今回はこのシリーズの続き。
今回も『「空気」の研究』を読んで学んだことをメモにしていく。
16 第2章_「水=通常性」の研究_(六)を読む
これまで、日本の「空気」を中和する「通常性作用」についてみてきた。
そして、その背後にある「日本的平等主義」と「日本的情況倫理」の性質についてみてきた。
以上を前提に本セッションはスタートする。
この情況倫理は一定の情況が成立する範囲でしか成立しないが、ある情況の成立する範囲内では「日本的平等主義」の空間(「一君万民」空間)を作ることができる。
その結果、情況倫理は集団倫理であって個人倫理になることはない。
本書には記載されていないが、自由主義と食い合わせが悪いのであれば、立憲主義とも食い合わせが悪いことになる。
そして、この構造は戦前と戦後では変っていない。
変わったのは絶対者、つまり、「一君万民」における「一君」の対象のみ、ということになる。
そして、ここからある皮肉な帰結を見出すことができる。
まず、現実という名の「水」(通常性)が「空気」に水を差す。
そうすると、雨によって物質が腐食・崩壊し分解・混合して均一化する(平均化・同一化)するように、通常性という「水」によって「空気」などは有名無実化し、「一君万民」状態を生み出す。
そして、日本的平等主義では個人は総て同じ評価となるため、個人差という概念がなく、また、個別の意思を想定できないから、「一君」のみの意思が絶対視されてしまう。
また、「一君」と述べたが、この「一君」は情況の創出者であり、情況倫理の根本である。
となれば、固定倫理の世界のように、この「一君」の意思が明確化される保証はない。
その結果、平等者たるその他大勢は「一君」の意思を情況に応じて臨在感的に把握(最近の言葉で言い換えれば「忖度」)するしかなくなる。
臨在感的に把握してそれが絶対化すれば、それは新たな「空気」の醸成に他ならない。
つまり、「空気」の発生源は「水」の背後にある「日本の通常性」ということになり、「空気」も「水」も「日本の通常性」が背後にあることになる。
その結果、日本人は「空気」と「水」の相互循環から抜け出せないし、異なる「情況倫理」の世界を渡り歩くことになる。
ちょうど、絶対化の対象を時間の経過と共に変えるように。
これでは、「固定倫理」を詳細化・緻密化するという手段は採用できない。
以上、「日本の通常性」が空気と水の両方の源泉になっていることを確認したうえで、「日本的通常性」の考え方の基本・外面的変容の過程・現在(当時)の規制態様についてみてみる。
日本社会を支配している象徴的な言葉として「論語」の次の言葉がある。
(以下、『論語』の巻第七・子路第十三の書き下し文を引用、引用元の書籍は岩波文庫・金谷治訳注の『論語』の第11版、ただし、カタカナは平仮名にしてある)
葉公、孔子に語りて曰わく、吾が党に直躬なる者あり。其の父、羊を攘みて、子これを証す。孔子曰わく、吾が党の直き者は、是れに異なり、父は子のために隠し、子は父のために隠す。直きことその中に在り。
(引用終了)
私釈三国志風に訳せばこうなるだろうか。
葉公「私の領内の村に正直者がおりましてな、その父親が自分のところに迷い込んだ羊を自分のものにしてちょろまかしたところ、息子が父親の行為を報告してくれました。」
孔子「うちではそんな息子は正直者とは言わん。父は子のためにちょろまかしたことを隠し、子はその事実を知ったとしても父のために役人などに報告しない。それこそが正直者のすることだ」
国語の教科書でよく出てくる「論語」の一節である。
(以下、本書130ページより引用、『エミリア書』三一の28-30より)
主は言われる。「その時、彼らはもはや、『父がすっぱいぶどうを食べたので、子どもの歯がうく』とは言わない。すっぱいぶどうを食べる人(だけが)みな(等しく)、その歯がうき、人はめいめい自分の罪で死ぬ」
(引用終了)
イエス・キリストに最も強い影響を与えた先人の一人がこのエミリアである。
そして、このエミリアの発言は「個人主義」・「個人責任」の発想を基盤にしている。
よって、キリスト教社会においてこの個人主義・個人責任の考えが強く影響されていることは想像に難くない。
