今回はこのシリーズの続き。
今回も『「空気」の研究』を読んで学んだことをメモにしていく。
22 第3章_日本的根本主義について_(一)を読む
本セッションは太平洋戦争直後に見られた著者(山本七平氏)の経験から話が始まる。
一つ目は「アタマの切り替え」に関する話である。
要約すると次のとおりである。
・戦後、収容所では「アタマの切り替え」という言葉があり、これは「戦争終結により『情況』が変化したから、古い『情況』ではなく新しい『情況』に対応し、思考・行動・所作を一切改めよ(回心せよ)」という趣旨である
・この「アタマの切り替え」と呼ばれる一種の回心、骨の髄から軍人である人まで簡単にでき、例外的にできない人は嘲笑・蔑視の対象となった。
・収容所生活から日本に帰還するタイミングで再び「アタマの切り替え」が行われた
この現象、私の身近なところでも見られる現象である。
二つ目の話は「モンキートライアル」に関する米軍中尉と著者とのやり取りである。
内容を「私釈三国志」風にすると次のようになる(趣旨は同じだが実際のやり取りはこれとは完全に異なるので、その点は注意してみること)。
米軍中尉「おい、知っとるかー。『進化論』ちゅう考えがあってなー、人間はサルから進化したんやで―」
著者「(うっせーなー、まあ、お付き合いとして聴いてやるか)」
米軍中尉「べらべらべらべら(『進化論』に関する講義)」
著者「ふざけんなっ。日本では『進化論』は小学校くらいで教えてくれる。日本はアメリカのように『モンキートライアル』を行うような未開な国ではないっ」
米軍中尉「は?(何言ってんの?天皇陛下が現人神の国で『進化論』なんか主張したら不敬罪になるじゃん)」
著者「(こいつ、信じてねーな)ダーウィンのことや『進化論』がガラパゴス諸島での調査の結果が端緒になっていることなどは『子供の科学』という少年雑誌で小学生の頃に読んだ。『進化論』なんか日本じゃ常識だわ」
米軍中尉「・・・。じゃあ、日本人はサルの子孫が神だと思ってんの?あんたもそう思ってるの?」
アメリカでは(聖書の記載と矛盾する)ダーウィンの進化論を学校で教えたため、モンキートライアルになった。
そのアメリカの視点で日本を見た場合、天皇教が天皇陛下を現人神として規定した以上、進化論を容認すれば「現人神はサルから進化した」ということになってしまう。
それでは、天皇陛下に対する不敬とみなされても文句は言えない。
事実、天皇陛下を機械的に取り扱った美濃部達吉の天皇機関説は戦前大問題になったし、御真影に対して敬礼を行って(最敬礼をしなかった)内村鑑三も弾圧された。
このことを考慮すれば、山本七平が読んだ少年雑誌の出版社や進化論を教えた教授・講師に対して戦前右翼が抗議したとしても何ら不思議ではないように思われる。
一神教の視点で見れば。
しかし、日本ではそのような事実は見られていない。
少なくても見える形での何かは存在しないと判断してもよかろう。
あれば滝川事件のように問題になったと考えられるし、さらに言えば、理系の教授たちが文系の教授と比較して学問弾圧・思想弾圧に寛容・鈍感であったとは考え難い。
では、何故、日本では天皇教と進化論が併存できたのか。
併存できたなら、何故、「進化論」が天皇陛下に対する不敬にならないのか。
あるいは、何故、日本でモンキートライアルのようなものが起きなかったのか。
「空気」が醸成されなかったから(軍部がたきつければ弾圧できただろう)というのもあるが、別の重要な理由としては「我々が多神教の世界の住民だから」ということになる。
他方、日本の視点でからアメリカのモンキートライアルを見ればこう思うだろう。
「アメリカとヨーロッパは自然科学を発展させ、その知識を使ってすげー文明を作って発展している。そんなすげー国が聖書の記述と矛盾することを教えただけで訴訟(大問題)になるの?なんで?つか、そんなんわざわざ問題にする?ただの学説なんだからほっとけばいいじゃん?」
本章では、欧米(一神教)と日本における「『絶対である』と考えているもの」についてみていく。
ただ、多神教の考え方をみようとしても我々にとって当たり前のことが多くて分かりにくい。
そこで、我々にとって違和感のある一神教における考え方を確認して、それと比較する形で我々の根本主義(ファンダメンタリズム)を見てみる。
まず、一神教では一つの組織的合理的思考体系が存在する。
簡単に言えば、「あらゆるものは『一つのマップ』に配置でき、配置できないものは存在してはならない」ことが前提になっている。
例えば、「総ての学問は自然科学・社会科学・人文科学などといった形で分類され、学問マップのどこかに配置される」ということになる。
また、「宗教や学問は『全体』という1つのマップのどこかに配置されている」ということになる。
そんな状況で既存の宗教と矛盾する新しい学問・学説が発生したらどうなるか。
既存の宗教と新しい学問・学説が両立しなければ、既存の『1つのマップ』に配置できなくなる。
そのため、「一つのマップ」を維持するために、(既存の宗教に適合する)既存のマップを維持してに新しい学説を排除するか、新しい学問に適合するような新しいマップに改良して既存の宗教を排除するか、の二者択一を迫られることになる。
これが「進化論」か「聖書」か、の背景にあるものである。
この一神教の背景を見ることで、逆に我々の背景も見えてくる。
多神教を前提とする日本人には一神教における一つの組織的合理的思考体系が存在しない。
つまり、「あらゆるものは『一つのマップ』に配置でき、配置できないものは存在してはならない」という前提がない。
一方、日本では「『情況』への対応」が要求されるので、「学問研究」という「情況」では「進化論」を認め、「政治」の場では「現人神が存在する」と対応することが日本的一君万民情況倫理から見た善・正義の振る舞いになる。
とすれば、「進化論」が政治という「情況」に持ち込まれていれば天皇機関説事件のような事件になっていただろう。
さらに、この意見を下敷きにすれば、エピソードに出てきた「『陸軍一等生に大学院を出た学者がいること』を米軍中尉が信じられないと反応したこと」の背景も見えてくる。
お互いの言い分を具体化すれば次のようになるだろう。
米軍中尉「日本は大学院を出た学者をただの兵隊として使うのか。知識の保有者たる学者はその知識を活かせる場所で使えばいいだろうに」
日本側の言い分「『学会』という『情況』では学者の知識は有益であり、役に立つが、その範囲でのこと。『軍隊』という『情況』では無益であり役に立たない。だから、庶民と同様の兵隊として用いる」
以上が本セッションのお話。
モンキートライアルから思想の背景に話が発展するとは分からないものである。