今日はこのシリーズの続き。
『数学嫌いな人のための数学』を読んで学んだことをメモにする。
20 第4章の第3節を読む(後編)
前回までで十分条件・必要条件・必要十分条件についてみてきた。
これらの概念は数学的に重要であるのみならず、経済学的にも社会学的にも極めて重要である。
本書では、その重要性をソビエト帝国の崩壊を題材にして説明している。
なお、小室先生を一躍有名にした預言に「ソビエト帝国の崩壊」があるところ、その具体的な内容は次の書籍によって示されている(リンク先は最新の書籍と当時の書籍の二つを示した)。
この点、「ソビエト帝国の崩壊」は20世紀最大の事件であると言われている。
なぜなら、ソビエト帝国の崩壊とともにマルクシズムの革命の嵐も消えてしまったのだから。
では、ソビエト帝国の崩壊の原因は何か。
この点、ソビエト帝国の崩壊の必然を早くから認識した著者(小室先生)が指摘する最も重要な原因として、「マルキストがマルクスの主張・学説を理解していなかったこと、特に、必要条件と十分条件の違いを理解していなかったこと」と言う。
ちなみに、これは熱烈なマルキストに対する死刑宣告である。
自分の信奉するものの理解が不完全であり、それがゆえに自分の陣営が瓦解したというに等しいのだから。
なお、マルキストの不甲斐なさについては次の読書メモでも言及されている。
以下、マルキストの怠慢とソビエト帝国の崩壊についての分析について説明が続く。
まず、マルクスの主張・批判を古典経済学派の主張を補助線にして確認する。
まず、古典経済学のドグマはレッセ・フェール、つまり、自由放任であった。
つまり、「自由市場にすれば、うまくいき(不都合は起きない)」と命題を真として取り扱う、というものである。
「うまくいくのだから、失業はない」ということになる。
これに対して、古典経済学のドグマに対して「上記命題は必ずしも真ならず」と批判したのがマルクスである。
確かに、レッセ・フェールによって打ち立てられた資本主義の自由市場は膨大な資本を生み出すことができる。
しかし、その結果、おそろしい不公平・不平等を生み、労働者と失業者はとんでもない苦しみを味わうことになる。
当時は、社会主義的・福祉主義的なセーフティーネットはないから、「失業は死ぬことと見つけたり」といっても差し支えない状況にあった。
また、古典経済学者たちは「自由市場に失業はない」と宣った。
これに対して、自由市場においても失業が生じうると対抗したのがマルクスである。
その意味で、マルクスの功績は重大である。
では、どうすればいいか。
マルクス主義が唱えた主張は「失業をなくすためには、資本主義体制を打倒する必要がある」であった。
これは共産主義革命である。
そして、資本主義体制で失業や飢餓にあえぐ人々にとってこのマルクス主義の主張は福音(ゴスペル)となった。
ちょうど、ドナルド・トランプが2016年の大統領選挙に際して、経営者に対して切ったとされているタンカがラスト・ベルトの人々に対する福音となったように。
ところで、マルクスは「資本主義体制でも失業は発生しうる(発生しないとは言えない)」とまでしか述べていない。
つまり、マルクスは「資本主義体制でなければ、失業は発生しない」とは言っていない。
これは資本主義体制への批判から始まったから当然ともいえる。
そして、マルキストのマルクスに対する誤読がとんでもない悲劇の導火線となった。
つまり、マルキストは「失業をなくすために資本主義体制をつぶせ」と絶叫した。
当時は古典的資本主義全盛の時代だったから、この点はしょうがない面もある。
しかし、マルキストは「資本主義体制をつぶしても失業が発生しないとは限らない。だから、体制をつぶした後も用心しなければならない」とまでは言わなかった。
それが、大衆に持つべきではない期待を持たせてしまうことになる。
この点、今の世情を見れば分かる通り、一般人は必要条件と十分条件の違いに敏感ではない。
また、心・感情は論理ではなく宗教心理学的に働くことから、「言わなかったことは良い方向に解釈してしまう」傾向にある。
つまり、マルキストは「失業をなくすために資本主義体制をつぶせ」と唱え続けた結果、「資本主義体制をつぶせば、失業はなくなる」と思い込んでしまったのである。
