薫のメモ帳

私が学んだことをメモ帳がわりに

『数学嫌いな人のための数学』を読む 9

 今日はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

『数学嫌いな人のための数学』を読んで学んだことをメモにする。

 

 

9 第2章の第2節を読む

 第2節のタイトルは「東西の『論理』の違い」

 前節で、アメリカ・ヨーロッパの論理は「神(絶対神)を説得すること」を目的とし、中国(儒教系)の論理は「人(君主)を説得すること」を目的とし、日本はそもそも論理や説得を重視していないことを確認した。

 この節ではこれらの点について深く踏み込んでみる。

 

 

 まず、近代数学の前提となったヨーロッパの論理の「形式論理学」からみていく。

 この点、形式論理学古代ギリシャアリストテレスが完成させた

 そして、古代イスラエルの民が「神との契約」を通じて現実の社会で駆使していく。

 

 

 これまでの読書メモで何度も触れてきたことであるが、ユダヤ教では「神との契約事項の遵守」が求められる

 そして、契約違反の代価は民族滅亡(国家の滅亡)であった。

 そこで、「違反したか、しなかったか」の判断が厳格に求められることになった

 契約違反か否かによってその後の未来が変わると考えられていたのだから、このことは当然ともいえる。

 

 この点、この判断においては「違反が『ある』とも言え、『ない』ともいえる」といった両立した状態は許されない

 この結果、形式論理学の「矛盾律が導かれることになった。

 

 次に、同時に、「『ある』わけでもないが、『ない』わけでもない」といったどちらの結論でもないような第三の状態も許されず、「『ある』か『ない』かのどちらかである」必要がある。

 この結果、形式論理学の「排中律が導かれることになった。

 

 さらに、上記二つの前提には「契約の内容はかくかくしかじかである」と定義する必要がある

 この定義は言葉で正確に表現できることが必要である。

 また、将来の紛争に備えるならば文章になっていることが望ましい。

 この点、当然の前提などについては「黙示」のものもありうるであろうが、「何も言うな。目を見ろ。とにかく信じろ!」などというのは論外である。

 その結果、形式論理学の「同一律が導かれることになった。

 

 以下、本書では「命題」をめぐって説明が続く。

 この「命題」とは「『真』か『偽』かが判定できる内容の文章」のことである。

 つまり、「正しいか正しくないかが判定できる文章」が命題である。

 

 それから、真偽の意味は次のとおりである。

 

真である=正しい=成立する

偽である=正しくない=成立しない

 

 この点、形式論理学を構築したアリストテレスは、同一律(定義)という当然の前提に矛盾律排中律を定式化した。

 そして、この同一律矛盾律排中律の3つの基本原則(ルール)こそ形式論理学を完璧な論理学たらしめているのである

 

 この点、この3つのルールは形式論理学以外の「論理学」では必ずしも確立しているわけではない。

 形式論理学からほど遠い「論理学」もあれば、否定している論理学もある。

 また、「論理」を学と認めない思考や「論理」に興味のない人もいよう。

 さらに言えば、「定義」という考え方が未発達な「論理学」も少なくないし、定義の概念のない思考法もある。

 

 ただ、古代ギリシャから始まった近代数学形式論理学のみを証明法として利用した

 つまり、近代数学形式論理学と密接な関係を持っていたともいえる。

 その結果、近代数学は大躍進を遂げ、学問の基礎となった。

 

 このことから、代数学を知るためには形式論理学を知るのが手段として合理的である。

 また、形式論理学は近代数学以外の様々な場所で活用されている。

 そこで、形式論理学についてこれからみていくことにする。

 

 

 ここから、本書は「食物規定」を用いて「論理の違い」についてみていく

 というのも、過去の日本の食物規定とユダヤ教の食物規定を比較すると論理の違いがよく見えるからである。

 

 まず、ユダヤ教の食物規定には同一律がある

 つまり、「食べて良い物」と「食べてはいけない物」がはっきり定義されている。

 また、ユダヤ教の食物規定には矛盾律排中律もある

 つまり、「食べていいと同時に食べてはいけない物」はないし、「食べて良い物」・「食べてはいけない物」のいずれにも該当しない物もなく、総ての食べ物は「食べて良い物」か「食べてはいけない物」に該当する。

 よって、ユダヤ教の食物規定には形式論理学が綺麗に適用されていると言える。

 

 これに対して、過去の日本を見るとどうか。

 日本では状況と環境により食物規定がころころ変わっていた。

 例えば、徳川時代は「四本足の動物は食べてはいけない」と言いながら、「ウサギは一羽二羽と勘定するから食べていい」・「イノシシは山クジラと呼ばれるから食べていい」などと言われた。

