今日はこのシリーズの続き。
『数学嫌いな人のための数学』を読んで学んだことをメモにする。
24 第5章の第2節を読む
第2節のタイトルは「国民(national)を理解すると経済が分かる」。
第1節では、「恒等式と方程式の違い」と「古典経済学派のドグマ」たる「セイの法則」についてみてきた。
第2節はこれらの話を前提にして進んでいく。
なお、今回の話の歴史的な部分については次の読書メモでも参照している。
前セッションは、「古典経済学派の主張において『失業』はない」というところで話は終わった。
ただ、ここでの失業とは「働きたくても働けない」という意味の失業者に限定されており、例えば、「就業の意志がなくなって失業者になった場合(自発的失業)」や「条件が折り合わなくて失業になった場合(摩擦的失業)」は含まれないことには注意が必要である。
ちなみに、古典経済学派がこのように考える理由は、「『セイの法則』は常に成立すると考えているから」である。
つまり、「セイの法則」は「作れば売れる」であるところ、これを労働市場で適用すれば、労働力を生み出して市場で売ろうとすれば必ず売れる、つまり、職業にありつけることを意味する。
つまり、「セイの法則が正しければ、失業はない」ということになる。
そして、これが古典経済学派のドグマということになる。
ところで、古典経済学派がこのようなドグマを採用することは集団や個人の勝手、いわば、「思想良心の自由」(憲法19条)に属するお話である。
だから、そのようなドグマを採用・要請するのは自由である。
もっとも、ドグマを採用・要請することと、そのドグマが現実的妥当性を有するかということは別問題である。
よって、そのドグマが成立することを外部に説明する責任がある。
その説明に成功しなければ、このドグマが説得力を持つことはない。
この点、ヨーロッパでは資本主義が勃興してから大恐慌まで、概ねセイの法則が妥当していた。
もっとも、大恐慌によって「セイの法則」が一気に作用しなくなった。
大恐慌の時代、需要がないのだから当然である。
そんななかで「失業はない」などと言っても実効性がない。
そのため、古典経済学派は一時大きく権勢をそがれることになる。
そして、この古典経済学派に挑戦したのが、ジョン・メイナード・ケインズである。
ケインズは『雇用・利子および貨幣の一般理論』を引っ提げて古典経済学派に挑戦することになる。
もっとも、この本は難解であった。
例えば、ポール・サミュエルソン(経済学者、後述のメモ参照)は「私は、この本を一読して少しも分からなかったことを自覚しなければ必ずや反発していたことであったろう」と述べているくらいである。
しかし、ケインズの難解無比の理論は数学の概念を用いて底の底まで理解できるらしい。
そこで、以下、本書の説明を見ていく。
なお、ケインズの本が分かりにくかった理由は、従前の経済学はミクロ経済しか見ておらず、マクロ経済を考えるという発想がそもそもなかったからである。
というわけで、ケインズの説明を見ていく。
まず、「国民(nation・national)」という概念についてみていく。
そもそも、アメリカは州の集合体であり、合衆国全体を表すための一言がなかった。
現在でも「アメリカ合衆国」は「the_United_States」と呼ばれているが、これは複数語である。
そこで、アメリカ全体を示す概念として「nation」・「national」が登場した。
ここで、本書では例題問題があるのでそれを見ておく。
national_budget → 合衆国予算(国家予算)
state_budget → 州予算
local_budget → 地方自治体(群市町村)の予算
そのことを頭に入れて、いくつかの概念を見ていく。
以下、日本の具体的数値を見ながら検討する。
まず、「国民所得」とは「国民全体の所得」である。
日本なら約500兆円といったところであろうか。
次に、「国民生産」とは「日本国内の企業・個人の生産したものすべてを計上した金額」となる。
また、「国民消費」とは「日本国内の企業・個人の消費したものすべてを計上した金額」となる。
さらに、「国民投資」とは「日本国内の企業・個人の投資したものすべてを計上した金額」となる。
この点、所得・聖餐・消費・投資と言った概念は個人・企業などでもカウントできる。
しかし、そのことは国民全体でカウントできないことを意味しない。
よって、ここでは、マクロな観点、つまり、国民全体で考えていくことにする。
もっとも、問題となるのが、国民全体の所得なんてカウントできるのか、ということである。
