薫のメモ帳

私が学んだことをメモ帳がわりに

『「空気」の研究』を読む 15

今回はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 今回も『「空気」の研究』を読んで学んだことをメモにしていく。

 

 

17 第2章_「水=通常性」の研究_(七)を読む

 

 前セッションで、『「日本的通常性」は「水」を生むが、その「水」により新たな「空気」が醸成してしまう』ことを確認した。

 そして、「日本的通常性」の思想基盤である「忠孝一致」の思想とそれがもたらすものについてみてきた。

 

「空気」が「水」に差されて新しい「空気」になる過程をまとめれば次のようになる。

 

・「日本的通常性」は「空気」に「水」を差し、「空気」を分解して「一君万民」状態を作り出す

・「一君万民」の「一君」は情況倫理における情況の作出者である

・「一君」の意思表示・規範は明示された状態で現れることが稀であるため、「万民」が「一君」の意思・規範を知るためには、情況にあわせて「一君」を臨在感的に把握せざるを得なくなる

・臨在感的な把握が絶対化すれば、それは新たな「空気」となってしまう

 

 次に、「日本的通常性」の規範についてみてみる

 

・日本的通常性を端的に表現するならば孔子の「孝」の発想である

・日本的通常性を基盤にした場合、個人の行為の結果について個人の帰属する集団の構成員全員が連帯して責任を負う

・日本的儒教思想において、集団(構成員)の利益(免責)のために客観的真実を黙秘することは誠実な行為とされ、逆に、客観的真実を述べることは逆に不誠実な行為とされ追放される

・日本的通常性を基盤とした「一君万民状態と情況倫理」は集団倫理であり、個人倫理や固定倫理になることはない

 

 それから戦後のアメリカが持ち込んだ「自由」とその帰結をまとめておく

・戦後、アメリカは日本の明治時代の権威を否定し、日本に「自由」もたらしたが、その結果、日本は共同体的自己決定に基づき、日本的通常性の影響を強く持つ規範によって運営されることになった

・日本的通常性規範が個々人の具体的な差を否定し、個々人の意思決定の自由を否定するものであることから、アメリカの「自由」の持ち込みによって、日本人の個々人の「自由」否定されることがあってもおかしくないこととなった

・日本的通常性規範を基盤とした場合、社会主義も民主主義社会も達成できなくはなかったが、自由主義の達成は極めて困難であった

 

 

 以上を前提にセッション(七)に進む。

 まず、戦前の軍部と右翼は「『社会主義者』は説得して転向させれば大いに利用できる。しかし、『自由主義者』は転向のさせようがないので、絶対に許容してはならない」と考えていた、というところからスタートする。

 そして、軍部と右翼は自由主義者」を「あった事実を『あった』と言い、見た事実を『見た』と言い、かつ、あった事実や見た事実を『真実である』と思っている人間」と規定している旨説明している。

 

 このことは「日本的通常性」から考えれば「さもありなん」ということになる。

 つまり、「日本的通常性」から見れば、「所属集団にとって不利益な事実は客観的に存在するものであっても『真実』とみなさない(隠す)」ことこそ正義であり道徳的であるのだから、「客観的に存在する以上、不利益な事実であろうが真実とみなす」のは不道徳であり不正義になる。

 そして、「そのような人間はどんな組織に対しても忠誠を誓わない(不利益な客観的事実を真実とみなす)」のだから絶対に許容してはならないということになる。

 

 もちろん、「固定倫理」の世界から見た場合、この日本的通常性に対して「『真実』が所属集団によって変わってしまうではないか」と批判を受けることになる。

 しかし、それに対しては「『真実』は情況によっていかようにも変わりうるから、『客観的事実』と『真実』のずれを修正するために必要な『情況』を設定すればいい」で終わってしまう。

「情況」の支配が及ぶ集団の中ではそれで十分である。

 また、その上でなお行為に及ばなければその人の忠誠の証明になる。

 

 となれば、一君万民状態と情況倫理は切り離せないことになる。

 また、日本の組織の態様を見れば、この状態が日本人にとってもっとも適合した状態ということになる。

 この点、孔子の発言を使ってはいるが、孔子の意見に日本人が感化されたのではなく、これが日本教」の公理の一つ、日本的通常性の一つなのだろう

 しかし、情況倫理・一君万民状態は一集団内でしか存立しえないため、集団相互の信頼関係が成立しなくなってしまう。

 これは一種のセクト主義をもたらすことになる。

 また、本書で書かれていないことを追加して書けば、「(私的関係を除いた)一般人と一般人との間の信頼関係もない」ということになるだろう。

 これは所謂欧米における市民社会が日本にないことの裏付けになっているとも言えるかもしれない。

 

 そして、セクト主義の弊害を回避したり、欧米における市民社会を日本で作り出すためには、全日本的な一君万民状態を作出するしかないということになる。

(本書では書かれてないが)その試みが明治政府が行った天皇教なのだろう。

 あと、「挙国一致体制」が出てきたり、日本の映画・物語でそのような状態が好まれることがあるが、その背後には日本の通常性があるのかもしれない。

 

 

 さて、本セッションでは「公害問題」について取り上げられている。

 著者は「公害問題」において「資本家の論理」と「市民の論理」という言葉が出てくる点に興味を持つ。

 

 この点、公害問題を対処するならば、「病気の原因を特定し、治療法を確立し、病気を予防する手段を確立する」これ以外にない。

 また、ある時点の原因の特定・治療法・予防手段に誤りがあることは十分にあり得ることである。

 自然科学的観点から見れば、「一切ミスがないという状況など存在しえない」と言ってもよいし、これは公害問題に限った話ではない。

 固定倫理の世界で考えるならこのようになる(それでも、様々な問題が起きることは言うまでもない)。

 

 もっとも、これに集団倫理と情況倫理が、つまり、日本の通常性が関与することで対処できない状況になる。

 つまり、資本家集団によって作られた情況倫理たる「資本家の論理」、被害者側集団によって作られた情況倫理たる「市民の論理」が、上に書いた対処を困難にしているのである。

 何故なら、「(特定の)集団にとって不利益な客観的事実を真実とみなさない」ということになれば、従前の治療法・予防法が最善ではなく、新たな治療法・予防法が発見されたとしても、(特定の)集団にとって不利益なことになるならば、それを否定する(隠す)ことが真実であり、正義であるということになってしまうからである。

 そして、所属集団の不利益になる事実を述べることは仮にそれが「真実」だとしても、不道徳な行為・不正義な行為として糾弾の対象になってしまう。

 それでは、全体としての真実の共有は不可能としか言いようがない。

 

 

 というところで、本セッションは終わりになる。

「いわゆる測定結果(データ・統計)が日本的通常性によって汚染される」という現象は私の身近で感じていたことであり、本書によってその背景が理解できたのは非常に有益であった。

 あらかじめこの辺の背景を知っていればなあ、と考えることしきりである(このように考えることはこのセッションに限った話ではない)。

 しかし、この本は相当昔に購入しており、知る機会は十分にあったわけである。

 とすれば、過去の時点でその重要性に気付かなかったわけである。

 これは、「(身近な)経験がない以上、知識の重要性に気付けない」ということでもあり、その意味では仕方がないことなのかもしれない。