他方、江戸時代・徳川時代において孔子は「聖人」扱いされ、その教えは「聖人の教え」とされていた。
ならば、日本社会において「孔子」が強く影響を受けていることも同様に想像に難くない。
そして、その影響が簡単に覆らないことも想像に難くないであろう。
具体例として、本書ではロッキード事件(丸紅ルート)が起きたときのある現象が取り上げられている。
もちろん、ここではロッキード事件それ自体には触れず、日本の通常性と関係するところを見てみる。
前述のように西欧社会は個人主義社会である。
よって、「親の罪が子に及ぶ」とは考えないし、そのような発想に基づく行為を反射的に行うこともない。
だから、丸紅の社員の子供を排斥することをしないし、「(丸紅の社員の子供を排斥することは、被害者たる丸紅の社員の子供をして)社会を学ばせる効果があり、意味がある」といった排斥を正当化する意見が飛び出すこともない。
まして、他の労働者が丸紅の労働者に拡声器をあてて云々ということもない。
これでは、労働者が所謂「資本家VS労働者」という図式を全く信じていないことになる。
そして、資本家と労働者は親子でもなく、中国の「九族」の範囲にすら入らないことを考慮すれば、この現象は日本においては西欧の個人倫理が否定している「罪九族に及ぶ」を肯定したことの裏付けになる。
さらに言えば、中国の「九族」の範囲を超えていることを考慮すれば、刑の適用範囲のみに着目すれば(刑それ自体には考慮しない)、この現象はを永楽帝の「滅十族」に匹敵しかねないということにもなる。
それを「進歩」というか「野蛮」というかは別として。
また、本書にない例を出すが、約20年前、ある中学生が殺人事件を犯した際、当時の閣僚が「加害者の親を打ち首にせよ」という趣旨の発言を行い、かつ、その後のアンケート調査でこの閣僚の意見に同意する人が約7割に及ぶという現象があった。
つか、このような世論があるなら、さっさと刑法と関連法を改正してそのような適用に変え、それを運用してそれに伴う悲劇でも経験すればいいと思うのだが、実際はそうはならないらしい。
あるいは、「あさま山荘事件」の折、山荘に立てこもった活動家の父親が事件直後に謝罪の意を表して首を吊って死亡するということがあった(この事件を指揮した佐々淳行氏はこの自殺の件を自著で書いており、かつ、「この父親も事件の被害者である」旨書き添えている)。
類似の例を日本で探すことは極めて簡単だろう。
つまり、日本の情況倫理の基盤となる発想においては「連帯責任を極めて広く想定している」ことになる。
さて、この事件(ロッキード事件・丸紅ルート)を日本的儒教倫理から見てみる。
「日本社会の考え方はエミリヤの考え方とは異なる。社長が黒いピーナッツを食べたとしても、(それを知った)重役は社長のために隠し、重役が黒いピーナッツを食べたとしても、(それを知った)社長は重役のために隠す。直きことその中にあり」
これは定義である。
つまり、証人として呼ばれて尋問されても「記憶にございません」と述べることは、証人に記憶があって欧米的評価によれば偽証になるとしても、日本的評価に従えば、正直者の行いであり、正義の行いなのである。
これが徳川時代以降の通常性であり、これを規範とすることによって社会は成り立っていたのである。
もっとも、これを前提とすれば、責任を個人に限定できるはずはなく、構成員全体の連帯責任にならざるを得なくなる。
とすれば、丸紅に対して社員の子供を排斥する側も、逆に、丸紅側の態度も共に日本的通常性(儒教的規範)から生じていることになる。
まあ、これは通常性が容易に変わらないものであることを考慮すれば当然であり、むしろ、ここから逸脱したものが例外だということになる。
また、このことは丸紅の社員の子供を排斥する人間が逆に丸紅の重役と同様の態度をとったとしても不思議ではないことを意味する。
逆に、この規範を逸脱して、自由意思に基づき「(客観的)真実はかくかくしかじか」などと黒いピーナッツを食べたことを暴露してしまえば、その暴露をしたものは仮に欧米的に「真実を話したもの」、あるいは、内部告発者として評価される事はあっても、日本的には「不正義」に該当して共同体から追放されることになる。
