薫のメモ帳

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『経済学をめぐる巨匠たち』を読む 2

 今日はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

『経済学をめぐる巨匠たち』を読んで、経済学に関して学んだことをメモにする。

 

 

3 「第1章_経済学を生んだ思想」を読む

 最初に、経済学の特徴についてまとめておく。

 

・経済学は近代資本主義という経済システムのみを対象とする

(法学・政治学はあらゆる地方・あらゆる時代の政治・法が対象になるし、社会学や心理学では人間以外のものを対象にすることすらある)

・近代資本主義は、その発生から百数十年のうちに、資本主義以前の時代に生み出した富をはるかに上回る富を作り上げ、かつ、地球上の社会を一つに結びつけてしまった

・経済学では社会学のなかで率先してモデルを利用する(物理学のように)

・古典経済学派(古典派)は、経済に関しても(万有引力の法則等の自然法則のように)人の自由にならない法則(マルクスが「疎外」と呼ぶもの)があることを発見した

・古典派の大発見であり、かつ、古典派の教義(ドグマ)は「レッセ・フェール」(自由放任)である

・古典派のドグマである「レッセ・フェール」はマルクスジョン・メイナード・ケインズシュンペーターにより批判されたが、それらの批判にもかかわらず何度も復活している

 

 

 第1章では、古典派のドグマである「レッセ・フェール」のモデルの先例について。

「レッセ・フェール」のモデルを考えたのはトマス・ホッブスジョン・ロックである。

 ジョン・ロック立憲主義(社会契約説)・民主主義のモデルを作ったが、資本主義のモデルも築いた。

 民主主義と資本主義がキリスト教の聖書・予定説を背景にしてできた点を考慮すれば、当然のこととは言えるが(詳細は次のリンク参照)。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 ホッブスとロックが作り出した人間のモデル、いわゆる自然状態は「社会はないが、(人間としての)能力がある状態」である。

 この状態で人間がどう振舞うかを考察した。

 

 二人の共通項は次の通りである。

・社会がなければ身分や特権はない(人はみな平等である)

・人には予見能力があるので、飢えをしのぐための食料などの資源(富)を求める、その際、現在の分だけではなく、将来の分も確保しようとする

 

 一方、ホッブスとロックの相違点は次のとおりである

ホッブスは「富は有限である」・「人間間の能力差は小さい(平等)」ことを前提に考えた結果、自然状態は「万人の万人に対する闘争」という戦争状態になるものと考えた

・他方、ロックは「『労働』によって富を増加させられる(富は有限ではない)」と考えた結果、自然状態は資本主義であると考えた。

 

 以下、ロックの思想を経済学的観点からみていく。

 そうすると、次のようなことが言える。

 

・「労働によって資源(富)が増やせる」と考える結果、増えた富(財産)は労働の対価として本人が所有することができる、つまり、所有権の正当化の根拠を本人の労働に置いた

・自然状態において財産所有が正当化されたことから、財産は生命と自由と同様、国家が成立する前から人間の持つもの(自然権・人権)となった

 

 

 なお、この近代資本主義の思想をヨーロッパに広めたのは、フランス革命後の混乱を終息させ、その後にヨーロッパを征服したナポレオンである。

 ナポレオンの時代、フランスでは『ナポレオン法典』が作られ、軍事征服によってこれが広まったが、このナポレオン法典には財産権不可侵の原則がうたわれている。

 また、日本でも江藤新平がこのナポレオン法典を参照して民法草案を起草している。

 

 

 以上が第1章のお話。

 この辺の話は『痛快!憲法学』と重複するので、さっさと次に行こう。

 

4 「第2章_経済学の父は何を考えたのか」を読む

 第2章では、経済学の父であり『国富論』を書いたアダム・スミスに話題が移る。

 この点、経済学の父であるアダム・スミスが『国富論』を出版したのは1776年である。

 ここから経済学の思想が始まっていることを考慮すると、経済学の歴史は約300年ということになり、経済学が非常に新しい学問であることが分かる。

 そして、このスミスの発想から、マルサスジョン・スチュアート・ミル、マーシャル、ピグーと連なる古典派を形成する。

 この古典派がケインズマルクスによって叩かれても蘇ったことは前述の通り。

 ならば、アダム・スミスの思想を知ることは経済学を知るうえで必須である。

 

 

