薫のメモ帳

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『数学嫌いな人のための数学』を読む 23

 今日はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

『数学嫌いな人のための数学』を読んで学んだことをメモにする。

 

 

23 第5章の第1節を読む

 第5章のタイトルは「数学と経済学」

 そして、扉絵にある学者はジョン・メイナード・ケインズである。

 ここから数学と経済学の具体的な内容に入る。

 

 第1節のタイトルは「ちょっぴりの数学で理論経済学の極意が分かる」

 ここから生徒と講師(小室先生)の講義形式となる。

 

 

 ところで、第5章の第1節の書き出しで先生役の小室先生は次のような主張をしている。

 

「一生懸命に数学を勉強したら効用が確かにある」

「ほんのちょっとの数学の勉強でも使い方によっては絶大な効用がある。例えば、ちょっと勉強した数学の内容を経済学の理解に用いることで経済学のエッセンスの理解に迫ることができる」

 

 私のような人間から見た場合、少しの数学の勉強で経済学のエッセンスの理解に迫れるなら、それは絶大な効用と言ってよいだろう。

「学問の本質に迫れること」と「自分自身の快楽」との間に実質的な関連性があるのだから。

 また、わざわざ本書を手に取る人も私のような人間の側の人間としてみていいだろう。

 ところが、議論なし・論理なしの日本教徒が「経済学のエッセンスに迫れること」を効用と評価するのだろうか。

 などと考えてみると、近代数学日本教徒の問題はかなり根深そうだな、と考えさせられてしまう。

 閑話休題

 

 

 本書は、方程式と恒等式についての理解から始まる。

 この「方程式と恒等式の理解」は数学の勉強である。

 

 定義を簡潔に述べると、恒等式は左辺と右辺に存在する変数がどのような変数を採用したとしても成立する式関係のことである

 例えば、

 

 1+x=x+1

 

という式を考える。

 この左辺と右辺はxに何を代入しても成立する。

 このような式を恒等式と言う。

 

 他方、方程式は左辺と右辺に存在する変数についてある一定の数値を採用した場合には成立しなくなる式関係のことを指す

 例えば、

 

 x=3

 

という式を考える。

 この場合、xが3の場合に限り成立し、xが3以外の場合は成立しない。

 よって、この式は方程式となる。

 

 本書では様々な具体例が書かれているが、その辺は省略。

 簡単にまとめれば、恒等式は変数にいかなる数値を代入しても成立する式、方程式は変数に特定の変数を代入した場合には成立しない式を指す

 さらに、恒等式はすべての変数に対して成立する全称命題であり、この命題を否定したもの、つまり、恒等式でないものが方程式ということになる(解がないものも方程式に入ることを考慮すれば、こうなるであろう)。

 

 この定義から、「方程式は解を求めるために用いるもの」、「恒等式は証明して、式変形の手段として利用するもの」ということが分かる。

 換言すれば、「次の方程式を解け」・「次の恒等式が成立することを証明せよ」という問題は存在しても、「次の方程式が成立することを証明せよ」・「次の恒等式を解け」という問題は存在しないことになる。

 前者は証明できないし、後者は「すべての数に対して成立する」ということになってしまい、問題を解く意味がないからである。

 恒等式と方程式、具体的な式を見れば一見似たようなものとしてみることができるが、このような大きな違いがあることになる。

 

 と、ここまで数学の話を進めて、恒等式と方程式の違いを理解して何になる」という疑問が頭に浮かぶかもしれない。

 もっともな疑問である。

 本書では、その回答として理論経済学が理解できる」と回答している。

 具体的には、「古典経済学派とケインズ派という経済学の二大派閥の違いを恒等式と方程式の違いを使って簡単に説明できるのだ」と言う。

 そこで、話は経済学の話に移る。

 

 

 ここから経済学の話に移るが、経済学における古典派(以下、「古典経済学派」という。)とケインズ派の違いについては、次のメモで述べた方法で分類する。

 

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 また、古典経済学派についての説明は次の読書メモでも行われているため、本書では概略の説明にとどめる。

 

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 この古典経済学派は、イギリスに発生した経済学派で、アダム・スミスを元祖とし、リカードを代表とし、今でも新古典経済学派などを通じて隆盛を極めている一派である。

 そして、古典経済学派のドグマが「レッセ・フェール」こと自由放任、である。

 ちなみに、レッセフェールはフランス語であるところ、英語に訳せば「Let_Us_Free」となる。

「自由放任」と4文字でまとめてしまったが、これにもう少し言葉を足すと、「経済に関する政府の介入を極小化すると、効率がよくなり、生産性が高まり、経済はうまくいく」ということになる。

 

 なお、このドグマの対偶たる「何かうまくいっていないのは自由市場が機能していない(規制がある)からである」を用いて、経済問題に対処した例については第4章の第4節で見てきたとおりである。

 

 もっとも、「ドグマとする」と述べた以上、「このドグマは現実に即しているのか」ということが問題になる

 そこで、この点について見ていくことになるところ、この理論化に貢献したのがリカードである。

 そして、その中核にあるのがセイの法則となる。

 

 

 ここから話は「セイの法則」を基礎に理論を作り上げたリカードの話に移るが、先に、コラムとして紹介されているリカードの大発見についてみておく。

 

