今日はこのシリーズの続き。
『数学嫌いな人のための数学』を読んで学んだことをメモにする。
22 第4章の第4節を読む
第4節のタイトルは「対偶の論理_何かがうまくいっていないときのおすすめ発想法」。
「対偶」という概念と「対偶」を利用することの絶大な効果について説明されている。
つまり、「対偶」という概念は思考や議論などの論理を使いこなす場合に絶大な威力を発揮する。
しかし、思考や議論を突き詰めることが奨励されない日本教や日本社会では、受験や就活直前にちょっとやるだけで馴染みのない概念と化している、と。
対偶を具体例を用いて説明すれば、次のようになる。
「猫であれば、動物である」という命題の対偶は「動物でなければ、猫ではない」となる。
「動物でなければ、猫ではない」という命題の対偶は「猫であれば、動物である」となる。
そして、元の命題が正しければ、対偶も正しい。
この具体例を一般化すれば、次のようになる。
「AならばBである」という命題の対偶は「BでなければAでない」である。
元の命題が正しければ対偶にあたる命題も正しい。
対偶が絶大な威力を発するのは「元の命題が正しければ対偶も正しい」からである。
つまり、元の命題をひっくり返したり、否定の形に置き換えた場合、正しいか否かは分からないからである。
例えば、「AならばBである」と「BならばAである」という2つの命題を考える。
ちなみに、この二つの命題(「P→Q」と「Q→P」)の関係は「逆」の関係にある。
具体例を挙げれば、「猫ならば動物である」と「動物ならば猫である」という命題を考える。
具体例を見れば分かる通り、「AならばBである」が正しい(十分条件)としても、「BならばAである」が成立するとは限らない。
猫ならば動物であるとしても、猫ではない動物はたくさんあるからである。
あるいは、「AならばBである」と「AでなければBでない」という2つの命題を考える。
ちなみに、この二つの命題(「P→Q」と「notP→notQ」)の関係は「裏」の関係にある。
具体例を挙げれば、「猫ならば動物である」と「猫出なければ動物ではない」という命題を考える。
具体例を見れば分かる通り、「AならばBである」が正しい(十分条件)としても、「AでなければBではない」が成立するとは限らない。
猫ではない動物ならいくらでもあるからである。
このように、ある正しい命題があるとしても「裏」や「逆」が正しいとは限らない(必要十分条件となれば正しいが、そうでなければ正しくない)。
他方、「対偶」は正しく同値関係にある。
これが「対偶」の威力を発揮するゆえんである。
以上、対偶の定義とその威力が発揮する理由を示した。
つまり、対偶にあたる命題を証明すれば元の命題の正しさも証明できる。
そこで、元の命題の証明が困難な場合、対偶命題を証明するという手段で元の命題の正しさを証明するわけである。
本書では、大恐慌においてケインズに対抗した古典経済学者ピグーの反論を題材にしている。
古典経済学は「市場が自由競争状態であればうまくいく」という命題をドグマ(真)と扱う学問である。
この点は次の読書メモにまとめたとおりである。
さて、「市場が自由競争状態であれば、うまくいく」という命題が正しいならば、失業も発生しないことになる。
他方、大恐慌のとき、失業は増える一方で収まる気配がなかった。
つまり、この時代は「うまくいく」状況になかったわけである。
さて、「市場が自由競争状態であれば、うまくいく」という正しい命題の対偶を取れば、「うまくいかない場合、市場は自由競争状態にない」になる。
そこで、古典経済学者ピグーは失業といううまくいかない原因を市場が自由競争状態にないことに求め、社会をしらみつぶしに調査して自由競争を阻害する原因を求めた。
その結果、労働力市場における労働組合が自由競争を阻害していることに気付くことになる。
というのも、イギリスは資本主義が早くから始まった国である一方、労働組合などについても最先端をいっていたからである。
では、労働組合があると何故自由競争が阻害されるのか。
景気が落ち込んだ場合、資本家の収益が悪化する。
その結果、資本家が労働者を解雇する、または、労働条件が悪化する。
その結果、失業者は悪化した労働条件でも働こうとする(でないと飢えて死ぬ)ため、悪化された条件で雇用され失業者は減る。
競争が自由であれば、このようにして失業者は減ることになる。
しかし、労働組合がある場合、労働者の生存権のため労働条件の切り下げに抵抗する。
その結果、景気が落ち込んでも資本家は労働条件が悪化できず、その結果、雇用することができない関係で失業者を再雇用できない。
このようなからくりのため、労働組合が自由競争の阻害要因とみなされることになった。
かくして、ピグーは「労働組合を弾圧して、市場を自由競争に戻せ」と主張することになる。
この点、ピグーの主張の当否は歴史が示している通りなのでこの点への言及は控える。
しかし、このピグーの主張を押し立てる際、対偶という概念が使いこなされていることは間違いない。
このように、アメリカ・ヨーロッパでは議論において対偶を使いこなすが日常化している。
本書で紹介されているもう一つの例がアメリカの金融危機への対処である。
1980年代後半、アメリカで金融機関の大量倒産が始まり、大銀行の経営が揺さぶられ、金融制度そのものが危機に直面した。
そこで、古典経済学者による原因の追究が行われた。
ここで用いられたのがピグー教授と同じ方法である。
この点、「自由市場にすれば、うまくいく」は古典経済学派のドグマでもあるが、敬虔な資本主義者たるアメリカのドグマであり、この命題は正しいことになる。
そこで、この対偶たる「うまくいかない(失業が発生する、金融危機が起こる)場合、自由市場になってない」という命題も正しいことになる。
そのため、エコノミストは市場の自由を阻害している原因を探し、預金保険制度にこの原因を求めることになった。
つまり、市場の選別・淘汰機能を十全ならしめるためには、情報開示を充実させ預金者・投資家に金融機関をチェックさせる必要があるところ、預金保険制度がこのチェックを緩めてしまっているというわけである。
つまり、大恐慌時代に銀行はばたばた破産し、取り付け騒ぎが発生した。
そこで、アメリカ政府は預金支払いを保証することで預金者を安心させ銀行制度を維持するために政府が預金払いを保証した。
大恐慌を救ったこの預金保険制度がアメリカの銀行制度を支えたといっても言い過ぎではない。
しかし、この預金保険制度が金融機関のモラルハザードをもたらした。
つまり、金融機関は高金利で大量の預金を集めてリスクの高い投資を行うなどずさんな経営に走っていたのである。
その結果、景気が後退へ向かった際に、巨大な不良債権が残った。
また、金利が下がって預金者に与える高金利を下回ってしまい大赤字となった。
一連の流れを見たアメリカのエコノミストは、不良債権や金融危機というよからぬことの原因を対偶を用いることで指摘したのである。
そして、レーガン政権は預金保険制度の大整理に着手し、金融機関も経営方針の転換を迫られ、その結果として不良債権を減らして金融危機を脱したのである。
このエピソードを日本と比較してみると興味深い。
以上が本節のお話である。
十分条件・必要条件の理解、対偶の理解が何をもたらすかを理解することができた。
もっとも、論理を重視しない日本でそれを主張したところで何も響かないような気がするが。