薫のメモ帳

私が学んだことをメモ帳がわりに

『「空気」の研究』を読む 19

 今回はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 今回も『「空気」の研究』を読んで学んだことをメモにしていく。

 

 

21 第2章_「水=通常性」の研究_のまとめ

 第3章に移る前に第2章の内容をまとめておく。

 

・「水を差す」行為と効果、また、その背後にあるもの

 盛り上がった雰囲気・「空気」が醸成された状況で「現実的・具体的な目の前の障害」を口にする(いわゆる「水を差す」)と、その場の「空気」が消失してその場の人々を現実(通常性)に引き戻す

 日本では差す「水」の発生源が存在しており無言のまま「水」を差し続けているため、日本に導入された外来の思想・制度はこの「水」の影響を受け続け、名前は残るが実体は失われ、内容は変質してしまう

「水」の発生源は日本にある「日本的(無意識的)通常性」である

 

・欧米の固定倫理の特徴

 固定倫理に基づく規範が適用される際、人間は規範に関与できない

 尺度(規範)は非人間的であり、非人間的性こそが公平性・平等性を担保している

 固定倫理を具体化するための概念・定義の数は膨大である

 妥当な基準にするためルールは複雑化してしまい、日本的情況倫理の世界に生きる人間から見ればついていけない

 固定倫理の世界では、目盛りを人ごとに操作こと、結果の操作することは、恣意的な扱い、不公平な扱いとされる

 

・日本的情況倫理の特徴

「情況倫理」とは、「一定の環境(『情況』)にあれば、人は同じ行為を採用する」ことを前提とする規範である

「情況倫理」が適用された場合、「その行為が『情況』に対応した行為であれば、行為者は責任を負わず、『情況』を作出した者が責任を負う」と考える

「情況倫理」の前提には「行為に関する個人の具体的意思決定の存在」を否定する点に特徴がある

「情況倫理」の基準には「形式だけ見て判断を見れば、全部免責してしまう」・「実質的に見て判断すれば、基準が不明確である」という特徴がある

「免責」を「他人と異なる取り扱いの否定」と広く考えた場合、「情況倫理」を形式的に適用すると「個人の具体的行為による結果を評価せず、一律に扱う」という結果になる

「情況倫理」で用いられる「情況」の特徴として、現在から過去を投影してしまう要素が除去できず、真実(事実)と「情況」の間には乖離があり、一定の虚構を含む

「情況倫理」において「情況」は個人の差異を除去するために用いられる

「情況」の存在意義(個人の差異の除去)から見た場合、「情況」に虚構が含まれることは問題とならず、むしろ虚構が含むことが要請される

「個人の差異を認めない」という前提で「情況倫理」を適用すると「異常な行為の存在によって、異常な『情況』があったことの証明になる」という事態が生じる

 日本的情況倫理の背後にあるのは日本的平等主義(同一主義)であり、ここにおける「平等」とは、欧米における「機会・評価方法の平等」ではなく「評価・内容の平等」を意味する

 現実には異なる個々人を同一の評価にするためには尺度(目盛り)を修正する必要があるが、そのための手段が「情況の設定」である

 

・日本的通常性による「空気」の分解、「空気」の醸成のメカニズム

①「日本的通常性」が「空気」に「水」を差し続けた結果、「空気」を分解して「一君万民」状態を作り出す

②「一君万民」の「一君」は情況倫理であるところ、「万民」が「一君」の意思・規範を知るためには情況にあわせて「一君」を臨在感的に把握せざるを得なくなるが、その臨在感的把握が絶対化すれば、それは新たな「空気」の醸成となる

 

・日本的通常性の背後にある規範

 日本的通常性を端的に表現するならば孔子の「孝」の発想である

 日本的通常性を基盤にした場合、個人の行為の結果について個人の帰属する集団の構成員全員が連帯して責任を負う

 日本的儒教思想において、集団(構成員)の利益(免責)のために客観的真実を黙秘することは誠実な行為とされ、逆に、客観的真実を述べることは逆に不誠実な行為とされ追放される

 日本的通常性を基盤とした「一君万民状態と情況倫理」は集団倫理であり、個人倫理や固定倫理になることはない

「一君万民状態と情況倫理」にとって脅威となるのは自由主義個人主義であり、個人と自由を否定した形の共産主義社会主義とは矛盾しない

 

・戦後のアメリカが持ち込んだ「自由」とその帰結

 戦後、アメリカは日本の明治時代の権威を否定し、日本に「自由」もたらしたが、その結果、日本は共同体的自己決定に基づき、日本的通常性の影響を強く持つ規範によって運営されることになった

 日本的通常性規範が個々人の具体的な差を否定し、個々人の意思決定の自由を否定するものであることから、アメリカの「自由」の持ち込みによって、日本人の個々人の「自由」否定されることがあってもおかしくないこととなった

 日本的通常性規範を基盤とした場合、社会主義も民主主義社会も達成できなくはなかったが、自由主義の達成は極めて困難であった

 

・「一君万民情況倫理」社会

 一君万民状態と情況倫理は一集団内でしか存立しえないため、集団相互の信頼関係が成立しないため一種のセクト主義をもたらす

(私的関係を除いた)一般人と一般人との間の信頼関係もなく、その信頼関係が前提となる欧米の市民社会が成立しえない

 セクト主義の弊害を除去して疑似市民社会を生み出すためには、全日本的な一君万民状態を作出する必要が生じる

 一君万民状態・情況倫理は自由と個人を排除していく社会となる

 

・「一君万民情況倫理」と「事実」・「科学」

 日本において「真実」・「科学」は設定された「情況」によって変化する

 設定された情況によって「事実」・「科学」の内容が変化するため、全体で事実や理論を共有することができない

 

・日本における社会問題の解決プロセス

 日本ではデータ・事件・現象の起点に『何かの力』が付与し、その力が付与すると『起点』と無関係に暴走を始め、勝手に紛争を発生させる上、起点(懸案)の解決が困難になる

 日本社会において社会問題の発生すると、社会問題によって生じる集団相互の紛争が発生しまい、紛争を解決するためには情況倫理を破壊して集団を一掃する必要が生じ、その結果、新たな一君万民情況倫理体制が作られる

 

・日本的通常性、空気、水、情況倫理の背後にあるもの

 日本的通常性・空気・水・一君万民情況倫理の背後にあるのは「虚構」である

「虚構」が人を動かす原動力となる以上、問題なのは「虚構」が存在することではなく、「虚構」の使う場所、具体的には、政治・経済・外交・軍事・科学に関する判断においてこのような「虚構」を用いてよいのか、ということになる

 日本的通常性による秩序ができた場合、「空気」と「父と子の間の隠しあい」が生まれるところ、その前提となる「虚構」を維持するために劇場のような閉鎖性や情報統制が必要になる。

 情報統制を行う結果、「水」を差す者を弾圧して、自らの無謬性を主張する必要が生じる

 

・日本的通常性から脱却する方法と「自由」

 日本的通常性から脱却する方法は「拘束を断ち切った自由な思考」と「自由な思考に基づく試行錯誤」にある

 戦後の「自由」とは「『水』を差す自由」であったが、この「水」は「現実」であり、日本的通常性であり、新たな「空気」醸成の源泉であった

 

 

 結構、分量が多いなあ。

 それだけ学ぶことが多かったとも言えるが。

 結構な分量になったので、第3章を読むのは次回以降にて。