 リカードの大発見たる「比較優位説」については先の読書メモでみてきたが、リカードの発見した定理には他にもたくさんある。

 本書に掲げられた例を挙げると、「差額地代説」があり、これは「限界効用説」・「限界生産力説」のはしりとなっている。

 また、「労働価値説」リカードによって一定の完成までもっていっている。

 シュンペーター(『経済学をめぐる巨匠たち』で取り上げられた一人)によると「マルクスリカードの餌・釣り針から釣り竿まで飲み込んでしまった」とあり、マルクスは自説の労働価値説においてリカードの説をそのまま採用している、という。

 もちろん、丸のみしたことがマルクスの価値を劇的に下げることになるわけではないだろうが。 

 

 

 さて、古典経済学派からみた場合のリカードの功績としてセイの法則」の全面的採用がある

 セイの法則を簡単に述べれば、「作れば売れる」となる。

 もう少し高尚な言い方をすれば、「供給が需要を作る」になる。

 

 当然だが、ミクロな観点から見た場合、現実的に見た場合、こんな法則は成立しない。

 この点は、マルクスが「これはセイという男の戯言だ」と述べていることからも明らかである。

 ちなみに、マルクス「商品はみんな貨幣に恋する。が、恋路はなめらかではない」とも述べている。

 その意味で、マルクスはこの法則が途方もないことを理解していた。

 

 しかし、そのマルクスでさえ自分の主張をする際には「セイの法則」を前提にしてしまっている。

 マルクスでさえこうなのであれば、他の古典経済学派の学者たるワルラス・パレートなどは推して知るべし、ということになろう。

 ちなみに、この「セイの法則」に挑戦し、絶大な成果を収めたのがケインズである。

 

 

 ところで、現実を見れば、あるいは、局所的なところで見れば、この「セイの法則」は大概成立しない。

 しかし、マクロで見れば、国民経済全体で見れば、「概ね」セイの法則は働いてきた。

 それゆえ、「セイの法則」をドグマとする古典経済学派は現代にいたるまで大勢力を築いている。

 逆に、世界において「セイの法則」が全く成り立たなくなるような事態になれば、古典経済学派は凋落するであろう。

 事実、ケインズ派が力を伸ばした第二次世界大戦直後、古典派は勢力をかなり削がれていたのだから。

 

 さて、「セイの法則」をドグマとして採用した結果、古典経済学派においては「レッセ・フェール」が全称命題として正しくなる。

 作れば売れるなら、介入など無用になるだろうから。

 

 もっとも、こうなると、「『ベスト』とは何か」ということが問題となる

 これに対する、古典経済学派の答えは「ベストとは『資源の最適配分』・『最大多数の最大幸福』を実現した状態を指す」ということになる。

 

 ちなみに、数学的な言葉で補えば、「『セイの法則』が成立する」と「自由放任がベストである」は必要十分条件の関係にある

 

 

 とはいえ、実現された「最大多数の最大幸福」や「資源の最適配分」なるものがどんなものか、ということは吟味されるべきであろう。

「所与の条件の中で最も都合の良い条件はベストである」とは言えても、「ベストな状態は人間に幸福をもたらす」かどうかは別問題だからである。

 これは、「利潤は最大化できる条件はベストとは言える。しかし、ベストを採用しても黒字にならない」ということにならないことをイメージすればいい。

 麻雀にたとえれば、「先制リーチを受けた場合、この手であればベタオリすることがベストである。しかし、その結果として黒字になるわけではない」とも言えばいいか。

 

 事実、リカードは「最大多数の最大幸福がベストである」という結論だけに満足せず、その結果が社会や個人にとって有用であるかについて調べている。

 この調査を徹底的に行えることこそ数学のメリットである。

 もっとも、リカードマルサスの結論は、「長期的に見れば、『最大多数の最大幸福』の状態とは、企業の利潤率はほぼゼロ、労働者は生存ぎりぎりの生活を強いられる」となった。

 めでたくなしめでたくなし。

 

 なお、この「最大多数の最大幸福」という耳障りのよい言葉にひかれて伝統主義から資本主義に鞍替えした人々も多かったであろう。

 これについては、マルクス主義のところで見てきた通り、宗教社会学的な説明が可能である。

 つまり、「比喩的な説明しかない場合、人はかえって『そこに理想がある』と思い込んでしまう」と。

 もちろん、その背後には資本主義が膨大な富を生み出したこともあっただろう。

 事実、資本主義と近代立憲民主主義を使いこなした欧米列強がユーラシア大陸を抑えていたイスラム社会と中国社会をやりこめ、世界中を植民地化していったのだから。

 

 さて、「ベストである」とドグマから「失業は存在しない」ことになる。

 もちろん、巷には失業者が存在するわけだが、古典経済学者から言わせれば、「現実が自由競争で貫徹されていないからこのようなことになる」と宣うことになる。

 事実、古典経済学者の重鎮にしてケインズの論的だった大経済学者アーサー・セシル・ピグー大恐慌時代のこのように述べたことは前回のメモで述べたとおりである。

 この辺は、今の日本の経済アナリストあたりを見てもイメージできるかもしれない。

 

 

 以上が、本節のお話。

 今回は必要な材料しか出ていないので、数学の効用が見えていない。

 その辺は次回以降に。