薫のメモ帳

私が学んだことをメモ帳がわりに

『痛快!憲法学』を読む 2

 今回は前回のこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 今回も『痛快!憲法学』を読んで、学んだことをメモにする。

 

 

1 第1章 日本国憲法は死んでいる

 この本の最初に述べられること、それは「日本国憲法は既に死んでいる」というものである。

 ただ、その前に大事なことが述べられているので、それについて言及したい。

 それは、憲法学の前にあるもの、つまり、学問の役割である。

 

 少し長いが、本書を引用する。

 

(以下、『痛快!憲法学』の8ページ引用、強調は私の手による)

 改憲だの護憲だのは、そこらへんの陣笠代議士だって言えることです。就職したばかりの見習い新聞記者だって、いっぱしのことは書けます。いや、ちょっと頭のいい小学生なら、その程度のレポートは作れるというものでしょう。

 学者が代議士や一年生記者と同じ土俵でものを言ってどうするのですか。

 私が社会科学を研究しているのは、気の利いた「意見」を言うためではありません。学問とは本来、それぞれの人間が自分の意見を持つための「材料」、言い換えれば、議論の前提となる者を提供するためにあるのです。それが学問の使命です。

 だからこそ、学問には方法論というものがあり、真実の探求が何よりも重視されているのです。

(引用終了)

 

 この本は憲法学の本、言い換えれば憲法の本であるわけだが、その前に、「そもそも学問とは何か」ということに触れている。

 趣旨をまとめると次のとおり。

 

・学問の目的は、個人が各自の意見を持つための材料・背景を提供することにある

・学問では真実の追及が何よりも大事にされている

・学問ではそれぞれの方法論(作法・手続き)が存在する

 

 よって、この本を読み、その結果、憲法に対する自分の意見としてどんな意見を持つか、それは自由である、と述べている。

 

 

 続いて、この本の話題は「現在の日本国憲法は生きているか、死んでいるか」という問題に続く。

 それを通じて憲法と法律の違いについて話題が進む。

 

 つまり、法律が生きているかは「条文が存在するか(法律の制定に関する議会の議決が存在し、かつ、その後廃止されていない)」かどうかで判断される。

 だから、実質運用されてない法律も「生きている」ということになる。

 例えば、「決闘罪ニ関スル件」と言う法律が明治22年に制定され、現在ではほとんど運用されていない(ゼロではないが)が、廃止していない以上この法律は生きている。

 あるいは、昭和21年に制定された「物価統制令」なんかもこれに該当するかもしれない。

 

 もっとも、憲法に関してはそうはいかない。

 理由は、憲法は慣習法であるため、条文の存在は生死の判断に決定的ではないからである。

 あと、本文で書かれていない理由を私なりに考えれば、法律の場合は違反者に対して法律を使ってペナルティを科すことができる(しないこともできる)が、憲法の場合は違反者に強制的にかけるペナルティが存在しないから、というのもあるかもしれない。

 

 

 その例として、ワイマール共和国憲法をあげる。

 ワイマール共和国憲法第一次世界大戦後、ドイツで作られた憲法である。

 この憲法は女性に参政権が付与され、また、社会権の規定も存在した。

 そのため、当時、世界で最先端の憲法と言われた。

 

 もっとも、この憲法、約15年間で「死んでしまう」。

 その原因は、ナチス率いるアドルフ・ヒトラーが議会で「全権委任法」という立法権を政府(これは実質的には政府を掌握していたナチスと言ってもいい)に譲渡する法律を可決したことによる。

 

 もちろん、全権委任法が制定されただけで、ワイマール共和国憲法は廃止されたわけではない。

 しかし、ワイマール共和国憲法が目的とする「国民の権利・自由の可及的保護」(立憲主義)は実質的に果たされなくなってしまった。

 その後の悲劇は歴史が教える通り。

 

 さて。

 この事象、どうとらえるか。

 法律であれば、「ワイマール共和国憲法は廃止されていないから生きている」と言えよう。

 しかし、慣習法である憲法は違う。

「ワイマール共和国憲法は全権委任法によって殺された」とみる。

 つまり、法律は形式的に判断するが、憲法は実質的に判断するとみてよい。

 

 これはイギリスの例を出せばいいだろう。

 イギリスでは明文の憲法は存在しない。

 その代わり、国家権力を拘束する要素を持つ様々な規定が憲法を形づくっている。

 このイギリスに対して、「明文がないからイギリスの憲法は死んでいる」と言っても意味がない。

 

 

 このように、憲法の機能の判断基準が示されたところで、憲法が死んだ例を諸外国で挙げる。

 ここで取り上げられるのはアメリカである。

 

 アメリカはイギリスから独立し、かの有名な独立宣言(人間は自由かつ平等)を謳った憲法を作る。

 しかし、実際はどうだったか。

 

 例えば、人権規定は修正条項として後から付け加えられ、最初からなかった。

 フランス人権宣言で述べているように、立憲主義自由主義)の核は人権保障と権力分立である。

 その一方の核である人権保障のための規定が制定当時のアメリ憲法になかったのである。

 あるいは、そのアメリカでなされた非白人(黒人・ネイティブアメリカン)への対応はどうだったか。

 また、ゴールドラッシュのさなか、サン・フランシスコに住んでいたヨーハン・アウグスト・ズーターに起きた悲劇に対する対処はどうか。

 

 だから、本章で著者(小室先生)は言う。

 憲法は簡単に死ぬ(「実質的に機能しなくなる」と言った方が正確か)

 だから、主権者(国民)は絶えず死なないようにする努力が必要なのだ、と。

 事実、アメリカ合衆国では国民の努力によって憲法に対して命を絶えず吹き込んでいた、と。

 

 また、憲法学は他の法律学のように条文解釈や現代への適用だけを考えていればいいわけではない。

 憲法が生きているのか、死んでいるのかをチェックするのが重要な職務である、と。

 

 

 そして、最後に日本国憲法を見る。

 小室先生は本章で述べる。

 

日本国憲法は死んでいる」と。

 だから、改憲・護憲の議論は意味がない、と。

 

 では、憲法を再生するためにはどうすればいいのか。

 そのためには憲法の条文ではなく、背景を知る必要がある。

 だからその背景を知ろう、ということで2章に続く。

 

 

 私は別のところで「日本国民(日本の共同体)は憲法の再生を望むのか(たぶん、望まないだろう)」ということを書いた。

 山本七平が言うところの「事大主義」と権力者(大)をけん制して小(国民個人)の権利自由を擁護するという「立憲主義」は食い合わせがかなり悪いように見えるからである。

 

 とはいえ、どの程度食い合わせが悪いのか、どこかに妥協点があるのか、などを見るためには、憲法の背景を知ることは極めて有益だろう。

 だから、これからもこの本から学ぶべきことを学んでいく。