に大失敗。
ケインズ政策を取り入れる以外に打つ手がなくなってしまった。
この点、ケインズ政策は短期的に見て即効性のある政策である。
しかし、その後もケインズ政策を使いすぎたサッチャーはケインズ政策の弱点であるインフレと輸入超過の罠に落ちてしまった。
めでたくなしめでたくなし。
古典派とケインズ派。
その特徴をある程度簡単にして分けると次のとおりになる。
「価格は需要と供給で決まる」という経済法則に対して、「供給が需要を作る」と述べた古典派、「需要が供給を作る」と述べたのがケインズ派
また、「セイの法則」が常に成立すると考えて「Y(総生産)=C(消費)+I(投資)」を恒等式と考えるのが古典派、「有効需要の法則」が常に成立すると考えて「Y(総生産)=C(消費)+I(投資)」を方程式と考えるのがケインズ派
この点、セイの法則は使い勝手が良い。
しかし、そのために理論公害が起きたのは前述のとおり。
さて、このセイの法則、いつまで成立していたのか(いつから成立しなくなったのか)。
それは第一次世界大戦前まで、ということになる。
となれば、大恐慌と第二次世界大戦を経た後のサッチャー時代ならば成立していたとは到底言えまい。
レーガン政権も最初は公共事業を削減しまくって減税をしまくった。
その結果、予算は大赤字・貿易は大赤字。
ケインズ経済学に欠点はないのか。
もちろんある。
この点、古典派の「セイの法則」が全称命題ではないが、成立する時代はあった。
例えば、行動経済成長時代の日本(産業革命成立後の欧米)を見ればいい。
生活レベルの向上により国民は「あれも欲しい」・「これも欲しい」となる。
つまり、この時代は作れば売れる時代だったわけである。
もっとも、「あれも欲しい」・「これも欲しい」は一生続かない。
欲望が減り、生産能力が向上することで「セイの法則」からの乖離は大きくなった。
そこで、ケインズは「民間による需要が減ったなら国家が需要を作れ」と述べ、「有効需要の原理」を打ち立てた。
しかし、ケインズ派の置いた「有効需要の法則」も全称命題たりえない。
そこで、第二次世界大戦の需要にこたえて経済が立て直せた。
しかし、もし、需要に耐えられる設備がなければどうなるか。
需要があるが生産が追い付かず、経済は動かないということになろう。
第二次世界大戦前の日本の軍用機市場のように。
このように需要に対応する供給が準備できないとどうなるか。
どんなに景気が悪くても民間の需要がゼロということはない(例えば、景気が悪くても食糧がなければ国民は飢えて死んでしまう)。
そんなところに、国家の需要を大量に市場に放り投げればどうなるか。
供給が国家の需要に吸い上げられ、民間に対する需要が締め出されて満たされない(クラウティング・アウト)ことになる。
また、需要の増加は相対的な供給不足を招くから、価格の増加を招く。
ケインズは「価格は不変」という前提を置いているが、価格の増加、つまり、インフレを招けば、やはり需要の効果は落ちてしまう。
また、海外の安い製品の流入を招いて貿易収支は悪化して貿易赤字は拡大、国内の経済は悪くなってしまう。
このクラウティングアウト・インフレ・輸入超過、この3つがケインズ派の弱点ということになる。
さて、ここで話題を現在の日本に移す。
経済の観点から見た場合、この公共投資はケインズの発想を下敷きにしているのは言うまでもない。
では、この公共投資、うまくいっているのか。
古典派・ケインズ派を見たうえで日本の公共事業を評価すると、日本はいくつかの罠に陥っている。
クラウティング・アウト、インフレ等ではない別の罠に。
そもそも、ケインズ派も古典派も資本主義が作動していることを前提としている。
ならば、資本主義の精神がない経済圏で公共投資をぶっこんだところで一時しのぎにしかならず、景気は回復しない。
例えば、「流動性の罠」。
利子を下げて投資を喚起しようとしても利子を下げすぎれば、投資する意欲が消えて現金はタンス預金になる。
投資する意欲は資本主義の精神の重要な柱であること(セイの法則が成立する場合、「貯蓄は全部投資に回る」ことが前提となる)を考慮すれば、流動性の罠は資本主義の精神の根幹をつぶしてしまうことになる。
あるいは、「ハーベーロードの仮定」。
この仮定はケインズの前提であり「役人は公正かつ有能」という仮定だが、資本主義の精神がなく、その仮定が成り立たなければケインズ政策は実効性を持たない。
ただ、国の借金が増えるだけである。
こうやってみると、日本のファンディがもたらした短所が公共投資にも表れているような気がする。
もちろん、この点はしょうがない面もあるし、そのことを非難したいとは全く思わないのだけど。
以上が本章のお話。
この章のお話は「痛快!憲法学」でも触れられていたが、それ以上の情報があり、参考になった。
今後もどんどん読んでいきたい。