今日はこのシリーズの続き。
『経済学をめぐる巨匠たち』を読んで、経済学に関して学んだことをメモにする。
6 「第4章_快楽の最大化が正しい経済行動」を読む
この章の主役は功利主義の創始者であるジェレミー・ベンサムである。
ベンサムの提唱した功利主義の発想は古典派はもちろんケインズ派にも影響を与えることになる。
ベンサムはロックの前提を継承している。
つまり、ロックの自然状態モデルの前提は次のとおりであった。
① 自然状態において、人は身分や特権はない
② 人が所有するのは、生命・身体・自由、そして、予見能力である
③ 人は労働によって富を増やすことができ、増価させた富はその人の労働に由来するため労働した者が所有することができる
ベンサムはこの前提、具体的には、予見能力の部分を修正することになる。
つまり、ロック(ホッブス)の場合、「予見能力によって、人は将来の欲求(未来の食糧等)を見越して行動できる」となっていた。
しかし、ベンサムの場合、さらに踏み込む。
つまり、「人は将来の欲求を見越して行動できるだけではなく、その効用・将来の幸福度の度合いも正確に計算できる」という前提を置いた。
この前提を置けば、「人間は自分の幸福度が計算でき、その計算によって市場で行動し、自分の幸福度を最大化することができるのだから、国家は市場に対して個人間の権利調整以外のことはするんじゃない」となり、自由放任(レッセ・フェール)を導くことになる。
この点、「正確に」という部分に注目すると、ベンサムの前提は「ばんなそかな」となる。
しかし、「人間が効用・将来の幸福度合いを計算しようとする」点は間違いではない。
常に計算するわけではない、とか、正確に計算できるわけではない、とは言えても。
よって、ベンサムの置いた単純なモデルは科学的に見て突飛な手法ではなく、「シンプルなモデルを作り、徐々に複雑にする」という極めてオーソドックスな手法であると言えそうである。
もちろん、「単純すぎる」という批判はあり得ても。
このベンサムの主張は古典派を支えたことは言うまでもない。
しかし、ベンサムの主張は古典派に相対するケインズにも利用された。
具体的に利用された発想が「流動性選好説」である。
流動性選好説を簡単に書くと、「『富の上昇を狙って利子の付く証券を持つ』選択を捨て、『利子がつかないが安定性のある現金選ぶ』選択を採ることがありうる」という考えである。
ここでは、話を単純にするため、財産保有の手段を現金(貨幣)と証券の二択とする。
現金を持てば利子がつかないが、証券を持てば利子が付く。
この場合、古典派の前提に立てば、つまり、合理的に考えれば、「人は現金ではなく証券を持つ」ということになる。
しかし、現実を見れば、「証券より現金を持つ」という選択をすることは十分ありうる。
何故なら、証券は証券の価格が変動しうる一方、インフレを考慮しなければ現金の価値は変わらないからである。
そこで、証券を持つリスクを考慮し、証券を持つことによる利子を捨てて流動性の高い現金を持つ選択を採ることもある、というのが流動性選好説である。
この流動性選好説は日本人が現金を好む傾向があることの背景の説明として十分役に立つだろう。
流動性選好説の背景には「未来について完全に計算することはできない」ということがある。
ベンサムの功利主義を見たところで、本章は功利主義と経済学、古典派とケインズ派についての話に移る。
経済学を突き詰めていくと、古典派とケインズ派のいずれかに分かれる。
この両者の論争が経済学を発展させたのは言うまでもない。
では、何故この二つの学説が生き残っているのか。
その答えはマルクスが示唆している。
マルクスは「自然科学だけではなく、社会科学にも人の手で変えられない法則がある」ことを発見した(いわゆる「疎外」)。
この法則のうち経済において重要なものが、「モノの価格は需要と供給によって決まる」というものである。
この法則から見た場合、「供給によって需要が決まる」と考えているのが古典派、「需要によって供給が決まる」と考えているのがケインズ派である。
つまり、古典派・ケインズ派はいずれも人の手で変えられない基本かつ重要法則を下敷きにしているため、生き残っているということができる。
この点、ケインズ派が古典派に対するカウンターとして生まれたのは歴史を見れば明らかである。
では、古典派の後ろにはどんな背景・思想があるのか。
古典派は言う、「市場を自由にすれば、『最大多数の最大幸福』が達成され云々」と。
この「我々は『最大多数の最大幸福』を追求すべき」と世に問うたのは、功利主義の元祖たるジェレミー・ベンサムである。
この功利主義の発想を簡単にまとめると次のようになる。
・人は快楽と苦痛のバランスを考えて行動を決定し、かつ、人は快楽(苦痛)の効用を計算することが可能である
・政府の役割・政治の目的は、人々の計算に基づいて「最大多数の最大幸福」を実現することにある
つまり、善悪の判断よりも快不快のバランスの方が重要であり、快楽・幸福を最大化するのが正しい、というのがベンサムの功利主義の主張となる。
この点、ベンサムがこのような主張をした時代はまだ近代資本主義が始まった段階であるので、反発も多かった。
当時の伝統主義から考えた場合、贅沢や利子は悪であったから、ベンサムの考えは異端だったと言える。
ただ、ベンサムと同様の主張をおこなった人はいた。
例えば、「個人の悪徳は公共の美徳である」と主張したマンデヴィルである。
アダム・スミスはこのマンデヴィルの『蜜蜂物語』をモデルにして『国富論』を書いたと言われている。
そして、このスミスの考えを科学的に証明して経済理論化したのが前回の主役であるリカードである。
さらに、パレートによって「最大多数の最大幸福」は「パレート最適」という概念に発展していくことになる。
以上のように見ると、古典派の思想は、ジョン・ロック、マンデヴィルの発想を下敷きにして、アダム・スミスやベンサムに引き継がれ、リカードやパレードなどによって完成したと言える。
また、ロックの思想まで遡ると、資本主義における近代国家の役割が分かる。
つまり、国家は契約(憲法)によって成立する政府であり、政府・政治の目的は個人相互の権利の調整である、と。
そのため、近代国家の立憲民主主義と資本主義は不可分の関係に立つ。
このような不可分性を考慮すれば、憲法・民主主義の危機は資本主義の危機であり、資本主義の危機は憲法・民主主義の危機であることになる。
こんな大事なことを日本の憲法学者は教えんのだ、と著者は嘆いてこの章は終わる。
まあ、日本のファンディに照らせば不可分の関係にあるものを無理やり分離することはあるので、不思議でも何でもないが。
以上が本章のお話。
メモとしてそこそこの分量になったため、今回はこの辺で。