今日はこのシリーズの続き。
『昭和天皇の研究_その実像を探る』を読んで学んだことをメモにする。
28 感想をつらつらと_後半
前回は、本書の感想として「立憲君主という自己規定に殉じた昭和天皇に対する(私自身の)敬意」、「昭和天皇(君主)が立憲君主に殉じることに対する日本教的評価」、「法律を反対解釈で読むことの合理性と妥当性」についてみてきた。
今回は別の分についてみてみる。
まずは、本書の第14章で言及されている「天皇にすべての責任を押し付けるメンタリティ」について。
個人的には、私自身もこれに準じた体験をしているし、このようなメンタリティが理解できるし、(著書が書いている)「そっとしておいてやりたい」という意見にも同意する。
しかし、「程度」の問題がある。
例えば、この「自然の成り行き」に従って国民が昭和天皇に戦争に関する敗戦責任を押し付け、ダグラス・マッカーサーが「これを統治に利用できる」と判断した場合、昭和天皇は自ら述べた「You_may_hang_me」のとおり、処刑されていたことになる。
この結果は、第9章に登場した北一輝と同様に「盲信された者の悲劇」となる。
そして、北一輝に対する処刑を不当とする本書の立場を前提とした場合、この結果も明らかに不当であろうから、「どの範囲まで許容されるか(されないか)」を考える必要がある。
まあ、「責任を押し付けるメンタリティ」を全肯定する立場を前提にすれば、「盲信された者の悲劇がいくら生じたとしても全然問題ない」ということになるのかもしれないが。
ここで私が考えさせられた点は次の2点である。
第一が、いわゆる「形式的責任犯」をどこまで肯定しうるか、という点。
第二が、「あなたは隣人について、偽証してはならない」という十戒をどのように(どの範囲で)考えるべきか、ということ。
本来は、これらについて考えたことをこのブログで文章としてまとめようかと考えていた。
しかし、これは「読書による学習」の範囲から逸脱する上、現段階で収拾がつかなくなっている。
そこで、今回は参考書籍(場合によっては今後読書メモにしたいもの)を提示するにとどめることにする。
なお、キーワードは、「『空気』に対する作法」と同じく、「信仰(背景・ファンダメンタリズム)」、「相対化」、「歴史(事実関係)の参照」の3点だろうか。
これらの3要素は反日本教的な気もしないではないが。
あと、「主観と客観(あるいは共同主観)は異なってもよい」・「誤信によってなされた行為は、『誤信することにつき相当であり、かつ、誤信が正しければその行為によって妥当な結果となるものであった』と言える場合、肯定的に評価してもよい」ということであろうか。
もちろん、この2点についても程度問題が付きまとうだろうから、「正直、よくわからない」という感想を手放すことはないだろう。
次に、「昭和天皇に対する戦争責任追及のロジック」から見えたものについて少々見ていきたい。
なお、この責任が憲法・法令に基づく責任ではないこと、それゆえ、責任に基づく行為(賠償責任の履行)の内容が法律上のものではない点はあらかじめ確認しておく。
まず、責任追及の主張が次の形式になる点は確認するべきであろう。
なお、ここではいわゆる過失犯の新過失論の形式を用いている。
・特定の結果に関する予見可能性を前提とした予見義務の存在
・結果回避可能性があることを前提とした「(現実的に可能な行為としての)結果回避義務」の存在
この点、新過失論において上のカッコ書きの部分は書かれていない。
しかし、不可能な行為を義務付けることは「法は不可能を要求せず」に照らして当然なことなので、ここではその点を明確化するために挿入した。
というのも、この部分がカギになると考えるからである。
まず、本書で否定されている「憲法・法令上における天皇の戦争責任」はどの要件をクリアできないために否定されるだろうか。
この点は結構単純で、「権限がないため不可能→結果回避義務がない」ということで責任がないことになる。
個人的には、この範囲において異論がない。
では、自然のなりゆきにより天皇の責任を求める側はどのように論を組み立てるべきだろうかだろうか。
この点、責任を求めるためには、「現実的に可能な行為としての結果回避義務」を突き付ければいい。
というのも、戦争に突入した場合の結果についてある程度予見していた以上、そもそも「予見可能性がない」ということは考えにくいので。
では、「現実的に可能な行為としての結果回避義務」を肯定するためにはどうすればいいだろうか?
まず、「憲法・法律上の権限があったこと」と論証するという手段がある。
つまり、「昭和天皇は立憲君主として振舞っていなかった」・「当時の政府は天皇機関説で動いていなかった」という事実の主張を掲げることが考えられる。
というのも、「実務が天皇機関説で動いていた」という事実を否定しなければ、昭和天皇の戦争責任を肯定できないからである。
手段のために虚構の事実を主張するというのは、なにやら目的と手段が逆転していないか、と考えないではないが、ある種の政治的な紛争である以上、一定の逆転現象はやむを得ないのかもしれない。
次に、「憲法・実務?そんなの関係ない」という価値観を全面的に出すことも考えられる。
つまり、この「実務において憲法上の権限がなかった」という説明は法的説明としては十分であるが、空気優位の日本社会からすれば、「(空気に従って)憲法上の権限を侵害してでも戦争を回避する義務があった」と言えそうな気がしないではない。
もっとも、当時の「空気」は戦争一色であったから、これは少し無理であろうか。
そこで、ドグマ嫌いの日本教に従って、「憲法・法律といったドグマを破って、戦争を回避する義務があった」という主張が考えられる。
日本社会であれば、一定の説得力を持ちそうである。
このように見ていくと、主張の背後に日本教的なものを見出すことができそうである。
もちろん、「見いだせることの確認」はしても、それらの当否についてはあれこれ言うつもりはない。
私自身、よくわからないから。
最後に、今回の読書メモでは、本書で別の文献が引用されている部分を引っ張るときに、引用ではなく「意訳」を用いた部分がある。
そもそも、意訳を用いようと考えたのは、カタカナで引用されている本文の引用をカタカナのまま書くのを避けたかったからである。
ただ、読書メモを書いているうちに、他の部分も意訳で表示するようになってしまった。
そして、今回、この意訳をうまく活用できた感じはしない。
意訳を上手に行えるようにするために今後も継続するか、あるいは中止するか、少々考える予定である。
以上で、本書に対する読書メモを終えることにする。
なお、当分の間、次の本を選ぶことはせず、完全に遅滞している『小室直樹の中国原論』の読書メモを作っていきたいと考えている。
現在(2024年8月10日現在)この本はアマゾン・アンリミテッドで読める。
タイミングとしても絶好というべきだろうか。