この倫理基準に関して言うならば、左や右、資本家や労働者などの立場によらない。
少し前のセッションで共産党のリンチ事件について取り上げたが、あれに対する共産党員の態度が仮に身内をかばう態様になったとしても日本的儒教倫理から見れば全く正当な行為ということになる。
逆に、エリミヤや葉公に出てくる息子のような行為に出れば、逆に、嘘つき・悪人と評価されて、追放処分になってもおかしくない。
日本では、それによって共同体秩序が成り立っているのだからそれはしょうがないとさえ言える。
なお、真偽不明の密室の中における行為が問題になる場面なら上のように「隠し合い」によって対処することが正義となる。
では、録音テープ・ビデオテープなど推認力の極めて強い証拠が出てきたらどうするのか。
その場合は、いわゆる「切断操作」を行って決着とするのだろう。
つまり、行為者に総ての責任を押し付け、共同体から行為者を追放することで蹴りをつけるのである。
行為者が親ならば「隠居」である。
これらの対処、つまり、「手打ち」で対処しきれる事件であれば、これで問題がなかった。
ところが、それではうまくいかない事件がある。
それが「公害問題」であり、「外交問題」である。
両者とも「日本的儒教倫理(情況倫理)」が通用しない世界と言ってもよい。
ただ、この点に深入りする前に、本書では、儒教の原点を見直すことになる。
本書によると、中国の発想は上で述べた日本的儒教思想とは根本的に違うという。
例えば、孔子の挙動を見ればわかる。
孔子は自分を重用する諸侯には誠実に仕えたが、自分を重用しない諸侯に対してはあっさり立ち去り、自分の考えを採用してくれる諸侯を探している。
この発想はむしろアメリカの発想に近い。
この点、孔子は「忠」と「孝」を重視した。
しかし、諸侯に対しては「孝」によらず、「忠」で対処した。
そして、「忠」というのは「君君たらざれば、臣臣たらず」という関係であり、一種の「契約を守る」という誠実さでしかなかった。
また、孔子は「忠」と血縁関係において重視される「孝」を別のものと考えた。
このことは、別の言葉を用いていることからも明らかである。
ならば、日本のような「忠孝一致」の発想を、孔子が見れば「それは私の思想ではない、そんなものに私の名前を使うんじゃない」と激怒したかもしれない。
つまり、忠と孝を一致させた日本的儒教は中国のものとは異なるとみてよさそうである。
そして、この「忠孝一致」の思想、これが日本を支配していた。
言い換えれば、「孝」のみの社会であり、「君、君たらずとも、臣、臣たれ」の社会であった。
これは徳川時代に確立し、明治時代以降も継続した。
明治時代は天皇がトップに立った。
戦後、これは崩れたかに見えたが、新たなトップがこれにとって代わっただけである。
この点、戦後、アメリカは「自由」と「民主」を持ち込んだと言われている。
しかし、一民族を自由にして共同体を作らせたら、その社会は民族の通常性の影響を強く持つ規範が出てくる社会になるだろう。
日本の場合、それは日本的儒教規範の社会、つまり、一君万民の情況倫理の世界であった。
そして、「一君万民の情況倫理の世界」が個人の自由を想定しない世界であれば、アメリカが自由を与えたことによって、「日本人の個人の自由がなくなる」という結果が招来しても不思議ではない。
また、「一君万民の情況倫理の世界」が個人の自由を想定しない世界なのであれば、「自由」という概念はどう扱えばいいか分からないはずである。
他方、「民主」だの「社会主義」はそうではなかった。
日本的情況倫理・儒教倫理を基盤に据えれば、社会主義や民主主義の社会を作ることは十分可能だった。
ただし、そこに「個人の自由」はないが。
以上が本セッションの話であった。
「空気」と「水」が共に日本の通常性を源泉としていること、その日本の通常性が持つ規範が分かり、非常に参考になった。
つくづくこの本を深く読んでおけばよかった、と思う次第である。
まあ、興味がなければ深く読もうとしないだろうから、そう思っても仕方がないところではあるが。