今日はこのシリーズの続き。
『昭和天皇の研究_その実像を探る』を読んで学んだことをメモにする。
26 第14章を読む_後半
前回は、「守成の君主」に対する評価の難しさ、立憲君主に殉じた昭和天皇に対する批判、天皇絶対を口にしながら天皇を機関説扱いした陸軍関係者や藩屏(重臣)についてみてきた。
今回は、この続きである。
この点、戦前と戦後とを通して昭和天皇は「憲法絶対」という点を変えていない。
その意味で、昭和47年9月の昭和天皇のお言葉は十分に「その通り」と言える。
また、日本が大日本帝国憲法を公布したのは1889年、アジアで最初である。
その間、憲政自体が根付かなかったという評価はありえても、憲法自体を廃止することはなかった。
もちろん、次の読書メモにあるように「大日本帝国憲法は実質的に死んでいたのではないか」といった突っ込みはさておいて。
そして、昭和21年に「大日本帝国憲法73条によって憲法改正案を帝国議会の議に付す」旨の昭和天皇の詔書により現在の日本国憲法へ移行する。
この点、憲法改正に関する昭和天皇の「功」を認めない者はいないだろう。
まあ、「やって当然のことであり、『功』ほどのものではない」とか「大日本帝国憲法こそ最善であるから、この憲法改正は『罪』である」という意見を持つ者は除くとしても。
そして、この「日本国憲法改正の功」と「天皇戦争の戦争責任の罪」は表裏の関係にある。
つまり、昭和天皇の戦争責任を肯定する立場の人間は、「二・二六事件の処理」と「聖断」を罪と判断しないだろう。
たとえ、昭和天皇がこれらを憲法違反として罪と考えたとしても、この2点がなければ憲法や日本が消えていたであるから。
では、憲法通りに裁可して戦争が始めたら罪となるのか。
本書ではその判断を読者に委ねる旨述べている。
もっとも、その際は前提について気を付けなければならない。
本書では、長崎市長の立場で天皇の戦争責任に言及し、右翼に銃撃された本島等氏の発言が紹介されている。
その天皇責任の根拠となる事実が「和平に関する重臣の上奏を退けたこと」としている。
もし、ここでいう「重臣の上奏」が「閣議や最高戦争指導会議による上奏」であれば、そのような事実は存在しない。
なぜなら、このような上奏を退けたとすれば「拒否権の行使」にあたるところ、このような事例は存在しないから。
他方、「単なる重臣による昭和天皇への意見の表明」を「内奏」とするのであれば、ありえない話ではない。
もっとも、この内奏の事実とこの内奏に対する昭和天皇の応答は侍従長や侍従武官長が立ち合う、メモを残す、天皇が何かの感想を述べてそれを周囲の人間が『日記』にでもしていない場合を除けば、明らかにならないだろうが。
また、このような意見の表明はフリー・トーキングであって、「(正規の機関からの)憲法上の手続きを経た『上奏』・『裁可』」ではない点も注意しなければならない。
この点、昭和天皇とマッカーサーは、二者の会談を秘密にする旨約束した。
そして、昭和天皇はこの約束を守り、マッカーサーは巧みに利用した。
同じようなことをして、激動する時代の責任を免れようとした重臣もいよう。
その態度はやむを得ないとして、そのような重臣の発言を真実とみていいのかは疑問なしとしない。
ちなみに、著者(故・山本七平先生)の感想として次のようなものがある。
この感想を私釈三国志風に意訳しようとしてみよう(あくまで意訳であり、引用や直訳ではない点に注意)。
(以下、本書に記載された著者の感想を意訳しようとしたもの、直訳でも引用でもない点に注意、なお、強調は私の手による)
重臣による「私は早々に平和を上奏した」などといった発言をいると、「では、お前は一体憲法上の責任者の地位にあったときに、何故平和ではなく戦争に進んだのだ」と言いたくなる。
まあ、尾崎咢堂の指摘する通り、その重臣に「責任感」がなかったことは間違いない。
これ以上は無意味だからやめておこう。
(意訳終了)
この点、昭和20年6月18日の御前会議で本土決戦が決定された。
とすれば、本島氏の「重臣の内奏」はこのときではないだろう。
もちろん、昭和天皇は本土決戦を裁可しつつ、内心では戦争終結を考えていたらしいが。
その後、6月22日に昭和天皇は閣僚懇談会のような形で最高戦争指導会議のメンバーと懇談し、戦争終結に向けた速やかな検討について「御希望」を述べられている。
したがって、本島氏の「重臣の内奏」は何を意味するのかは明らかではない。