 もちろん、「四本足の動物は食べてはならない。ただし、ウサギとイノシシはその限りではない」などと原則と例外が明確に規定されていれば問題はない

 しかし、「牛は食べてはいけないが、彦根牛は食べていい」などと「(緊急性・必要性がないのに)状況によっては食べて良い」となれば、めちゃくちゃである。

 このように、「日本の食物規定には同一律矛盾律排中律もない」といってよい状況になっている。

 まあ、日本は論理も言葉も使いこなしていないことを見れば当然の結果とも言いうるが。

 

 なお、この傾向は食物規定だけにあるのではない。

 契約全般にわたって形式論理学基本法則は十分活用されているのである

 

 まず、同一律について見るとユダヤ教では律法の中にいわゆる「契約の箱」や神殿・本殿の作り方について寸法を含めた詳細な命令がある。

 以下、『出エジプト記』の第25章から詳細な命令の内容を引用してみる。

 日本人が見ればかなり具体的である。

 

(以下、『出エジプト記』の第25章の第1節から第16節までを引用、節番号は省略、各節ごとに改行)

 主はモーセに言われた、

イスラエルの人々に告げて、わたしのためにささげ物を携えてこさせなさい。すべて、心から喜んでする者から、わたしにささげる物を受け取りなさい。

 あなたがたが彼らから受け取るべきささげ物はこれである。すなわち金、銀、青銅、

 青糸、紫糸、緋糸、亜麻の撚糸、やぎの毛糸、

 あかね染の雄羊の皮、じゅごんの皮、アカシヤ材、

 ともし油、注ぎ油と香ばしい薫香のための香料、

 縞めのう、エポデと胸当にはめる宝石。

 また、彼らにわたしのために聖所を造らせなさい。わたしが彼らのうちに住むためである。

 すべてあなたに示す幕屋の型および、そのもろもろの器の型に従って、これを造らなければならない。

 彼らはアカシヤ材で箱を造らなければならない。長さは二キュビト半、幅は一キュビト半、高さは一キュビト半。

 あなたは純金でこれをおおわなければならない。すなわち内外ともにこれをおおい、その上の周囲に金の飾り縁を造らなければならない。

 また金の環四つを鋳て、その四すみに取り付けなければならない。すなわち二つの環をこちら側に、二つの環をあちら側に付けなければならない。

 またアカシヤ材のさおを造り、金でこれをおおわなければならない。

 そしてそのさおを箱の側面の環に通し、それで箱をかつがなければならない。

 さおは箱の環に差して置き、それを抜き放してはならない。

 そしてその箱に、わたしがあなたに与えるあかしの板を納めなければならない。

(引用終了)

 

ja.wikisource.org

 

 次に、矛盾律について見ると絶対神は人間(イスラエルの民)と契約において、契約を「破った」か、または、「破らない(遵守した)」かの区別に固執する。

 よって、「破らない」と「破った」が同時に成立することはない

 例えば、十戒には「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。」(『出エジプト記』の第20章の第3節・第4節)という条項がある。

 他方、エジプトから脱出してシナイ山に到達したイスラエルの民は、モーセの不在中、犢の像を作って拝みだしてしまった。

 この「イスラエルの民は犢の像を作ってそれを拝んだ」という事実と「イスラエルの民は律法を守った」という事実は両立しない(矛盾する)ことになる。

 このとき、神が激怒して民を皆殺しにしようとし、それに対してモーセが神を説得したのはこれまでに何度も述べたとおりである。

 

 最後に、排中律について見ると、神との契約に関しては「破った(遵守しなかった)」と「遵守した(破らなかった)」以外の第三の選択肢はない。

 よって、排中律についても成立している。

 

 確かに、形式論理学が完成したのはギリシャにおいてである。

 しかし、それを宗教や社会に実践したのは、絶対神の存在を確信するユダヤ教においてであった。

 このような「形式論理学の社会的実践」は古代から一部の社会で実践されていたのである。

 そして、この流れが近代資本主義の前提として重要な役割を果たしたことはこれまで述べたとおりである。

 

 

 ところで、アリストテレスは「同一律矛盾律排中律」の3つの原則を確立させた。

 そして、この3つの原則が近代数学に用いられるようになった。

 とはいえ、この3つの原則はとっつきにくいものでもある

 だから、この3つの原則の上に成り立っている数学が分からないことは無理からぬ話ともいえる。

 

 ところで、この形式論理学の3つの原則は近代の学問に応用され、近代裁判に利用されることになる。

 ここでは、近代裁判に3つの原則が用いられていることを確認する。

 

 この点、近代裁判の結論として、次の2つが考えられる。

 

1、Aは有罪である

2、Aは無罪である(有罪ではない)

 

 まず、近代法の大原則たる「罪刑法定主義」から見た場合、「『罪』に当たる行為はかくかくしかじか、それに対応する『刑』はかくかくしかじかである」とあらかじめ『法』律に『定』められている(ちなみに、『』で囲った4文字を抜き出して最後に『主義』をくっつけると、「罪刑法定主義」になる)。