マルクスは共産革命後の社会に失業があるかないかについて全く言及していないにもかかわらず。
共産革命後の社会においても失業が発生しないように適切な対処をしなければならないにもかかわらず。
さて、ロシアで革命が起き、ソビエト連邦ができた。
ところが、革命後のマルキストは何も考えていなかった。
一般人同様、宗教心理学的に心を動かし、資本主義体制でなくなったのだから、失業はなくなる、と考えてしまった。
この点は、イエス・キリストは「神の国」について何ら言及しなかったが、キリスト教徒が「神の国」に行けば理想的な生活が待っていると思いこんでしまったエピソードと同様である。
その結果、ソ連の人々は指導者も一般人も「社会主義に失業はない」と考えてしまった。
また、ソ連の指導者は「社会主義に失業はない」と考えた一般人の期待を裏切れなくなってしまった。
ところで、マルクスによれば社会主義に失業があるかどうかわからない。
だから、社会主義に失業がなければ、ソ連に問題は起きなかった。
しかし、残念ながら、社会主義経済にも失業はありえた。
なぜなら、失業が出るか否かはセイの法則が作動するか否かによるかどうかで決まり、体制が資本主義体制か社会主義体制かによって決まらないから、である。
なお、「セイの法則」とは「供給が需要を作る」という発想であり、「作れば売れる」世界である。
具体的な説明は次の読書メモに譲る。
この点、マルクスは「セイの法則」のことを「これはセイという未熟な男の戯言である」と述べた一方で、セイの法則が成立すると仮定して再生産図式を論じている。
この二者(戯言と言いながら、重要な分析の大前提に据える)は態度として両立しないので、マルクスは「セイの法則」の理解に不十分だったと推測するのは大きな間違いではないだろう。
この点、資本主義体制で失業が発生すると、失業者は塗炭の苦しみを味わうことになった。
では、社会主義体制で失業が発生するとどうなるのか。
一般人は社会主義体制に失業はないと思い込み、指導者たちもそのように宣伝してきたと考えている。
つまり、社会主義体制で失業が発生したら、体制の権威・信頼が吹き飛びかねない。
そこで、「失業はない」と言い張るしかなくなってしまう。
これが社会主義体制の悲劇の始まりとなった。
つまり、政府は失業者を企業に無理やり押し付けて解雇させないようにする。
企業は政府の命令だからしぶしぶ従うものの、その結果として社内に「潜在的失業者」が発生する。
企業は実質的に失業者になっている人間に給料を払うのだから政府に文句を言う。
そこで、政府は企業に助成金を出す。
これでは、勤労意欲は損なわれても仕方がない。
その結果、助成金の重みでソビエト帝国は財政は破綻、帝国は崩壊することになる。
以上、見てきたが、最初のボタンの掛け違いは、必要条件と十分条件の取り違えにある。
このことからも、必要条件と十分条件は社会科学にとって極めて重要な概念である。
なにせ、その違いが分からなかったために冷戦の一角を担当した帝国が崩壊してしまったのだから。
本節では、必要条件と十分条件の再確認が最後に行われているが、この辺は省略。
必要条件と十分条件の不十分な認識は私自身もよく見ている。
いや、私でも取り違えることがあるので私自身も大きなことは言えない。
しかし、必要条件と十分条件の明確な分離は人々に救いをもたらさない。
それを考えると、しょうがないのかなあ、と考えることもある。
そもそも、共産革命だって「革命後も失業がありうるから気をつけろ」などと言っていたら、革命が成就したか非常に怪しいものだし。
例えば、世情では「やればできる」という言葉が流行っている。
しかし、現実を見れば「やればできる(努力すれば成功する)」は正しくない。
むしろ、「やらねばできない(努力しなければ成功しない)」の方が正しく表現していると考えられる。
しかし、「努力しなければ成功しない」と正しく絶叫しても人は努力をしまい。
努力しても成功するとは限らないのだから。
それゆえ、「やればできる」と絶叫して人々を動機づけることになる。
それを考えると、「やればできる」に水を差すことにどれだけの意味があるのだろうか、と。
まあ、ソビエト帝国の崩壊の悲劇を見た上で考えれば、意味がないとまでは考えないが。