 では、アダム・スミスの思想とは何か。

 それは古典派のドグマである「レッセ・フェール」(自由放任)である。

 つまり、「市場を自由にしておけば、最大多数の最大幸福・パレート最適は自然に達成される」というものである。

 そして、この思想から「国家は経済に干渉してはならない」という夜警国家・消極国家の考えも生じることになる。

 

 

 もっとも、「『最大多数の最大幸福』が実現された状態はどんなものか」について、アダム・スミスははっきりしたことは言っていない。

 その答えを示したのがリカードである。

 リカードの答えは次のとおり。

 

 資本主義の諸法則・市場の自由を貫徹した結果、「最大多数の最大幸福」の状態になるが、長期的に見た場合、または、究極的な状況になった場合、企業の利潤率はゼロに、労働者の賃金は最低レベルの水準になる

 

 暗い影をおとす結果になってしまった。

 なんか、現代日本を見ているようではないか。

 もちろん、それでも資本主義が他の経済システムよりマシ(他のシステムでは餓死者が出るが、資本主義ならば最低賃金は捻出できる場合)ならば、この状態でも「最大多数の最大幸福」になりえるので、リカードとスミスの主張は十分両立するのだが。

 

 なお、古典派であり、『人口論』を書いたマルサスも次のような指摘をしている。

 

 人口は等比級数的(1倍、2倍、4倍、8倍、といった感じ)に増えるが、食料は等差級数(1倍、2倍、3倍、4倍、といった感じ)でしか増えないため、人口過剰による貧困と悪徳が蔓延する

 

 

 なお、リカードマルサスも「最大多数の最大幸福」の次の状態については言及していない。

 それを検討したのがマルクスである。

 マルクスの答えは次のとおり。

 

 最大多数の最大幸福の状態になると革命が起きて社会主義に移行する

 

 マルクスの特徴は、①経済だけではなく社会にまで視野を広げたこと、②「『最大多数の最大幸福』が達成されたとしても革命が起きる」とした点である。

 

 

 最後に経済学の具体的な目的について。

 経済学は近代資本主義を研究する学問であるが、具体的に調べていたものは「モノの価格が決まるメカニズム」である。

 いわゆる「ミクロ経済学」と呼ばれているものである。

 

 この点、現在の視点で考えれば、「価格は需要と供給によって決まる」と言える。

 しかし、この結論に至るまでも紆余曲折があった。

 例えば、「価格は人々の欲する意欲(需要)」によって決まるという考えがあったが、現実においてダイヤは高価で水は廉価であることを考慮すると、この考えは成立しない。

 また、「価格は投入された労働の量(供給)」によって決まるという「労働価値説」も唱えられた。

 さらに、「価値は『効用』によって決まる」という考え方も唱えられた。

 そして、この説が洗練されて「限界効用説」になった。

「限界効用説」とは「追加された最後の1単位がもたらす効用」となる。

 xがy個あったときの価値をf(x,y)と書くとき、限界効用g(x,y)は次のような式にできる。

 一言で言えば、価値f(x,y)をy(量)で微分した結果と言えばいいか。

 

g(x,y)=f(x,y+1)ーf(x,y)

 

 具体例を挙げれば、ご飯の1杯目は必ず要る(価値が高い=値段が高くなる)、2杯目はお腹が減っているときに限りいる(1杯目ほど要らない、価値や値段が下がる)、3杯目は欲しいとは思わない(さらに、価値と値段が下がる)、という要領である。

 

 もちろん、限界効用をどうやって測定するのかという問題はある(例えば、投入された労働の量が価値を決めるという労働価値説であれば、価値の測定も可能である)。

 しかし、ここでワルサスの弟子であるパレートが「限界代替率」という概念を導入して限界価値測定の問題を解決した。

 これは、1個のものだけを見てその価値を測定することはできないが、ある1個の絶対的な物(例えば、金)を固定し、金とあるもの(リンゴでもコメでも何でもよい)の2種類の交換比率を測定すれば、相対的な価値を測定することができる、という考え方である。

 

 

 このようにケインズ前の経済学はアダム・スミスの思想を前提に経済学が発展した。

 そして、このアダム・スミスの思想を理論にしたのがリカードである。

 そこで、古典派と経済学についてよく理解するためにリカードについてみていく。

 

 

 というところでこの章はお終い。

 ざっくりと把握するという点では理解できたかなあ、という感じ。

 この調子でどんどん読み進めたい。