 よって、「有罪とはかくかくしかじかである」と定義されており、同一律が満たされている

 また、近代裁判において、「Aは有罪であり、同時に、無罪である」という判決が出ることがないので、矛盾律が満たされていることがわかる

 さらに、近代以前のヨーロッパでは有罪でも無罪でもない「中間刑(嫌疑刑)」のようなものがあったが、近代裁判の場合、有罪の証明がない場合は全部無罪になる(例えば、刑事訴訟法336条参照)ので有罪と無罪以外の結論はない。

 そこで、近代裁判では排中律も満たされている

 ちなみに、日本の法律では刑事訴訟法336条にこのことが示されている。

 

刑事訴訟法336条

 被告事件が罪とならないとき、又は被告事件について犯罪の証明がないときは、判決で無罪の言渡をしなければならない。

 

 ところで、19世紀、日本は近代化への道を歩み始めた。

 もっとも、近代資本主義国家の法律の論理の緻密さ・厳密さに日本人は驚くことになる

 この点、次の読書メモで言及した通り、日本人は「無罪のようでも有罪でもあるような判決」・「勝訴のようであり、敗訴のような判決」・「和解」を好む傾向がある(各当事者はさておくとしても)。

 ピンとこなければ、「『大岡裁き』のようなものを好む」と言い換えることができる。

 

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 そのため、明治時代の人々はヨーロッパの近代裁判を見て、びっくり仰天し、大変な嫌悪感をもったという。

 そして、末弘厳太郎(すえひろいずたろう)博士はヨーロッパの法律と日本のルールの違いを説明するために、『嘘の効用』なる名著を執筆している。

 この点について、日本の法学者たる川島武宜博士(後述のメモで言及している)は『日本人の法意識』の182ページにおいて次のようなことを述べている。

 

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(以下、『日本人の法意識』の182ページから引用、強調は私の手による)

 昭和二十九年に発行された『調停読本』には、日本調停協会連合会会長溝口喜方氏(中略)が序文を書き、「云うまでもなく調停の基本精神は和であって聖徳太子が今から千三百五十年前制定された十七条憲法の第一条に『以和為貴(私の注、「和を以て貴しと為す」のこと)』と示されている通り、和を尊ぶのがわが国民性であるから、わが国において調停制度が発達するのも当然であろう』というふうに、調停の基本精神を述べており、

(引用終了)

 

 

 では、ここで述べられている「調停の基本精神」とは何か。

 川島博士は次のように述べている。

 

(以下、『日本人の法意識』の183ページから引用、強調は私の手による)

同書(私の注、昭和二十九年に発行された『調停読本』のこと)の中にある、調停の際心がけるべき要点を示す「調停いろはかるた」には、「論よりは義理と人情の話し合い」とか、「権利義務など四角にものを言わず」とか、「なまなかの法律論はぬきにして」とか、「白黒をきめぬ所に味がある」というような、「我国古来の淳風美俗」の精神が盛られているのである

(引用終了)

 

 このように、近代への道を走りだした日本人であっても、基本的に判決ではなく、調停や和解による解決を好むようになった。

 そして、この調停の精神は近代裁判の論理、つまり、形式論理学ではない。

 なにしろ、ここの調停の結論は、「勝ちでもあり負けでもあるような結論」「勝ちでも負けでもない結論」だというのだから。

 ここには、矛盾律排中律も存在しない。

 

 

 ところで、前述の末広博士は法律における「嘘の効用」について「法律は厳格で動かせなかったから、法律に適用される『事実』を動かすこと、つまり、『真実』ではなく『嘘』を使うことを考えた。」旨述べている。

 つまり、真実を法律に適用するとおかしなことになるので、嘘、つまり、虚偽の事実、いわば、「虚構を用いる」ことになった、と

 

 なにやら「『空気』の支配」や「員数主義」の影が見えてきたが、この「嘘」について川島先生は次のように述べている。

 

(以下、本書の83ページから引用、強調は私の手による)

「事実に反するということを知っている者が、そのことを知らない相手にそれを事実として述べてだます行為」を意味するのではなく、(中略)、社会の現実の必要にかんがみると、法律上の定めを厳格に文字どおり守るわけにはいかないので、法律のことばの意味を操作して、あたかも法律を条文のことばどおりに守ったかのごとき外形をつくる行為を、この「嘘」という言葉は意味しているのである。

(引用終了)

 

 つまり、ここでいう「嘘」とは「公共の利益のために、虚構の事実をでっちあげることにより、法律が適用されている外観を作出すること」らしい。

 まさに、「員数主義」であり、「空気」である

 もちろん、個々の場面で「員数主義」や「空気」を作り出すことの当否はさておいて。

 

 

 以上で第2節は終わり。

 次は第3節についてみていく。