この点、最高戦争会議に参加したことのあるメンバーの全員に戦争責任があるとは言えない。
ただ、著者は、「このように説明したところで、(従軍経験のある)本島氏は自分の意見を変えないだろう」と予測する。
この理由を津田左右吉博士の主張・学説を見ながら考えてみる。
ここから、話は津田左右吉博士が『世界』の昭和21年4月号に掲載した論文『建国の事情と万世一系の思想』に移る。
当時、野坂参三が延安から凱旋将軍のように帰国し、赤旗がデモで皇居に押し入ったらしい。
このような状況で津田左右吉博士は次のように記している。
本書に引用された部分を意訳してみる。
(以下、本書に引用されている『建国の事情と万世一系の思想』の記載を意訳したもの、直訳でも引用でもない点に注意、なお、強調は私の手による)
つまり、皇室の上代以来の永続性に対する疑惑が国民の間に生じている。
これは、軍部と軍部に乗っかった官僚の馬鹿どもが、国民の皇室に対する敬愛の情と憲法上の規定を濫用するとともに、国史の曲解によりそれを正当化したからである。
具体的には、現実の天皇は立憲君主に過ぎないのにもかかわらず、日本の政治システムは天皇親政であるべきで、かつ、実際にも日本の政治は天皇親政で回っていること、及び、天皇は専制君主としての権威があるべきであり、かつ、現に天皇は専制君主としての権威を持っている旨主張した。
つまり、軍部が天皇の権威に対して濫用の限りを尽くし、自分たちの命令をあたかも天皇の命令であるがごとく見せかけたのである。
この軍部の言動は、アメリカやイギリスに戦争を吹っ掛けてからますますひどくなった。
つまり、「戦争に関することはすべて天皇の御意思であって、国民が生命・財産を捨てるのは天皇のためである」ことを絶え間なく洗脳するがごとく宣伝しまくった。
そして、この宣伝の中には、天皇を神秘化させるとともに、この天皇の持つ神秘性こそ国体の本質があるという現代のまともな知性人から見て程遠い思想まで入っていた。
ところが、戦争の結果は見た通りの惨状だったので、軍部の宣伝を軍部の宣伝であると見破れなかった哀れな国民が、「戦争による惨状・国家の危機・社会の混乱・敗戦の恥辱・国民の生命や財産の損失などの諸々の原因はすべて天皇にある」と考えるようになったのである。
もちろん、歴史を見れば天皇の親政は稀であったが、この稀だったことと皇室の永続性には深い関係がある。
ならば、軍部の宣伝が国民をして戦争の責任を天皇に求めしめるのは『自然のなりゆき』であろう。
(意訳終了)
簡単にまとめれば、「天皇の戦争責任というのは法的責任ではなく心情的なもの」ということになる。
確かに、戦時中の「すべてを天皇のもとに」という発想は、敗戦すれば「すべての責任は天皇のもとに」となるし、逆に大勝すれば「すべての栄光は天皇のもとに」となるからである。
これまた「自然のなりゆき」であろう。
この「自然のなりゆき」を無条件に認めるべきかは分からない。
しかし、「自然のなりゆき」を全く認めないわけにはいかないだろう。
ところで、本島氏のように戦争責任を追及する人間たちの主張を見ると、「国民が『天皇のために』という意図で動いており、天皇も国民の行動の背後にある『天皇のために』という意図を知っていたはず」というものがある。
このことも、責任というものが法的な意味ではなく、心情的なものであると感じさせるものである。
これに死者の無念などを考慮すれば、ますますその傾向が強くなるだろう。
そりゃ「天皇陛下のために立派に死んだ」と「軍部に騙されて死んだ」では、戦死者に対する評価が変わってしまうから。
遺族がそのような虚構を信じることで救いになるのであれば、「そっとしてやりたい」と考えたとしても無理からぬことであろう。
戦時中は思想的大逆行為を行ったと告訴され、戦後は天皇制のイデオローグであると批判された津田左右吉博士のように知的誠実さを貫くというのは現場にかかわる当事者には難しいものである。
このように見ると、功罪は歴史家に委ねた方がいいのかもしれない、ともいえる。
もっとも、本書のテーマは昭和天皇の自己研究である。
そこで、昭和天皇が戦争責任についてどう考えていたかをみていく。
その前に、「戦争責任」の意義を改めて確認する。
この点、「戦争責任を肯定する」側の人間が述べている「戦争責任は『敗戦責任』」であろう。
