今回はこのシリーズの続き。
今回も『「空気」の研究』を読んで学んだことをメモにしていく。
20 第2章_「水=通常性」の研究_(十)を読む
これまで、「空気」と「水」・これらの背後にある日本的通常性・「一君万民情況倫理」についてみてきた。
では、これらに共通するキーワードは何か。
それは「虚構」=フィクションになる。
つまり、「虚構の世界」・「虚構の中に『真実』を求める社会」・「虚構の支配機構」ということになる。
この点、世界を見渡せば分かる通り、「虚構」抜きで人が動くことはない。
それは多神教の世界である日本であれ、一神教の世界である欧米(イスラム)であれ変わらない。
それは、演劇や祭祀を例にしてみれば分かる。
演劇では一つの「情況」(「設定」・「お約束」・「暗黙の了解」など言い換えはご自由に)が設定され、それを前提にして、また、その前提を当事者全員が承知したうえで成立する。
よって、その「虚構」の設定に対して「それは『虚構』だ」などと言っても意味がない。
また、「『虚構』であるから云々」などと言ったら演劇が成立しないことを考慮すれば、「それを『虚構』だ」と言い続けるものは排除せざるを得ない。
そして、一定の「情況」の上で演じられた演劇などにより、人が感動すること、または、人の行動に一定の影響を与える力になることは否定できない事実である。
よって、問題は「ここで『虚構』を許すのか、『虚構』を許さないのか」になる。
例えば、演劇や祭祀、ゲームやアニメの世界でこれを許したところで問題はない。
ただ、日本的通常性に基づいて一つの秩序ができる場合、「空気」と「父と子の間の隠しあい」が生まれてしまう。
よって、この秩序が作成された場合、その「虚構」を維持するために劇場のような閉鎖性が必要になる。
つまり、この集団は「閉鎖集団」となるし、一種の情報規制をせざるを得ない。
だから、問題はこのような閉鎖集団が政治・経済・外交・軍事・科学(本書の例だと公害、最近の例ならコロナ禍等の公衆衛生や原発)などといった部門を支配し、また、「父と子の隠しあいの倫理」が成立した状態で意思決定をして大丈夫かということになる。
その結果は本書で出てきた戦艦大和や公害の例、現代のコロナ禍をめぐる惨状を見れば分かるだろう。
例えば、外交の例で考えてみる。
日本では、相手と関係を樹立するためには相互に隠しあいをしなければならないことになる。
しかし、それでは固定倫理世界における外交は成立しないため、虚構を前提として相手との関係を樹立することになる。
まあ、客観的に見た場合、このようにして関係を樹立したところで(客観的な)相手とは関係が断絶しているから、まあ、遠くない将来に破綻するわけだが。
本書にある日中国交回復のケースを用いて説明するとこうなる。
まず、「日中と国交を回復すべし」という「空気」が醸成される。
そして、中華人民共和国を父、日本側を子とする関係が成立する。
そのため、中華人民共和国側の都合の悪い現実を日本のマスコミが隠すという事態が生じる。
これぞまさに「子は父のために隠す」の典型例だろう。
もちろん、このように醸成された力によって一気に大きな成果を為し遂げることもあるし、逆に、一気に自分を破滅の淵に追いやることもある。
ただ、この力は「現実」という事実の指摘により瓦解しかねない。
そこで、この力を維持するためには「事実の指摘」を徹底的に封じる必要があり、「事実を見ない態度」を強制することになる。
そのためには、情報封鎖を行い、事実を指摘する者を非倫理的な人間として弾圧し、さらには、自己の無謬性をも確保せざるを得なくなる。
そして、「現実を見ない」という現象によりとんでもない悲劇をもたらしうるわけである。
以上が日本的通常性によって「空気」が醸成され、かつ、それによって「自由」を失っていく状況の説明となる。
そして、これは日本的通常性の規範において「自由」をどう評価すれば分からない、ということの現れでもある。
そのため、戦後の一時期、口にされた「自由」も水を差されて、実質的に無力化されてしまったということになる。
では、どうすればいいのか。
明治時代の近代化、戦後の民主化のような回心(コンバージョン)のような試みはなされたが、その結果を見る限り、今までやったことの繰り返しにしかならず、成功しないのだろう。
ならば、これまでとは異なる全く新しい何かを生み出す必要があり、そのキーになるのが「何にも縛られない自由な思考」ということになる。
確かに、歴史的に見て、人間は何かで縛っていた方が能率が上がる。
それは虚構による何かで縛ったとしても変わらない。
その能率と比較すれば、自由というのは「ノイズ」と見えてもしょうがないところあがる。
また、日本的通常性に起因する「空気」の支配から生じさせた力は、世界の趨勢に追いつけ追い越せという時代、例えば、明治の近代化や昭和の高度成長の時代には爆発的な力を発揮した(歴史をさかのぼれば、別の例だって見つけられるだろう)。
しかし、別の時代の趨勢であれば、この力は方向を失い、新しい偶像(臨在的把握の対象)を探して迷走を始めてしまう。
そして、力のスカラーの大きさを考慮すれば、一気に自壊の方向に働いてもおかしくない。
もちろん、その際に外に力が働くか、内側に力が働くかは分からないが。
この迷走を始めた力の暴走を止める、止められなくてもその被害を最小化するためには、「拘束を断ち切った自由な思考」と「自由な思考に基づく試行錯誤」しかない。
喩え、それがあまりに非効率的に見えるとしても。
そして、その際には「自分の通常性は何を基盤としているのか」・「自分の精神を拘束しているのは何か」を徹底的に探究することが必要になる。
すべてはここから始まる。
ヨーロッパで宗教改革の引き金を引いたマルティン・ルターのように。
本章の最後は、「空気」と「水」と「自由」の関係についてみていくことになる。
戦後の「自由」とは「『水』を差す自由」だった。
伝統的に見て日本の「空気」を崩すためには「水」が有効だったこと、「空気」で人々を拘束しようと考えた者たちが「『水』を差す者」を弾圧したことなどを考慮すれば、それはやむを得ないとも言える。
ただ、この「水」は「現実」であり、日本的通常性であり、新たな「空気」醸成の源泉でもあった。
そして、日本的通常性の持つ規範は「一君万民情況倫理」であり、「個人」と「自由」を許さない忠孝一致の世界であった。
そして、水は新たな「空気」を生んでしまうことになる。
以上、本章の2章までを読み進めた。
何度も繰り返しているが、すっげー勉強になった。
重要なのは「徹底した『前提』に対する探求」ということだろうか。
この辺の話は敗因21か条の「第10章_思想的不徹底」に通じる話かもしれない。
敗因21か条の話は具体論だが、今回は抽象論なので、抽象と具体が行き来できたのはよかった。
しかし、「空気」と「水」、なんとも素晴らしい表現である。
人間は「空気」と「水」がなければ生きられない。
そして、日本人の精神も「空気」と「水」の両方が必要なのだから。