この点は、イギリスの経済学者ヒックスが社会会計学を発明することで計算可能となっている。
以下、マクロ経済学のエッセンスをみていく。
まず、国民需要は消費Cと投資Iとすれば、C+Iと書ける。
有効需要という概念を用意したのは、この有効需要が国民生産を決定するからである。
つまり、国民生産をYとすると、
Y=C+I
となる。
そして、この関係式のことを有効需要の原理と言い、最も単純なケインズモデルになる。
つまり、ケインズの急所をもっとも単純にして表現したのが上の数式になる。
ちなみに、Cは消費Consumption)、Iは投資(Investment)、そして、Yは生産(Yield)の頭文字だそうである。
さて、古典経済学派は「セイの法則」を用いて「供給が需要を作る」と述べた。
これに対して、有効需要の原理を引っ提げたケインズは「需要が供給を作る」と述べた。
その意味で、両者は正反対である。
なお、Y=C+Iという式は方程式である。
というのも、Y(有効需要・国民生産)は定数Cと定数Iによって決定されるため、変数たるYは自由に決められないからである。
また、この式から「需要と供給(消費と投資)が均衡している」ことが分かる。
つまり、この方程式は市場均衡の方程式を示していることになる。
また、ここでは簡単化のため国民所得と国民生産を一致するものと考える。
なお、厳密には両者は一致せず、それゆえ、Yが登場したときはそれが国民所得と国民生産のいずれなのかを識別しなければならないが、ここで取り扱うケインズの最単純モデルでは両社は一致するからである。
Y=C+I
は方程式である(CとIによってYが決まる)と述べた。
どういうことか。
ここで、生産から消費を引いた分、つまりY-Cを貯蓄(S,Saving)と置く。
この場合、IとSは同値になる。
つまり、セイの法則が成立するならば、「貯蓄はすべて投資(営利追求行為の原資)となる」
この結果は、マックス・ヴェーバーの資本主義の精神を実践したプロテスタントたちの行動を数式で表現したものと言える。
行動的禁欲の下、貪欲を禁じられた彼らは貯蓄を投資するほかなかったのだから。
なお、この辺の詳細は次のメモに譲る。
つまり、古典経済学派はセイの法則は常に成立する(恒等式)と考えるのに対して、ケインズ派は一定の均衡条件が成り立つ場合に限り成立する(方程式)と考えることになる。
なお、「一定の均衡条件が成り立つ場合に限り成立する」とあるが、そもそも解が存在するかという問題もあれば、解があるとして現実においてそこに収束するかという問題は別問題である。
ちなみに、前者のことを存在条件、後者のことを安定条件と言う。
さて、有効需要の原理たるY=C+Iは方程式であると述べた。
その結果、この式は必ずしも成立しないことを意味する。
その具体例がクラウディング・アウト(閉め出し)である。
例えば、有効需要が10兆円分あるのに対して、供給サイドが8兆円分しかないとする。
この場合、セイの法則が成立し、8兆円分の供給は総て需要を満たすことになる。
他方、需要は完全に満たされない。
この場合、セイの法則は成り立つが、有効需要の原理は成立しない。
この点、食糧や生活必需品が不足している状況であれば、セイの法則は必ず成り立つと言える。
クラウディング・アウトの実例として本書では第二次世界大戦のときを挙げている。
第二次世界大戦がはじまったころ、軍需品需要が激増し、有効需要は激増した。
これに対して、生産力が桁違いのアメリカはその需要を満たしたが、生産力の低かった日本は有効需要に対する供給を満たすことができなかった。
特に、飛行機需要については供給が追い付かず、結果、日本は負けることになる。
この有効需要の原理を実地で証明したことにより、ケインズ経済学の実効性が証明され、戦後はケインズ派の全盛時代を迎えることになる。
ところで、クラウディング・アウトが生じれば、セイの法則が作動し、有効需要の原理は作動しなくなる。
よって、クラウディング・アウトはセイの法則が作動するための十分条件となる。
では、セイの法則が作動する場合の必要条件は何か。
それは資金不足である。
つまり、資金不足が生じれば、設備投資ができず、生産力が不足する。
その結果、有効需要を満たせなくなり、セイの法則が作動すると共に有効需要の原理は必ずしも作動しなくなる。
このことは全体で見ようが、個々の個人・企業でみようが変わらない。
以上が本節の内容である。
内容はざっくりとは知っていたが、数式にすることで具体的・定量的に把握することができた。
その意味で数学はすごいなあ。