また、「『憲法上昭和天皇に拒否権が行使できなかった』と主張しても意味がない」というのであれば、「戦争責任は法的責任でもない」ともいえる。
さらに言えば、昭和天皇はマッカーサーに対して「自分が全責任を取る」と述べたが、マッカーサーは結果としてこれを拒否している。
もちろん、その背後には、昭和天皇に全責任を取らせたら真に責任を取るべき連中を取り逃がすことになるといった事情もあるだろうが。
そして、戦争責任を肯定する者たちの責任はマッカーサーに対して昭和天皇が自白した「責任」のことでもないはずである。
仮に、この発言をピン止めにして責任を追及しているわけでもないだろうから。
このように見ていくと、「なりゆきとしての戦争責任」は次のような形をとる。
「戦争は国民が『天皇のために』実践した。天皇はそれを知っていた。だから、『責任を感じてほしい』」と形を。
重要であると考えられるのは、「責任を感じる」であって「責任を取る」ではないこと。
虚構の前提たる天皇の絶対神性を考慮すれば、「戦争に対する法的責任を取るため、絶対神たる天皇に奇跡を起こさせ、死者を蘇生させるように要求する」といったこともできそうなのに。
ところで、このような「責任を感じてほしい」という要求に対して昭和天皇自身が言葉で対峙しなければならないタイミングがあった。
それが、昭和50年10月31日の昭和天皇の訪米時の記者会見である。
この記者会見で、ロンドン・タイムズの日本人記者から事前提出のない質問が飛び出してきた。
問答のやりとりを本書から引用する。
(以下、記者会見における問答について本書の記載を引用)
記者「ホワイトハウスにおける『私が深く悲しみとするあの不幸な戦争』というご発言がございましたが、このことは、陛下が開戦を含めて、戦争そのものに対して責任を感じておられるという意味に解してよろしゅうございますか。また、いわゆる戦争責任について、どのようにお考えになっておられるかお伺いいいたします」
昭和天皇「そうういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないので、よく分かりませんから、そういう問題については、お答えができかねます」
(引用終了)
当時の記録を見ると、この「お言葉」への批判は見当たらない。
また、昭和天皇は誠実にこの質問に応じている。
言い換えれば、巧みに相手の質問をかわしたという感じをさせないものだったらしい。
とすれば、この言葉に昭和天皇の本心が表現されているとみてよいと考えられる。
まず、質問の意図をみておく。
この質問は「30年前の極東軍事裁判で不起訴になってのうのうと暮らしているが、御自身の法的責任についてあんたはどう思っているのか!!!」というものではないだろう。
この質問は関連質問であるところ、「私が深く悲しみとするあの不幸な戦争」という言葉を引いているから。
したがって、この質問こそ「なりゆきで発生した国民の心情から生じた敗戦責任」に関する天皇の感想を問うているとみてよい。
だから、大日本帝国上における立憲君主としての天皇の地位がどうこうと言っても答えたことにならない、と言える。
では、この回答はどう見るか。
極端なことを考えれば、「胸が痛む」ならば「責任を認めた」とも言えるし、逆に、「責任を認めていないなら、胸が痛むはずもないし、戦没者慰霊祭に出席する必要もない」だろう。
しかし、天皇が「民族統合の象徴」でもある以上話は別である。
なぜなら、「国民の感情に共鳴する感情を持って慰霊祭に参加する」のが象徴としての責務であるだろうから。
このことを考慮すると、昭和天皇の回答は「『戦争責任』についてお答えすることはできません。『戦争責任』の意義を明らかにする点も含めて」になるのではないかと考えられる。
最後に、本章では第12章で引用されている『帝室論』における福沢諭吉の主張「(以下、意訳)日本の政治について論じるのであれば、皇室の尊厳と権威を濫用してはならない」が引用されている。
そして、昭和天皇への思いを政争に利用するなどは論外であり、尾崎咢堂が見れば、「まだそんな馬鹿なことをしているのか」とあきれ果てることであろう、と。
さらに、憲政が定着しなかったことがこのような行為の原因となっているのであれば、昭和天皇の終生の努力を無駄にし、そのために払われた多大な「功」を失わせることになるだろう、と。
以上、なんとか本章をみてきた。
なかなかに重い話であった。
終章については次回見ていくことにする。